私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

牧師室より5

牧師室より5

※以下の内容を毎日メールで配信希望者は、教会のメールアドレスまで「牧師室より、配信希望」とご一報ください。

※過去のものは右サイドのメニューバーの下の方の「牧師室より1、2、3、4」をご覧ください。

2025年9月20日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二2:13 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。

憎しみや争い、人を押しのけること、人を虐げることにふけっていれば、愛、平和、ともに生きる喜びを味わうことはできません。神さまからの慰めも赦しも知ることができません。

人を人とも思わない生き方をしている人は、そのような神さまから離れた、荒廃した生き方が、すでに、その人への罰になっているのではないでしょうか。

人を愛する生き方をしている人は、そこにある平安がすでに、神さまからの恵みなのではないでしょうか。

不義は教会の中にも持ち込まれます。

コリントの教会では、貧富の格差があったようです。愛餐会でも、金持ちはおいしいものをたくさん食べ、大騒ぎをし、貧しい人は空腹のままだったようです。

わたしたちは、神さまの愛に背く生き方、神さまの恵みから程遠い生き方をしていないか、それを教会内にも持ち込んでいないか、つねにふりかえってみましょう。

2025年9月19日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二2:9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。2:10 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。

神さまを信頼し、神さまの支えと救いを希望とする人は、試練や苦難の中にありながら、ただそこにいるだけでなく、イエス・キリストとともにそこにいるのです。それを知っている人は、苦難にありながら、なんと幸いなことでしょうか。

たほう、自分の欲望のままに歩み、神さまを畏れず、信仰者を尊重しない人は、そのこと自体がすでに牢獄であり、そこに閉じ込められています。

わたしたち人間は、つねに、私利私欲、妬み、怒り、憎しみ、絶望にとらわれていて、そこからなかなか抜け出せないことは、誰もが経験しているのではないでしょうか。

さて、わたしたちはどうでしょうか。神さまを信頼する信仰をもって生きているでしょうか。それとも、神さまから離れ、他の人を大事にせず、ただ自分の思うままに過ごしているでしょうか。

わたしには、どちらの部分もあるように思います。

神さまから離れてしまい、人を愛せない自分の罪をつねに告白しつつ、苦難の日でも、いや、苦難の日こそ、神さまを信頼して、神さまの救いとインマヌエル(神さまがともにいてくださること)を希望として、生きぬくことをお許しください、と祈ります。

2025年9月18日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二2:5 また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。2:6 また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。2:7 しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。2:8 なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。

わたしたちは、「不信心な者たち」「みだらな言動」「よこしまな行為」の「不道徳な者たち」でしょうか。それとも、「義を説いていたノアたち」「正しい人ロト」「正しい心」でしょうか。

わたしには、神さまを信頼し、神さまの義に従って生きていくことが大切だという思いがありますが、同時に、自分は不信心で、言動や行為、道徳に問題があるという反省もあります。

神さまは、このペトロの言葉を通して、わたしたちに罪の告白を促してくださり、悔い改めて、神さまを信頼し、神さまの義に従って生きるように導いてくださり、さらには、それゆえに受ける苦しみに耐える希望を与えてくださっているのではないでしょうか。

2025年9月17日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二2:3 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。2:4 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。

「欲が深く、うそ偽りであなたがを食い物にしている」とは、「偽教師」のことです。

現代のキリスト教会でも、「教師」と呼ばれる者、牧師は、所有欲、支配欲、成功欲、名誉欲、自己顕示欲などから自由であるべきです。また、教会に集う人びとを自分の欲望達成の手段、材料にしていないか、つねに吟味すべきです。

「偽教師」は昔から存在し、今も存在するでしょう。けれども、神さまはその人々の罪を明らかになさって来た、とペトロは言います。「教師」、牧師は、つねに、自戒しなくてはならないのです。

教師の欲とうそによって教会の人々が傷つくということは、教会の歴史上、しばしば起こっているようです。

たほう、神さまは、教師への正当な戒めなどによって、教会の民を守ってこられました。

2025年9月16日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二2:1 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、2:2 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。

「滅びをもたらす異端」を持ち込み「自分たちを贖ってくださった主を拒否」する「偽教師」とはどのような人々でしょうか。

「異端」「主を拒否」という言葉からは、教えに問題があったようにも思われますが、どういう教えなのかはここには記されていません。

むしろ、倫理、道徳の問題をペトロは指摘しています。

「彼らのみだらな楽しみ」(2:2)、「彼らは欲が深く、うそ偽り」(2:3)、「汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩む」(2:10)をペトロは問題視しています。

ところで、ここでペトロが述べているわけではありませんが、神さまは唯一ではない、世界の創造者ではない、イエスはキリストではない、救い主ではない、神さまと御子から出る聖霊が今この世界とわたしたちに働いていない、聖書は神さまの御言葉ではない、と教える者がキリスト教会にいれば、その者をキリスト教の教師と呼ぶことはできず、むしろ、キリスト教においては偽教師でありましょう。

2025年9月15日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

「預言の言葉」とは、救い主イエス・キリストの到来(ベツレヘムで生まれて、復活し、天に帰られるまでのご生涯)と、再臨(天から、ふたたび、この地にお越しくださること)を告げる聖書の言葉のことでしょう。

今苦しみの中にある人びとのところに、救い主イエス・キリストがお越しくださる!

このメッセージは、闇の中を歩く人びとの行く手を照らすともし火です。

聖書のそれぞれの言葉は、「神さまはわたしたちを創造し、愛し、導き、救おうとしてくださる」という聖書全体のメッセージに照らしあわせて読んでみるのが良いでしょう。

2025年9月14日 主日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。

天に帰られたイエス・キリストがふたたび地上にお越しになられ救いを完成してくださることを、わたしたちは信じていますが、それは作り話ではない、とペトロは言います。

なぜなら、ペトロはその前触れを目撃したからです。

マタイによる福音書
17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

この経験によってペトロはイエス・キリストがふたたびお越しくださり、救いを完成してくださることを確信しているのです。

わたしたちも、イエス・キリストがもう一度お越しくださり、その栄光をこの地にお示しくださることを、あらためて信じようではありませんか。

2025年9月13日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:13 わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。
1:14 わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。
1:15 自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。

ペトロは自分の体を「仮の宿」と呼び、イエス・キリストと同じように、やがて「仮の宿」を離れなければならないことを承知していると言います。

そして、自分が去った後も「あなたがた」に忘れてほしくないメッセージを伝えるように務めると言うのです。

それはどのようなメッセージなのでしょうか。

1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。

イエス・キリストは神さまの御子として、わたしたちに永遠の命と信仰のすべてを与えてくださいました。

1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。

信仰、徳、神さまを知ろうとすること、自制、忍耐、信心、愛を通して、わたしたちは、永遠の命と信心を与えてくださった主イエス・キリストの救いの御心をますます知るようになります。

ペトロは、生きている間に、これらをしっかり伝え、自分が天に帰った後も、地上の人びとが覚えていることを祈り求めて、宣教を続けます。

わたしたちは、ペトロのこの祈りと宣教によって、イエス・キリストの救いの恵みにあずかっています。

2025年9月12日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:12 従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。

「これらのこと」とは、6~7節の「信仰」「徳」「知識」「自制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」を指すと思われます。

ペトロは手紙の受取人たちに、これらのことを思い出すように促しています。

わたしたちも、神さまを信頼し、自分以外の人を思いやり、神さまを知ろうとし、自分を抑え、耐えがたいものを耐え、神さまの前でへりくだり、憎しみではなく愛に基づいた言動をするように、促されているのではないでしょうか。

ペトロは、これらを思い出すように促すだけでなく、これらを「あなたがたは既に知っている」と言い、これらは「授かった真理」だと言います。

つまり、神さまは、じつは、わたしたちに、信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛を、すでに、「真理」として授けてくださった、というのです。

わたしたちが、人間的努力によって、信仰、忍耐、愛を獲得するのではなく、神さまがすでにわたしたちにこれらを「真理」として授けてくださった、というのです。

わたしたちは、自分には徳はない、自制や忍耐は難しいと言うのではなく、ましてや、神さまを信頼しなかったり、相手を思いやらなかったり、自分の衝動に流されたり、人を憎んだりするのではなく、神さまが授けてくださった信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛に基づいた言動に立ち帰りたいと思います。

2025年9月11日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:10 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。1:11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

「いっそう務めなさい」「実践すれば」とありますが、これは、6~7節の「信仰」「徳」「知識」「自制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」を指すと思われます。

神さまを信頼し、人を大切にし、神さまを知ろうとし、自分を制し、耐えられないこと耐え、神さまの前でひれ伏し、人を愛する。

これらのことをつねに祈り求めるならば、罪を赦される前の、神さまを神さまとも思わず、人を人とも思わない状態に戻ることはないでしょう。

むしろ、神さまや隣人と愛で結ばれる、「救い主イエス・キリストの永遠の御国」に生かされていることが明らかになるでしょう。

2025年9月10日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:8 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。1:9 これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。

「これらのものが備わり、ますます豊かになる」とありますが、「これらのもの」とは、直前の5~7節で述べられている「信仰」「徳」「知識」「自制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」のことでしょう。

わたしたちのなかでこれらのものが豊かになるなら、わたしたちは主イエス・キリストの御心を、より深く知る、より深く味わうことになるでしょう。

わたしたちは、イエス・キリストによって、罪を赦されました。

罪とは、神さまと隣人から、わたしたちの心が離れてしまうことです。

不信仰、不徳、神さまを知ろうとしないこと、放縦、自己中心、憎悪、無関心にわたしたちが陥るなら、罪が赦されたことがむなしくなってしまいます。

わたしたちは罪を赦された者として、信仰、徳、神さまを知ること、自制、忍耐、信心、愛をつねに祈り求めましょう。

2025年9月9日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:4 この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。

ここで言われる「情欲」、そして、その正反対の「神の本性」とはどのようなものでしょうか。

1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

ここで、信仰、徳、知識(神さまを知ること)、自制、忍耐、信心、兄弟愛があげられています。

わたしたちが「神の本性」にあずかれば、これらが、わたしたちににじみ出てくることでしょう。

反対に「情欲に染まった」ままですと、何も信じられない、不徳、神さまと出会わない、自分勝手、忍耐力がない、憎悪というような事態に陥ってしまうことでしょう。

わたしたちは、「情欲」ではなく「神さまの本性」に従うように、祈り求めましょう。

2025年9月8日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

ここで、「主イエスは」「神の力を持つ」とペトロは言っています。つまり、主イエスを通して、神さまの力が働いている、と言っているのであり、さらには、主イエスは神さまです、という信仰を示唆しているのかもしれません。

イエスさま、そして、神さまの力によって「わたしたちに与えられた」「命と信心にかかわるすべてのもの」とは、わたしたちの生命と生活と人生と信仰、さらには、永遠のいのちのことではないでしょうか。

「わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方」とは、神さまのことでしょうか。イエスさまのことでしょうか。両方のことでしょうか。

いずれにせよ、わたしたちは、神さまやイエスさまがわたしたちに与えてくださるもの、してくださることを通して、神さまやイエスさまを「認識」し、知り、出会うのです。

2025年9月7日 主日

おはようございます。

今日から、ペトロの手紙二に入ります。

1:1 イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。1:2 神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

「シメオン・ペトロ」とは「シモン・ペトロ」と同じことで、シモンが生まれたときからの名前、ペトロはイエス・キリストと出会っていただいた名前ということでしょう。

わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」とありますが、神さまとイエス・キリストがわたしたちを救ってくださった、ということがまずさきにあって、そして、それにともない、「尊い信仰を受けた」とあります。

つまり、ここでは、あくまで、ここではですが、信仰ゆえに救われたとは言っておらず、まず、神さまが救ってくださり、信仰も与えてくださった、それに応じて、わたしたちはその信仰を受けとった、と言っているように思われます。信じて救われる、という順序だけでなく、ここで言われているように思われる順序も大切ではないでしょうか。

「神とわたしたちの主イエスを知る」とありますが、これも、神さまと主イエスがご自分をわたしたちにお示しくださる(啓示)から、わたしたちは知るのです。

神さまと主イエスがご自身をわたしたちにお示しくださり、わたしたちは知り、それにともない、神さまの「恵みと平和」が「ますます豊かに与えられ」るのです。

わたしたちは「知る」こと以外は受け身であり、あくまで神さまとキリストのなさることであり、「知る」ことさえ、神さまのわざが先にあって、それにともなうわたしたちの応答なのです。

2025年9月6日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:14 愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。

この手紙(ペトロの手紙一)の最後の言葉です。

教会や社会、家族において、キリストはこの人とも手をつないでおられる、この人は目に見えなくても神さまにつながっている、この人は神さまとわたしの大切な存在である、という思いをもって、すなわち、愛を持って、人と向き合い、人に語り、人と交わるところには、神さまの平和、神さまのシャロームが満ちることでしょう。

2025年9月5日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:12 わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。

ペトロがここで「これこそ神のまことの恵み」と述べている神さまの恵みとはどのようなものでしょうか。

1:10 この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。
1:11 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。

このふたつの節からは、神さまの恵みとは「キリストの苦難とそれに続く栄光」のことだと読み取れます。

5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。

また、このふたつの節からは、わたしたちはこの世において苦しみを抱えているが、神の家族も同じ苦しみを経験している、だから、苦しみのなかで悪魔の誘惑(偶像、お金、自分の力、目に見えるものなど、神さまではないものに頼ろうとする誘惑)に抵抗しなさい、苦しみはしばらく続くが、神さまが強め、力づけ、やがてそこから救い出してくださる、これが神さまの恵みであるというメッセージが読み取れます。

2025年9月4日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。5:11 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。

神さまはあらゆる恵みの源です。

神さまは、イエス・キリストによって、わたしたちを永遠のいのちへと招いてくださいました。

わたしたちは苦しみます。

しかし、わたしたちが苦しんでいるときこそ、神さまは、わたしたちを強め、力づけ、揺らがないようにしてくださいます。苦しみを乗り越えられる者にしてくださいます。

わたしたちの真の力は、わたしたち自身の力ではなく、神さま御自身の力なのです。

わたしたちは無力でも、神さまがわたしたちの力になってくださいますから、何事も恐れることはないのです。

2025年9月3日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:8 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

キリスト教そのものが国や社会から迫害を受けるときがあります。家族などから信仰に反対されるときもあります。

悪魔は巧妙で、信仰や「正しさ」の名を借りながら、わたしたちを神さまから遠ざけようとすることがあります。わたしたちの、たんなる自分の思いを、悪魔は「神さまのために」という名目にすりかえようとします。

大切なことは、信仰に「しっかり踏みとどまる」ことです。これは、自分の思いではなく、神さまの御言葉と御心に踏みとどまることです。

わたしたちは、御言葉の前で救われますが、それは、わたしたち人間の思いが裁かれることでもあります。

わたしたちだけでなく、信仰の家族が、悪魔の誘惑と戦い、ただ、神さまの御言葉に委ねようとしています。

イエスさま御自身が、荒れ野で、ゲツセマネで、悪魔と戦い、ただ主にお委ねすることで、それに打ち勝ってくださいました。

イエスさまが、わたしたちを悪魔から、まことの神さまへと、連れ戻してくださいます。

2025年9月2日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 

わたしたちはいろいろなことを思い煩います。 

今のこの苦しみを耐え抜くことができるだろうか。 

あした、しなければならないことがあるが、うまくできるだろうか。 

どうしてもこうなってほしいと心に願っていることがあるが、そのとおりになるだろうか。 

失敗するのではなかろうか。 

病気に苦しむのではなかろうか。 

生活がうまくいくだろうか。 

誰からも認められないのではなかろうか。 

自分は大事にされていないのではなかろうか。 

こうしたことは、すべて、主に委ねましょう。

とペトロは言います。 

なぜなら、わたしたちのこれらの不安を神さまはすべて知っていてくださって、ともに背負ってくださるからです。 

あなたのその重荷は、あなたひとりが負っているのではありません。 

主があなたとともに負っておられます。 

とペトロは言います。

2025年9月1日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。

これは、たんじゅんに、年少者は年長者に服従しなさい、ということではありません。

「同じように」とあるのは、ペトロは長老たちにも「神に従って」「献身的に」「権威を振り回さずに」(5:2-3)などを指すのでしょう。

つまり、年少者も年長者も、自分を誇らず、主イエスのように自らを低くしなさい、と言うのです。

また、神さまの御手に従う者として、謙遜になりなさい、と言うのです。

年長者は自分には経験がある、知識があると驕らず、年少者の努力や感性や才能や考えや気持ちを尊重すべきでしょう。

年少者は、年長者がただ古臭いこと、面倒なこと、難しいことを言っているように思えるだけでなく、ずっと大事にしてきたこと、考え抜いてきたこと、傷つきやすさや、どうじに、いつまでもみずみずしい感性があることを知るべきでしょう。

2025年8月31日 主日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

牧師は信徒や教会に来る人びとに権威を振り回してはなりません。この人びとは牧師の所有物でも生徒でも使用人でもありません。神さまが信頼して委ねてくださった家族です。

「自分を模範とせよ」などと威張ってもなりません。もし、牧師を通して、神さまやイエスさまの愛、そして、愛と信仰の生き方の何かが伝わったとしたら、それは、神さまの恵みによるのです。

牧師は目に見える世界では「牧師」つまり「牧人」「牧者」と呼ばれていますが、目に見えない真の牧者、羊飼いは、神さまでありイエスさまです。

だから、神さまは「大牧者」と呼ばれます。「大牧者」は「牧師」たちの牧者という意味もありますが、真の牧者という意味が大事でしょう。

「大牧者」、真の牧者である神さま、イエスさまが、すべての羊を牧してくださいます。そこには、信徒、信徒でない人びと、牧師が含まれます。

2025年8月30日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。

ペトロは自分を、キリストの十字架の受難の証人であり、「やがて現れる栄光」にあずかる者である、と言います。

ここには、この手紙の読者にたいして、あなたたちは今苦しんでいるが、やがてそこから救われる栄光にあずかる希望を与えられている、という示唆が含まれているのではないでしょうか。

ペトロは、手紙をあてた教会の長老たちに勧めます。

教会員は神さまの羊であるから、強制ではなく、神さまの愛の御心に従って、大事にしなさい、私利私欲や自己満足ではなく、神さまと人に自身をささげなさい、と。

この言葉によって、牧師は自分の罪を繰り返し確認し、同時に、そこからの赦しと派遣をあらたに受けなくてはならないでしょう。

2025年8月29日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一4:19 神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

イエス・キリストを信じるゆえに苦しみを受けている人も、そうでない理由で苦しんでいる人も、わたしたちを創造してくださり、わたしたちのまことの主である神さまに、わたしたちの魂を委ねましょう。

できることはするにしても、自分の力で何かをどうにかしなければならないと思い詰めるのではなく、ただ神さまにお委ねするのです。

わたしのこの苦しみを神さまは知っていてくださり、わたしとともに、わたし以上に苦しんでくださり、やがて、この苦しみから解放してくださり、苦しみの間も、わたしと一緒にいらしてくださることを信じましょう。

2025年8月28日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。

イエス・キリストを信じるゆえに、あるいは、イエス・キリストの愛と正義と平和の御心に従って生きるゆえに、信仰を持たない人や他の信仰者から非難される人の上には、神さまの霊がとどまってくださいます。

社会や家族から妨げられてもキリストを信じる人、まわりから理解されなくても神さまを信じるゆえに戦争や暴力、差別に反対する人とは、キリストの霊がともにおられますから、幸いです。

人を殺したり傷つけたり人から盗んだりして罰を受け自分が苦しむ場合もありますが、ただキリストを信じるゆえに苦しみを受ける場合もあります。

イエス・キリストは、すべて苦しむ者と苦しんでくださいますから、キリストゆえに苦しむ人とも苦しんでくださり、それはその人にとっては祝福なのです。

2025年8月27日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

わたしたちの人生には、ときおり、大きな苦難が訪れます。

それは、イエス・キリストを信じるゆえの苦しみであったり、それとは違う苦しみであったりします。

しかし、わたしたちが苦しむとき、イエス・キリストがわたしたちと一緒に苦しんでくださることには変わりはありません。

今どんなことで苦しんでいようと、その理由がなんであろうと、イエス・キリストはわたしたちと一緒に苦しんでくださり、やがて、そこから導き出してくださることでしょう。

今は真夜中のように思えても、イエス・キリストは真夜中にもともにいて、ともし火となってくださり、やがて、朝の光の中へ導き入れてくださることでしょう。

2025年8月26日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

神さまはわたしたちひとりひとりに賜物を授けてくださいました。それは何かが得意であるとか、何かができるとかいったことに限りません。

あなたがここに生きている、存在していることそのものが賜物であり、あなたが生きている、存在していることそのものが、誰かの喜びで、そのことで誰かに仕えていることになるのです。

そんな人は誰もいないと思える場合もあるかもしれませんが、神さまとイエスさまは、あなたの存在、あなたが生きていることを、なによりも喜んでくださいます。

わたしたちひとりひとりが感謝して生きることが神さま、イエスさまへの奉仕=サービス=礼拝なのです。

そして、わたしたちひとりひとりが主に感謝して生きることは、栄光を主に帰(き)すことです。

栄光は、自分ではなく、神さまのものである、とすることです。

栄光は、わたしたちに帰すものではありません。

わたしの真実、正しさ、誉、栄光などは放棄して、

主の真実、正しさ、誉、栄光を、ただ主に帰すのです。

わたしは背景にひっこみ、主が真ん中に立たれるのです。

2025年8月25日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。

万物の終わりのことを「終末」と言います。終末は神さまの最終的な裁きと救いの時と考えられていますが、いつ来るかはよくわかりません。イエスさまが天に帰られてまもないころの1世紀の教会では、すぐにでも来るように考えていた人たちもいたようです。

キリスト教の二千年の歴史の中でも、具体的にいついつに来るという考えが何度か登場したようですが、いつかはわからない、ただ「いつかくる」ということだけは忘れないようにしよう、という考えもあった(ある)ようです。

終末において神さまは「生きている者と死んだ者とを裁く」(4:5)とペトロは言います。

それにそなえるにはどうしたらよいのでしょうか。

「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝」(4:3)も戒められていますが、もっと一般的に言えば、「思慮深くふるまう」(相手の心を思うということか?)、「身を慎む」、「よく祈る」「もてなし合う」ということが、今日の箇所では言われています。

それは「心を込めて愛し合う」とまとめられています。

わたしたちは、いつでも、神さまの前に立っていることを忘れないで、「心を込めて愛し合う」「心構え」(4:1)を、言い換えれば「正しい良心を願い求め」(3:21)ましょう。

2025年8月24日 主日

おはようございます。

ペトロの手紙一4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方」とは、神さまのことです。

この箇所の解釈はいろいろありえますが、わたしは、「死んだ者」にも神さまが関わってくださるということと、「裁く」という言葉が「救う」と重なっていることに、希望を置きたいと思います。

さらに「死んだ者にも福音が告げ知らされる」というのも吉報です。

これも、勝手な思いですが、生者よりも死者の方が福音を受け入れやすいのではないでしょうか。

わたしたち人間は、五感に縛られていて、生きているときは目に見えないイエス・キリストと出会っても気づかないことが多いのですが、死者は自身も目に見えない存在であり、同じく目に見えないキリストと出会いやすいような気がします。死者は五感に頼らない分だけ、キリストの霊には敏感なのではないかと。あくまで勝手な考えですが。

しかし、神さまのなさること、神さまの救いは、わたしたちの思いをはるかに超えていることはたしかでしょう。

2025年8月23日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一4:1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。

「肉に苦しみを受ける」とはどういうことでしょうか。「人間の欲望にではなく」とあり、「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲」とありますから、人間的・肉体的快楽を断つ、ことを指しているようにも思われます。

しかし、キリストの苦しみと関連付けられていますから、わたしたちが人生において受ける苦難とも重ねられているのかもしれません。

いずれにせよ、「あなたがたも(キリストと)同じ心構えで武装しなさい」とあります。それは「人間の欲望」や「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝」を断つことのようにも思われますが、もっと積極的には、「心を込めて愛し合いなさい」(4:8)ということでしょう。

わたしたちのこれからの人生は「心を込めて愛し合う」というキリストと「同じ心構え」で生きたいと思います。

それは、上から目線で何かを「してあげる」ということではなく、相手と同じところに、あるいは、相手より下に立って、相手の気持ちを考えながら、相手に寄り添うことではないでしょうか。

相手の気持ちなどわかるものではないかもしれませんが、自分の思い、価値観の押しつけになっていないか、考えることはできるでしょう。

自分の思いにとらわれないで、しもべとして相手に仕える、キリストの心構えを少しでも祈り求めます。

2025年8月22日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

ペトロの手紙を受け取る人びとは、信仰ゆえに、大きな苦しみを抱えていたようです。

何らかの迫害があったのかもしれません。

しかし、わたしたちの主であるキリストは、天からすべてを治めておられ、手紙を受け取る信仰者を苦しめる人びとも、キリストの支配下にあるのだから、何も恐れることはないというのです。

わたしたちも人から苦しめられたり、さまざまなことで苦しんだりしますが、世界のすべては神さまの愛の支配下にあり、神さまの愛がわたしたちに及ばないようなところはありませんから、恐れることはないのです。

何事があっても恐れなくてもよいのです。

主がともにおられます。

たとえ、わたしたちが恐れても、主は恐れるわたしたちを包み、守ってくださいます。

2025年8月21日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

ペトロのこの手紙は、イエス・キリストを信じるゆえに苦しんでいる人びとを励ますために書かれたのではないでしょうか。あなたたちは今とても苦しんでいるが、それはあなたたちが悪を行なって罰を受けているのではない、と。

キリストも、十字架の上で苦しまれましたが、それは、わたしたちを罪から救い出してくださるためでした。

キリストは、ご自身が悪をなしたのでもなければ、その罰を受けたのでもありません。

わたしたちの罪を背負ってくださり、そこから救い出してくださるために、キリストは十字架で苦しんでくださったのです。

それは、キリストを通して、わたしたちが神さまの愛を知り、神さまに立ち帰るためです。

キリストの肉は死に渡されましたが、キリストの霊は、神さまによって復活したのです。

あなたたちの肉も今苦しんでいるが、あなたたちの霊、すなわち神さまとのつながりは、けっして滅びることはない。だから、神さまを信頼しつつ、この苦しみの時を、通り過ぎなさい。とペトロは励ましているのです。

これは、いつかやがて救われる、死んだ後救われる、ということだけでなく、この苦しみのただなかにあっても、神さまはあなたたちとともにいらしてくださる、イエス・キリストが十字架で、あなたたちとともに苦しんでくださる、という励ましなのです。

2025年8月20日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。

「主」とは、天の父と御子イエス・キリスト、聖霊の三位一体の神さまのことです。

世界とわたしたちを創ってくださった創造主(天の父)、神さまから離れていたわたしたちをふたたび神さまにつないでくださった救い主(御子イエス・キリスト)、今日もわたしたちとともにいて働きかけ祈りと賛美と御言葉と愛に招いてくださるお方(聖霊)のことです。

わたしたちは、このことを、穏やかに、あせらずに、少しずつ、相手のペースにあわせて、自分の思いではなく、相手に伝えていくことが大切です。

わたしたちが伝えると言うよりも、御言葉自身が人びとに語りかけることを、わたしたちが妨げないこと、わたしたちが「つまずき」や「妨げ」(ロマ14:13)にならないことが大事です。

作家の井上ひさしさんは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」と言ったようです。

聖書はかならずしも難しいとは限りません。神さまの言葉は「福音」というように「うれしいメッセージ」です。

神さまからのうれしいメッセージは、やさしく、ふかく、よろこばしく伝わっていくことでしょう。

2025年8月19日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。

わたしたちが善いことに熱心であるなら、わたしたちは誰からも、何ものからも苦しめられるはずはない、とわたしたちは考えます。

それにもかかわらず、わたしたちは何かのことで苦しんでいます。

イエス・キリストを信じるゆえに、苦しむこともあります。

この信仰を妨げられたり、否定されたりすることもあります。

あるいは、神さまが助けてくださらないように思えたり、自分の信仰が弱く思えたりして、苦しむこともあります。

しかし、ペトロは、信仰ゆえに苦しむのであれば、幸いだと言います。

それは、神さまは苦しむ者を見捨てておられない、神さまは苦しむ者とともにおられ、ともに苦しんでおられることを知っているからです。

わたしたちが出会う苦しんでいる人は、じつは、神さま御自身、イエス・キリスト御自身が苦しんでおられるのではないでしょうか。

わたしたちが苦しんでいる時、神さま御自身、イエスさま御自身が、ともに苦しんでくださっておられるのではないでしょうか。

ですから、わたしたちは、わたしたちを苦しめる人や、わたしたちを苦しめるものを恐れたり、心を乱してはならないのです。

いや、たとえ、わたしたちが恐れ、心を乱しても、わたしたちとともにおられる主は、何ものをも恐れず、どんなときでも、わたしたちのたしかな平安、シャロームでいてくださいます。

2025年8月18日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:10 「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、3:11 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。3:12 主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

ペトロはこれを詩編34編13-17節から引用しました。

舌を制す。悪を言わない。偽りを語らない。

悪から遠ざかる。

善を行なう。平和を願う。

善と平和を追い求める。

これらも、愛と並んで、神さまに属する知恵、神さまからの知恵でしょう。

神さまの目は、神さまの示してくださる正しさを求める者にも、そうでない者にも、向けられます。

神さまの正しさを求める者の祈りは聞かれ、

そうでない者も、自分本位の「正しさ」であったことに気づかされ、

やがて神さまの正しさへと導かれることでしょう。

2025年8月17日 主日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。3:9悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

わたしたちの言葉は、人を侮辱するためではなく、祝福するために与えられたのです。

足は、人を蹴るためではなく、倒れている人に駆け寄るために、
手は、人を叩くためではなく、握手をするために、手当をするために、
口は、誹謗中傷ではなく、歌うために、神さまを賛美するために、
文明は、戦争のためではなく、平和のために、
心は、疑うためではなく、信頼するために、
人生は、神さまに生かされ、隣人と生きるために、

わたしたちが持てるものは、心を一つにし、共感しあい、愛しあい、
人の痛みをわが痛みとし、謙虚になるために、神さまがくださいました。

このすばらしい主の恵みに感謝いたします。

2025年8月16日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。3:7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。

ここでも、妻は夫に何でも聞き従わなくてはならない、というのではありません。

大事なことは、「善を行なう」こと、つまり、神さまの愛の御心に添って生きることであり、また、「何事も恐れない」こと、つまり、神さま以外のものを恐れないことです。

さらには、これは夫にも求められることです。

相手に「弱さ」があるのなら、むしろ、それを大事にし、相手を理解しながら「生活を共にし」、相手も主からの「命の恵みを共に受け継ぐ者」として尊び、たがいのことを祈りあうことが大切なのです。

夫婦のみならず、人と人とが、たがいに心を配りあい、祈りあい、支えあうことが、主の御心なのです。

2025年8月15日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一3:1 妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。3:5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。

これは、妻は夫の言うことには逆らわず何でも従いなさい、妻は夫の部下の如くなりなさい、ということではありません。

むしろ、この少し先に出てくる以下の精神が大事でしょう。

3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

配偶者が自分に悪や侮辱をなしても、悪や侮辱で応じてはならない。むしろ、愛と憐れみと謙虚さと祝福と祈りでこたえなさい、ということでしょう。

2025年8月14日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

キリストはわたしたちの罪を背負って十字架にかかられました。それによって、わたしたちは、わたしたちの罪によってではなく、神さまの義(恵み、救い)によって生かされるようになったのです。

キリストが十字架で受けられた傷によって、わたしたちは罪の奴隷から、神さまのしもべへと創り変えていただいたのです。

わたしたちは飼い主のいない羊のようにさまよっていましたが、いまや、神さま、イエス・キリストが、迷えるわたしたちの魂の羊飼いとなってくださいました。

この神さま、イエス・キリストの御言葉は、毎日毎日、わたしたちを慰め、希望を示し、今日も生かしてくださいます。

2025年8月13日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

イエス・キリストが罪を犯したことがなく、口に偽りがなかったとは、どういうことでしょうか。

それは、自分を苦しめる人びとに対しても誠実でありつづけ、十字架の上でも神さまにすべてをお委ねになったということです。

つまり、どこまでも、神さまを愛し、隣人を愛し続けたということです。

キリストは、捕らえられ十字架刑に処せられるまで、どんなに苦しめられても、ご自分を苦しめる者を罵倒することなく、苦しみに耐えぬかれました。

キリストは、最後まで、神さまを信頼し続けました。

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉さえ、神さまはご自分をお見捨てにならないという信頼に裏付けされていました。

ペトロは、今、苦しんでいる人びとに向けて、キリストがともに苦しんでくださる、苦しみは苦しみに終わらず、神さまがかならずそこから救い出してくださる、だから、この苦しみを乗り越えることができる、と励ましのメッセージを送っているのではないでしょうか。

2025年8月12日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。

これは、どんなにひどい目にあっても、がまんしてそれを受けなさい、ということではありません。

たとえば殴られているならば、逃げてもよいのです。逃げなければならないのです。

けれども、逃げるにも逃げようがない場合があります。

ペトロのこの言葉は、逃げたくても逃げられない苦しみを受けている人びとを、キリストにおいて、励ましているのです。

2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

不当な苦しみを受け、しかも、そこから逃れようのない人びとに、パウロは、キリストがあなたがたと一緒に苦しんでくださるから、どんなに苦しくてもきっと耐え忍ぶことができる、と励ましているのです。

わたしも、これまでの人生で、かならずしも不当とは言えず、自分にも問題があったようにも思いますが、心身を引き裂かれるような一年二年を、歯をくいしばりながら、気晴らしをしながら(しかし、根底には苦しみが横たわっていますが)、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント12:9)というキリストの御言葉に涙を流しながら、十字架でわたしとともに苦しんでくださるキリストに魂の奥底を静かに慰められながら、乗り越えることを許されてきました。

「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」

わたしたちが苦しいとき、キリストはその苦しみをたしかに知ってくださり、キリストはわたしたちの何倍も苦しみながら、わたしたちとともに歩いてくださいます。

キリストとともに十字架を背負い、苦しみのトンネルの出口へと歩きぬきましょう。

出口は遠くありません。あの先に小さな光が見えてきました。

2025年8月11日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

これは、「国や政治が決めたことなら、何でも従いなさい」という意味ではありません。

ここでは、国や政治の目的は、「神の御心」をなすことである、と言われています。

神の御心とは、「善を行なうこと」「愚かな者たちの無知な発言を封じること」だとあります。

「無知な発言」とは、神さまを畏れず、自分の利益を求め、自分の思いが正しいと言い張るようなことだと思われます。

また、政治の目的は、わたしたちが「自由な人として生活」することであり、自由とは、横暴な権力者の意向に左右されず、神さまの愛と平和の御心に従って生きる自由のことでしょう。

その自由は、神さまを無視し、悪をなす自由ではなく、むしろ、「神さまのしもべ」としてお仕えする自由です。

すべての人を」敬愛し、神さまにお仕えする。

国や政治、為政者がこのために働いてくれるのであれば、わたしたちは喜んでそれに従いましょう。

2025年8月10日 主日(日曜日)

おはようございます。

ペトロの手紙一2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

お金、地位、能力、人からの評価というような、この世のもの、人間のものではなく、神さまをこそ根本の支えとして生きようとする者は、この世的価値観にどっぷりつかった「住民」ではなく、そこでは「旅人」「仮住まいの身」なのです。

この世的価値観、人間的思いは、肉の欲となり、わたしたちの魂に戦いを挑んで来ますが、わたしたちはそれにとらえられてはなりません。

わたしたちの支えは、この世的価値ではなく、目に見えない神さま、人間的感覚を越えた神さまだからです。

わたしたちは、この世的価値観が支配する世界においても、この世的生活に浸ってしまうのではなく、神さまをこそまことの支えとし、神さまの愛の恵みと愛の戒めにこそ沿った、信仰の生活を送りましょう。

そのような生活は、この世的価値観からは奇妙に思われても、じつは、神さまを証ししているのであり、やがて、その証を通して、この世的価値から神さまの御国の価値観に導かれる人びとも出てくることでしょう。

2025年8月9日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:9 あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

「選ばれた」とありますが、これは「神さまの方から手を伸ばしてくださった」ということでしょう。まず、神さまが手を伸ばしてくださり、わたしたちは「神のもの」「神の民」としていただいたのです。

つまり、神さまはわたしたちを「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった」のです。伸ばしていただいた神さまの手に気づかない生き方から、それに気づいてそれを深い喜びとする生き方へと変えていただいたのです。神の民であるわたしたちはこれを広く伝えたいのです。

わたしたちは皆神の民ですが、かつてはそれを知らず、しかし、今はそれに気づいた神の民とされています。

神さまはわたしたちを皆深く愛してくださいますが、かつてはそれを知らず、しかし、今はそれに気づいて神さまの愛、憐れみを深く味わって喜んでいます。

2025年8月8日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、2:8 また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。

イエスさまは、十字架につけられました。

当事のユダヤ社会から捨てられたのです。

多くの人々は、そんなイエスさまをキリスト=救い主であるとは信じませんでした。

しかし、このイエス・キリストが、わたしたちの根本の支えとなってくださったのです。

キリストは、家を支える土台の基礎石のように、揺れ動くことのないたしかなお方です。

このキリストを信頼すれば、わたしたちも支えられ、どんな困難の中にあっても、希望を失うことはありません。

2025年8月7日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

乳飲み子のようなわたしたちは、混じりけのない霊の乳(2:2)を「味わい」、キリストが「恵み深い方」であることを知りました。

ペトロは、このキリストのことを、「人びとからは見捨てられたが、神さまに選ばれた、尊い、生きた石」だと言います。

神さまが地上に住まわれる目に見えない家、教会の基礎となる石に、キリストはなられたというのです。

そして、わたしたちも「生きた石」として、教会という神さまの家、霊的な家の材料に用いられるようにしなさい、と言うのです。

言い換えれば、十字架で苦しめられたキリストが目に見えない神さまの家の基礎石となったように、いま何かでとても苦しんでいるあなたも神さまの家の材料として大切だと言うのです。

その苦しみはとても大きいですが、あなたを支えてくださり、大切にしてくださる神さまの恵みも、とても大きいのです。



2025年8月6日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口。

心の中がこんなものでいっぱいの時は、わたしたちは、たしかに、「救われる」ということから遠くにいるように思えます。

しかし、そういう時は、「混じりけのない霊」を胸いっぱい吸い込みたくなる時でもあるのではないでしょうか。

心にたまってしまった悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を、声に出さずに、息とともに、すーっと口から吐き出してしまいましょう。

そうすれば、善意、真実、尊敬の空気が鼻から胸に自然に入って来て、心は聖なる霊に満たされることでしょう。

聖なる者となる」(1:15)とは、聖なる霊に促されて、善意、真実、尊敬に生きることではないでしょうか。

2025年8月5日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

わたしたちは、「朽ちる種」、つまり、わたしたち人間のなすことによってではなく、「朽ちない種」、つまり、「神の変わることのない生きた言葉」によって、信仰と洗礼において、神さまにつながった新しいいのちへと生まれました。

イザヤ書にこうあります。

40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

民、すなわち、わたしたち人間のなすことは、草花のようにやがて朽ちますが、神さまの御言葉は朽ちることはありません。

神さまの御言葉は、神さまの恵みであり愛であるイエス・キリスト御自身のことでもあります。

わたしたちは、神さまの生ける御言葉であるイエス・キリストによって、神さまにつながる新しいいのちへと生まれたのです。

2025年8月4日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

わたしたちは、真理、すなわち、神さまの愛、イエス・キリストの救いを受け入れました。

そして、それまでは自分中心に生きていましたが、神さまがご自身のことよりわたしたちのことを第一にしてくださるように、わたしたちも、隣人を大事にする霊をいただきました。

このように、わたしたちの中で霊が実を結んでいる(ガラテヤ5:22)のですから、「清い心で深く愛しあいなさい」とペトロは言うのです。

「聖なる者となる」(ペトロの手紙一1:15-16)とはこのようなことでしょう。

2025年8月3日 主日(日曜日)

おはようございます。

ペトロの手紙一1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

ペトロの手紙の時代の人びとも、わたしたちも、キリストを「救い主」、わたしたちを救ってくださる「主」と告白しますが、このお方を「主」と呼ぶことは、このお方が「創造主」、天地を創造された「主」であるという告白でもあるのです。

「キリストを死者の中から復活させる」力は神さまの創造の力ですが、キリストもラザロなど死者を復活させる力を現わしておられ、それも創造の力でもあり、「救い主」は「創造主」でもあるのです。

このように、キリストにおいて、神さまの創造の力と救いの力が現われます。

わたしたちは、このキリストが、わたしたちの人生の道を、何度でも、創造してくださると、心から信頼し、どんな挫折においても、ここにこそ、希望を見いだすのです。

2025年8月2日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

神さまが創造主であることを知らず、世界や自分は偶然できたものだと思い、神さまが愛してくださることを知らず、自分は誰からも愛されていないと思い、ただ物資的な快感や人の誉め言葉を渇望するむなしい生活から、わたしたちを救い出してくださったのは、キリストであり、金でも銀でもありません。

金や銀は、今は輝いて見えても、やがて朽ち果てます。

しかし、キリストは朽ち果てません。永遠です。

金や銀のようなむなしいものは、わたしたちをむなしさから救い出してくれません。

金や銀は、傷つき、孤独なわたしたちを救ってくれません。

キリストは、十字架につけられ、わたしたちと同じように、わたしたち以上に、深く傷つき、どん底の孤独を引き受けてくださいました。

キリストがそうしてくださったので、わたしたちは傷と孤独から、救われるのです。

いや、すでに、救われているのです。

2025年8月1日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。1:17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。

旧約聖書のレビ記にはこのように書かれています。

11:45 わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。

主はイスラエルの民をエジプトから導き出し、十戒を授けました。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」などの前半は「あなたの神を愛しなさい」と、「殺してはならない」などの後半は「あなたの隣人を愛しなさい」と要約されると言えるでしょう。

神さまが聖なるお方であなたたちを救い出してくださったから、あなたたちも神と隣人を愛する聖なる者となりなさい、と言うのです。

ペトロが神さまを「人それぞれ行いに応じて公平に裁かれる」方と述べていることは、十戒を思い出させます。

聖なる神さまはわたしたちを愛してくださるのですから、わたしたちも神さまと人を愛する聖なる生き方を祈り求めましょう。

2025年7月31日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。

わたしたちは、神さま、イエスさまを知らなかった頃の自分中心の欲望に負けてしまわず、神さま、イエスさまの御心に従おうとする者となりなさい、とペトロは言います。

わたしたちを救いへと召し出してくださった神さま、イエスさまは聖なるお方ですから、わたしたちも聖なる者となりなさい、とペトロは勧めます。

では、聖なる者とはどういうことでしょうか。

「聖」とは、神さまが人間とはまったく異なるお方であることを意味する、と言われています。

そして、このペトロの手紙一の文脈で考えますと、「聖なる生活」とは、「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱き、清い心で深く愛し合う」(1:22)ことや、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」(2:1)ことを指すと思われます。

神さま、イエスさまがわたしたちに対してそのようなお方でいらしてくださることに倣って、わたしたちも他の人々に対して、少しでもそのような者であろうと努めましょう、とパウロは勧めるのです。

2025年7月30日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

わたしたちの目には見えませんが、イエス・キリストは、いつも、わたしたちとともにいらしてくださいます。わたしたちは、それを、確かに知っています。それでも、わたしたちは、イエス・キリストのすべてを知っているわけではありません。

けれども、やがて、イエスさまのお顔をはっきりと見る日がきます。

コリントの信徒への手紙一13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

わたしたちは、その日をひたすら待ち望みましょう。

おおみそかの夜のように、つねに喜びと新しい心をもって、待ち望みましょう。

イエスさまの救いはかならずはっきりと現れます。

その日までも、イエスさまはいつもいっしょにいらしてくださいます。

わたしたちをどんな時でも愛し続けてくださいます。

2025年7月29日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:11 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。

旧約聖書の預言者たちは、キリストの霊によって、キリストの苦難と栄光を知らされていた、とペトロは言います。

ここで、「キリストの苦難」が述べられていることは、この手紙においてとても重要です。

神さまは、父・子(キリスト)・聖霊の三位一体の神さまですから、イエスさまが誕生される前から、つまり、世界の最初から、キリストはおられます。

そのキリストの霊によって、旧約聖書の預言者たちは、イエスさまの苦難と栄光、つまり、イエスさまの十字架の死と復活を示されていた、とペトロは言うのです。

そして、それは、旧約の時代の人びとのためではなく、ペトロのこの手紙を読んでいる、新約の時代の人々のためである、と言うのです。

また、キリストの苦難と栄光、十字架と復活という「福音」(喜びの知らせ)は、(旧約の場合「キリストの霊」でしたが、新約の場合)「聖霊」の働きによって、わたしたちに伝えられた、とペトロは言うのです。

ペトロは、「キリストの霊」と「聖霊」の働きを、ひとりの神さまのお働きとして述べているのではないでしょうか。


2025年7月28日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:6 今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

わたしたちも、しばらくの間、いくつかの試練に悩まされるかもしれません。

しかし、信仰が朽ちることはありません。

信仰は、精錬された金よりも尊いからです。

わたしたちは、目に見えないキリストを愛し、信じています。

そして、キリストによって、わたしたちは言葉を越える喜びに満たされています。

なぜなら、わたしたちの魂はキリストによって救われているからです。

魂の救いは信仰の実りであり、信仰は魂の救いの実りです。

信仰は、キリストによる魂の救いの実りであるから、試練にも朽ちることはないのです。

2025年7月27日 主日(日曜日)

おはようございます。

ペトロの手紙一1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません。

今とても苦しいことがあり、さらなる試練も続くかもしれない人びとに対して、ペトロは語りかけています。

この苦しみや試練にもかならず終わりが来る、その日は神さまの救いの完成の日になる、と。

その日まで、あなたたちは、「神の力によって」「信仰によって守られている」と。

大事なことは、神さまがこの苦しみをかならず乗り越えさせてくださる、ということと、その神さまを信頼することでわたしたちはこの今を守られる、ということです。

神さまの力によって守られるということと、信仰によって守られるということは、ひとつのコインのふたつの面のようなものであり、信仰もじつは神さまの力に由来するのです。

つまり、わたしたちはやがて神さまによって完全に解放され、その日までも神さまがお守りくださるのです。

2025年7月26日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙一1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

ここには、神さまからのわたしたちへの恵みが三つ書かれています。

ひとつめは、神さまはわたしたちを深く慈しんでくださり、わたしたちは、洗礼によってあらたないのち、神さまとつながったいのちをいただいた、ということです。

ふたつめは、イエスさまの復活によって、わたしたちも死では終わりではなく、永遠の命に入れられるという希望です。

また、地上の生涯においても、倒れても、また、倒れても、それで終わりではなく、ふたたび、起き上がらせていただく、という希望です。

みっつめは、神さまは、わたしたちのため、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を天に蓄えてくださり、わたしたちは、やがて、それを神さまから受け継がせていただくということです。

2025年7月25日 金曜日

おはようございます。

今日から「ペトロの手紙一」をご一緒に読みましょう。

ペトロの手紙一1:2 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

「神があらかじめ立てられた御計画」「選ばれた」とは、「誰が救われ誰は救われないという予めの決定」というよりは、「救いは人間の力ではなく、わたしたちを救おうとなさる神さまの恵みの御心によるもの」という意味だと思われます。

「“霊”によって聖なる者とされ」とは、聖霊によって救われる、ということ、「その血を注ぎかけていただく」とは、イエス・キリストの十字架によって救いの約束が結ばれた、ということではないでしょうか。

神さまの恵みの御心、聖霊の働き、イエス・キリストの十字架によって、つまり、三位一体の神によって、わたしたちは救われ、「イエス・キリストに従う」者とされます。

わたしたちにはすでに「恵みと平和」が与えられていますが、ペトロはそれがますます豊かになることを祈ります。

2025年7月24日 木曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙6:17 だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

・・・自分の力で律法を守らなければ神さまに救っていただけない、律法に従って割礼を受けなければならない・・・

このようにガラテヤの信徒を惑わす人びとに悩まされたパウロは、それは違う、わたしたちが神さまに救っていただくのは、神さまの恵み、イエス・キリストの真実、イエス・キリストへの信仰によるのだ、と主張します。

わたしたちには、割礼ではなく、「イエスの焼き印」をこの身にいただいているのだと。

そうです! わたしたちには、「主イエス・キリストの恵み」(18節)が刻印されているのです。

アーメン。アーメン。アーメン。

2025年7月23日 水曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

わたしたちは自分の力で律法を守り人の手によって割礼を受けることによってではなく、神さまの恵み、イエス・キリストの真実、イエス・キリストへの信仰によって、新しく創造され、神さまのふところに受け入れられ、救われるのです。

わたしたちは、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けることによって、神さまを信頼し、賛美し、祈り、御言葉に聞く生活へと、新しく創造されるのです。

イスラエルは、神さまに選ばれ導かれる小さな民族として始まりましたが、いまや、イエス・キリストを信じる者が、「神のイスラエル」とされました。

イエス・キリストの体である教会に連なる者は「神の民」なのです。

この民に神さまは「平和と憐み」をくださいました。

そして、この民は世界に「平和と憐み」をもたらす使徒とされたのです。

2025年7月22日 火曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

わたしたちは、自分の持っているものやできることを誇りたがります。自分で自分を救おうとします。

しかし、わたしたちの真の誇りは、わたしたちに属するものではなく、主イエス・キリストの十字架だけです。

主イエス・キリストの十字架だけが真の誇りであり、この世や肉、つまり、わたしたち人間に属するものは、わたしたちを救ってくださる真の誇りになり得ません。

主イエス・キリストの十字架、キリストの真実、キリストへの信頼、神さまの恵みのみが、わたしたちを救ってくださる真の誇りなのです。

2025年7月21日 月曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

「自分の肉に蒔く」とは、自分の力で律法を守ることや、肉体に割礼を受けることで救われようとすることでしょう。そのような人は、「滅びを刈り取る」、つまり、神さまから遠く離れてしまうとパウロは言うのです。

「霊に蒔く」とは、自分の力ではなく、神さまの恵み、イエス・キリストの真実を信頼することで神さまの救いを求めることでしょう。このような人は、そこから「永遠の命を刈り取る」、つまり、神さまのふところに迎え入れられるとパウロは言います。

だから、自分は自分の力で自分を救えるような「ひとかどの者」(6:3)などと思わず、神さまに対して謙虚になり、神さまの恵みとイエス・キリストの真実を慕い求め、また、人に対しても謙虚になり、「柔和な心」(6:1)を持つようにしましょう、とパウロは勧めます。

2025年7月20日 主日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

自分は正しい!と人に誇る人は、逆に言えば、相手を大事にしていないか、見くだしているので、隣人を愛するという、キリストの愛の律法からは遠いのです。

6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

わたしたちは、自分を誇らず、むしろ、「自分はとるに足らない者である」という荷を、重くても負うべきなのです。

イエス・キリストも、わたしたちのこの重荷を、いっしょに負ってくださいます。

2025年7月19日 土曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

「何かの罪に陥った」者を「正しい道に立ち帰らせる」と聞くと、上にいる者が下の者を指導するように聞こえますが、そうではありません。

なぜなら、「柔和な心で」「互いに」とあるからです。

「キリストの律法を全うする」とあります。自分の力で守って自分を救おうとするための「モーセの律法」は、いまや、キリストの真実、キリストへの信仰、霊によって導かれる「キリストの律法」「キリストの愛の律法」となったのです。

これは、これまでの流れで考えますと、「霊の導き」によって「隣人を自分のように愛する」ことでありましょう。

2025年7月18日 金曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙5:16 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。

パウロは「 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる」(5:14)と言いましたが、これは律法を守ることで救われるというのではなく、隣人愛は「霊の導き」によるものだと強調しています。

そして、霊は肉に反すると言います。ガラテヤの信徒への手紙において「割礼」に代表されるように「肉」は「律法」と密接に関連しています。

つまり、パウロの言う「隣人愛」は「霊の導き」によるものであり、「肉」「律法」とは反対に位置付けられているのです。

5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

18節から19節の流れを見ますと、律法と肉が結び付けられています。

そして、律法と肉からは、「争い、そねみ、怒り、利己心、不和」など「隣人愛」とは正反対のことが生じるというのです。

5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。

「霊の結ぶ実」は、神さまの恵み、キリストの真実、キリストへの信仰から生まれてくるもののことでしょう。その筆頭には「愛」が挙げられています。

5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

26節の「うぬぼれ、挑み合い、妬みあいをやめましょう」は、14節の「隣人を自分のように愛しなさい」と表裏一体です。

そして、これは、律法によるのではなく、「霊の導き」、神さまの導き、キリストの真実、キリストへの信仰によって導かれる、とパウロは言うのです。

2025年7月17日 木曜日

ガラテヤの信徒への手紙5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

パウロは「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの真実によって義とされる」(2:16)(聖書協会共同訳参照)と言っておきながら、律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句に集約される、とも言うのです。

しかし、これは、自分の力で律法を守ることで救われる、ということではありません。

5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。

つまり、「隣人を自分のように愛しなさい」という意味は、この律法を自分で守ることで救われるのではなく、「イエス・キリストの真実」、霊の導き(4:6など)、それによる信仰によって、わたしたちは救われるように、キリストの真実、霊の働きによって、わたしたちは隣人を愛する生き方へと導かれるというのです。

「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、わたしたちがこれから救われるための交換条件ではなく、わたしたち、すでに救われた者が導かれる生き方なのです。

2025年7月16日 水曜日

おはようございます。 

ガラテヤの信徒への手紙5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 

「キリスト・イエスに結ばれるためには」ではなく「キリスト・イエスに結ばれていれば」とあることが重要です。 

「愛の実践を伴う信仰」は、「キリスト・イエスに結ばれるため」の条件ではなく、「キリスト・イエスに結ばれている」ことの結果であり、応答なのです。 

5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 

自分の力で律法を守らなければ救われないという束縛から、イエス・キリストに救い出され、わたしたちは、束縛されたものではなく、自由な者にされました。 

ですから、何か行動をするにしても、自分の力で自分を救おうと律法を実行する、ということではなく、そのような束縛から自由にされた者として、神さまと隣人への愛によって互いに仕えあうことが大切なのです。 

わたしたちは「仕えあわなくてはならない」のではなく「仕えあうことができる」自由をいただいたのです。

2025年7月15日 火曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

律法を守ることに代表されるように、わたしたちが(キリストではなく)自分の力で神さまに認められようとするなら、わたしたちはキリストという神さまの恵みから離れてしまうことになります。

5:5 わたしたちは、義とされる希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて、切に待ち望んでいるのです。

わたしたちが神さまに受け入れられるのは、律法ではなく、“霊”によるものであり、信仰に基づく、とパウロは言います。

律法の実行が自分の力によるものであるなら、霊と信仰によるとは、(自分ではなく)キリストという神さまからの恵みによるものではないでしょうか。

わたしたちは自分の力で救われるなどという無知や傲慢に陥らず、神さまの恵み、キリストの信実、その結果いただく信仰によって救っていただいていることを、ただ感謝するのです。

2025年7月14日 月曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

自分の力で自分を救う、自分が律法を守ることで神さまから救いをいただく。

このような不可能なことに自分を束縛してしまう。

パウロはこれを「奴隷の軛」と呼びますが、イエス・キリストは、わたしたちをこの苦しみから自由にしてくださった、と言うのです。

だから、そこにもどってはならないと。

わたしたちは、神さまの恵みとキリストの信実、信仰によって救われたのに、救いのための条件を自分の力で果たそう、というとらわれにもどってはならないのです。

わたしたちは、むしろ、神さまの恵みとキリストの信実、いただいた信仰によって救われた者として、その感謝として、また、その結果として、キリストを信頼し、神さまと隣人を愛する生き方を祈り求めましょう。

2025年7月13日 主日

おはようございます。 

ガラテヤの信徒への手紙4:21 律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。4:22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。 

自分の力で律法(の戒め)を守らなければ神さまに救っていただけないと考える人たちに、パウロは言います。あなたたちは律法(の伝える物語)には耳を傾けないのですかと。 

律法とは旧約聖書の戒めだけでなく、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をも指します。そして、創世記はアブラハムの二人の息子について伝えています。 

ひとりは奴隷である女性から、もうひとりは奴隷ではない自由な女性から生まれました。 

4:31 わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。 

わたしたちは、戒めを守らなければならないという思いに束縛される律法の奴隷ではなくなりました。

わたしたちは、いまや、律法ではなく神さまの恵みと信仰による救いを約束された者、律法の束縛から自由にしていただいた者なのです。

2025年7月12日 土曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。

イエス・キリストの信実とそれによる信仰によってわたしたちは神さまに受け入れられるという真理をパウロは語りました。しかし、自分の力で律法を守ることによって人は救われると熱心に主張する者たちは、ガラテヤの信徒をこの真理から引き離そうとしました。

その者たちは、福音の真理ではなく、ただ自分たちにガラテヤの信徒をひきつけたいだけだとパウロは言います。

4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。

それゆえに、パウロは、イエス・キリストの福音をあらためてガラテヤの信徒に伝えようと、なんとかもう一度キリストの真理に連れ戻そうと、苦しみながら、この手紙を書いているというのです。

2025年7月11日 金曜日

おはようございます。 

ガラテヤの信徒への手紙4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。

 「体が弱くなった」「わたしの身には、あなたがたたにとって試練ともなるようなことがあった」とはどういうことでしょうか。 
パウロは病気を患い、それは、悪性の慢性病、マラリヤ、精神的疾患、眼病などではないか、と想像されています。 

けれども、それにもかかわらず、パウロは「福音を告げ知らせ」「神の使い、キリスト・イエスであるかのように受け入れられた」と言うのです。 

パウロの有名な言葉が思い出されます。 

「主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙二12:9-10)。

神さまは、わたしたちを弱さ、苦しみから強さ、喜びへと導いてくださるだけでなく、わたしたちが弱く苦しんでいるときにこそ、わたしたちの弱さ、苦しみの中に、一緒にいてくださることで、その恵みをあきらかにしてくださるのです。

2025年7月10日 木曜日

おはようございます。 

ガラテヤの信徒への手紙4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

 「もともと神でない神々」「無力で頼りにならない支配する諸霊」「に奴隷として仕える」とはどういうものでしょうか。

 わたしたちにとってこれは、偶像、迷信、占いなどだけでなく、お金や地位、自分の能力などに、神さま以上の信頼を置き、それを、根本の頼みにしてしまうことではないでしょうか。 

神さまがともにいらしてくださる、神さまが無償で愛してくださる、神さまがシャロームを与えてくださる、神さまが希望となってくださる。 

これが、わたしたちの根本の支えなのです。 

わたしたちは、自分で神さまを知っているようですが、じつは、神さまに知られているのです。 

わたしたちが神さまを信じているようですが、じつは、神さまがわたしたちに対して信実でいらしてくださるのです。

2025年7月9日 水曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

神さまの御子イエスさまは神さまを「アッバ、父よ」と呼ばれました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。

このように神さまに叫び、同時に、委ねるイエスさまの霊を、神さまはわたしたちの心にも送ってくださったのです。

ですから、わたしたちは、律法に束縛された奴隷の身から解放され、「神の子」とされたのです。

一般に奴隷は主人の財産を相続できないように、わたしたちも律法の奴隷のままでしたら、神さまの祝福を受けることができませんが、わたしたちは、いまや、奴隷ではなく「神の子」とされたのですから、神さまの祝福をいただくのです。

「神の子」とされたこと自体が、神さまからのおおいなる祝福です。

わたしたちは、「神の子」として、神さまに受け入れられているのです。

2025年7月8日 火曜日

おはようございます。

わたしたちは「神の子」です。しかし、神の子としていただく前はわたしたちは何だったのでしょうか。

ガラテヤの信徒への手紙4:1 相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、4:2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。4:3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。

わたしたちは「神の子」として父である神さまの祝福を相続することになったのですが、その前は、「未成年」であり、律法という「後見人」によって「管理」され「監督」されていたのです。いわば、律法の「奴隷」となっていたというのです。

けれども、神さまの救いの時が来て、御子イエス・キリストが、人間の子として生まれました。

律法の奴隷となっていたわたしたちを救うために、キリストも律法の奴隷である人間にお生まれになったのです。

しかし、このことによって、わたしたちは律法の「奴隷」の身から救い出され、神の「子」としていただいたのです。

わたしたちは、もはや何かの「奴隷」ではありません。

わたしたちは「神の子」なのです。

2025年7月7日 月曜日

おはようございます。

今日の御言葉は、とくにすばらしいです。 是非お読みください。

ガラテヤの信徒への手紙3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

パウロによると、わたしたちは皆、信仰と洗礼によって

1)キリスト・イエスに結ばれている
2)神の子である
3)キリストを着ている
4)人種、民族、身分、性別にかかわらず、キリスト・イエスにおいてひとつ
5)キリストのもの
6)アブラハムの子孫
7)神さまがアブラハムに約束した祝福の相続人

とされているのです。

なんとすばらしい恵みでしょうか。

2025年7月6日 主日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:24 律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

律法を完全に守って自分の力で神さまに救われようとしても、それが不可能であることを、律法自身から教えられます。

そして、そのことによって、律法は、結果として、わたしたちをキリストのもとへと導くことになるのです。

パウロは「キリストのもとへ導く」を「信仰が現われる」と言い換えています。

つまり、神さまが与えてくださった律法はわたしたちがそれを守れないことで結果的にわたしたちを「キリストのもとへ導く」のですが、それは、「信仰が現われる」つまり信仰の方が向こうからわたしたちのところに来てくれることでもあるのです。

すなわち、神さまは、わたしたちに律法を与えてくださり、キリストのもとへ導いてくださり、信仰をもたらしてくださるのです。

信仰も、また、神さまがわたしたちに与えてくださるめぐみなのです。

2025年7月5日 土曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

律法と約束の違いがここでも述べられています。

律法は、神さまの御言葉ですが、わたしたちに届く際に、モーセという人間や石や文字の仲介を経ています。

それに対して、救いの約束は、神さまの約束であり、人間の仲介なしに、神さまおひとりによって、御子イエス・キリストによる救い、恵みによる救いの(文字ではない)出来事として、成就されたのです。

神さまの約束に基づく救いの出来事は、人間の仲介なしに、神さまの恵みのお力によって、イエス・キリストにおいて起こるのです。

わたしたちが、ただこれに感謝し、このイエス・キリストを信じるとき、この救いはわたしたちの中に、はっきりと表れるのです。

2025年7月4日 金曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)とありますから、ここでパウロが言う「相続」とは、神さまから義とされる、救われることでしょう。この義、この「恵み」は、律法ではなく、神さまの「約束」によって与えられるのです。

3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

パウロによれば、律法は、「約束を与えられたあの子孫」つまりキリストが来られるまで、違反つまり律法を完全に守れない人間の罪を明らかにします。

つまり、パウロによれば、律法はわたしたちが罪人であることを明らかにし、キリストは恵みによってわたしたちを罪から救ってくださるのです。

2025年7月3日 木曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。

創世記にこうあります。「17:7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする」。

これは、神さまがアブラハムに言った言葉ですが、パウロはこの「子孫」をキリストのことだと解釈します。つまり、神さまは人を救うという約束を、アブラハムと、また、のちに、キリストを通してなした、とパウロは言うのです。

これは、神さまがモーセに律法を授けた時よりも430年前のことであり、律法よりも、アブラハムへの契約の方が有効だとパウロは言うのです。

3:17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。

創世記にはこのようにもあります。「15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

つまり、神さまは、アブラハムを義と認めた(救った)のは、律法の行いによるのではなく(律法はまだありませんでした)、アブラハムの神さまへの信仰によるのだ、と言うのです。

律法なしに、アブラハムとキリストを通して立てられた神さまの救いの約束は、律法によって反故にされない、つまり、信仰による救いの約束は、律法(による救いという考え)によって、無効になることはない、とパウロは言うのです。

2025年7月2日 水曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

律法をすべて守って自分の力で自分を救おう。神さまの力ではなく自分の力で自分を救おう。このようなことに束縛されることを、パウロは「律法の呪い」と言います。

けれども、キリストが「木にかけられる」つまり十字架にかけられ、わたしたちに代わって、その身に「呪い」を受けてくださったことで、わたしたちは「律法の呪い」から解き放たれた、というのです。

3:14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。

わたしたちは、もはや、「律法を守らなけば救われない」という呪いから解かれた、なぜなら、律法ではなく、キリストによって、信仰によって、救われるからだ、とパウロは言います。

モーセに律法が与えられる400年以上前に、神さまはアブラハムに乳と蜜のあふれる土地と星の数ほどの、あるいは、浜辺の砂の数ほどの子孫を与える約束をしました。これは、神さまの大いなる祝福を意味し、イエス・キリストにおいては、神の国、永遠の命としてあらわされます。

「約束された“霊”」もこの大いなる祝福、神の国、永遠の命を意味し、パウロは、それは、信仰によって、わたしたちに与えられる、と言うのです。

2025年7月1日 火曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは明らかです。なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からです。3:12 律法は、信仰をよりどころとしていません。

これは、「わたしたちは誰も自分の力で自分を神さまの前で義とすることはできません。自分の力で自分を救おうとする者は、神さまの恵みとそれによる信仰をよりどころとしていないからです。つまり、神さまの力に委ねていないからです」と言い換えることができるでしょう。

信仰は神さまから与えられるものであり、わたしたち自身から出てきたものではありません。

信仰の強さは、自分の精神力や思い、念、こだわりの強さと混同されやすいかもしれません。

しかし、信仰は神さまからの恵みですから、信仰の真の強さは、自分の脳や心の中の何かの強さのことではなく、わたしたちの中に来てくださり、わたしたちの中に宿ってくださる、聖霊の強さのことなのです。

わたしたちは、自分のなす「善行」や自分の思いの強さによってではなく、わたしたちに働きかけ、宿ってくださる神さまの霊の強さによって、救われる、神さまのふところに抱かれることが許されるのです。

2025年6月30日 月曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

3:9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

パウロは、律法の行いではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちは義とされた、と言う福音を説きますが、それは、パウロより1800年くらい前のアブラハムに由来する、と言います。律法はパウロより1300年くらい前に与えられたと考えられますから、アブラハムが神さまを信じる信仰は律法より古いのです。

3:10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

律法のすべての戒めをどんな時でも守ることなどわたしたちには不可能ですから、律法を実行することで神さまに義と認められようとする者は、呪われているとパウロは言います。

これは、人を殺す者だけでなく人に腹を立てる者も裁きを受ける、というイエスさまのお言葉に、通じているのではないでしょうか。

わたしたちは、律法を完全に守ることはできません。わたしたちの救いは、ただ、神さまの愛であり、恵みである、イエス・キリストにあるのです。

2025年6月29日 主日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

わたしたちは、自分の考えや行動によって、つまり、肉によって、また、律法を守ることによって、自分を救うことができません。

そこで、神さまは、御子イエス・キリストをつかわしてくださり、キリストの生涯と十字架と復活によって、わたしたちは救われました。

つまり、わたしたちの救いは、霊、すなわち、神さまによって始まったのに、肉、すなわち、自分の力、律法の遵守によって救われようとすることにもどってしまうのか、とパウロは訊いているのです。

3:5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

わたしたちが律法を行なったからではなく、福音(イエス・キリストの生涯と十字架と復活)を聞いてキリストを信じたから、神さまは聖霊を遣わして、わたしたちに救いの奇跡をなしてくださった、とパウロは言うのです。

2025年6月28日 土曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙3:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。

わたしたちは、神さまの国を宣べ伝え十字架につけられ復活なさったイエス・キリストとの信頼関係によって救われたはずなのに、律法を守らなければ救われない、とガラテヤの人たちを惑わした人たちがいました。

しかし、わたしたちが"霊"を受けたのは、律法を行なったからではなく、イエス・キリストのうれしい知らせ(福音)を聞いて信じたからです。

この"霊"は、御子イエス・キリストの霊であり、キリストとともに、わたしたちを神さまに向かって「お父さん!」と叫び求めさせてくださる霊、つまり、わたしたちを神さまの子としてくださる霊です。

わたしたちはイエス・キリストの福音を聞いて信じ、それゆえに、わたしたちを神さまの子としてくださる霊をいただいているのです。

2025年6月27日 金曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

神さまによって「義とされる」とは、神さまに救っていただく、受け入れていただく、ということです。

それは、わたしたちが律法を守ったご褒美ではありません。神さまの救いは、わたしたちのなす何かへの、神さまの見返りではありません。

神さまの救いは、ただ、神さまの恵み、恩寵、愛、つまり、イエス・キリストの生涯と十字架と復活によって、わたしたちに与えられるものです。

それを忘れて、わたしたちが自己努力によって救われようとすれば、キリストの十字架の死を無意味にしてしまうことになるのです。

しかし、キリストは無意味ではありません。

キリストの恵みによってわたしたちは救われています。

わたしたちはそのキリストを信じます。

また、救われたことに感謝しつつ、わたしたちは、神さまを信頼し、隣人に少しでも仕えようとします。

2025年6月26日 木曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

パウロはかつて律法を守ることで自分の力で救われようとしていましたが、そのような自分はキリストと共に十字架につけられて死んだと言います。

そして、今、自分の内には、自分ではなく、キリストが生きていてくださる、と言うのです。

自分が自分がという自分中心の自分は死んで、キリストが自分の中に生きていてくださると言います。

それは、神の子イエス・キリストがわたしを愛し、わたしのためにご自身をささげてくださり、そのイエス・キリストと、信仰のつながりによって、深く結ばれているからだ、と言うのです。

2025年6月25日 水曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。

わたしたちは、キリストによって義とされ(神さまに受け入れられ)ました。

それなのに、自分が律法を守ること、つまり、自分の行動や力によって、神さまに義とされようとするなら、後戻りすることになってしまいます。

わたしたちは、律法を守ることで、つまり、自分の力で、生きているのではなく、神さまによって、生かされているのです。

わたしたちが神さまにつながっている(すなわち、真の意味で生きている)のは、自分の努力の結果ではなく、神さまの愛(恵み、恩寵、イエス・キリスト)によるのです。

2025年6月24日 火曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:16 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

「キリストへの信仰」は「キリストの信実」とも訳すことができます。

つまり、「わたしたちがキリストを信じるから義とされる」という意味にも、あるいは、「キリストが神さまとわたしたちにとって信実なお方であるからわたしたちは義とされる」とも読めるのです。

しかし、キリストが神さまとわたしたちにとって信実なお方であることによって、わたしたちの信仰も与えられている、つまり、信仰もキリストからいただいたものである、と考えるならば、上のふたつの読みは矛盾しないでしょう。

いずれにせよ、キリストがわたしたちと信頼関係に入ってくださることで、わたしたちは神さまから義とされる、つまり、受け入れていただくのです。

律法を守ることによってではなく、わたしたちの功績、手柄によってでもなく、ただ、キリストとの信頼関係によって、わたしたちは、神さまのふところに受け入れていただくのです。

2025年6月23日 月曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:12 ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしました。2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。2:14 わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たのです。

ケファつまりペトロや他のユダヤ人信徒は、異邦人信徒と食事をするのをやめてしまいました。

というのは、ユダヤ人は、律法では、異邦人と食事をすることを禁じられていたのです。

これは、「福音の真理」にはのっとっていないことであり、「まっすぐに歩いていない」ことでした。

なぜなら、パウロにとって、福音とは、自分が律法を守ることによってではなく、神さまの恵みとその表れであるイエス・キリストによって、わたしたちは救われるということだからです。

この福音にのっとってまっすぐに歩いているのなら、異邦人との食事を拒否することはないのです。

2025年6月22日 日曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。

律法の定める割礼を受けた人びと、つまり、ユダヤ人への宣教をペトロに、そして、割礼を受けていない異邦人への伝道をパウロに託したのは、神さまご自身である、とパウロは言います。

2:9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。

そして、ペトロとパウロは、それぞれに異なる使命が神さまから与えられていることを尊重し合ったのです。

わたしたちも、相手の信仰が自分と異なるように思えても、相手の信仰も神さまから相手に与えられたものではなかろうか、という敬意を大切にしたいと思います。

2025年6月21日 土曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:5 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。2:6 おもだった人たちからも強制されませんでした。

「福音の真理」とは、人間が律法を守ることによってではなく、イエス・キリストの生涯と十字架、復活によって示された神さまの恵みによって救われる、ということです。

これに反対する者たちもいましたが、パウロは屈服も譲歩もしませんでした。

エルサレム教会のおもだった人たちは、律法を守るユダヤ人でしたが、この人たちも、異邦人には律法を強要しませんでした。すなわち、割礼も強いませんでした。

2:7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。

ペトロは「割礼を受けた人々」つまりユダヤ人にイエス・キリストの福音を宣べ伝え、パウロは「割礼を受けていない人々」つまりユダヤ人でない人々すなわち異邦人への宣教が委ねられました。

律法を守り割礼を受けることによってではなく、イエス・キリストに現れた神さまの恵みによって救われる、という福音と、これを信じましょう、という呼びかけは、異邦人にあったものでした。

2025年6月20日 金曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:4 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。

神さまを信頼しきれない。人を愛しきれない。これは罪であり、わたしたちはこの罪の奴隷になってしまっています。

また、この罪から抜け出すために、わたしたちは、自分で律法を守ろうとします。言い換えれば、神さまではなく自分の力で自分を罪から救い出そうとします。しかし、そうすればそうするほど、律法の戒めとは程遠い、わたしたちの姿が明らかになるばかりです。このように、わたしたちは律法の奴隷にもなってしまっています。

しかし、神さまは、わたしたちを罪から救い出すために、御子イエス・キリストをわたしたちのところに遣わしてくださり、キリストは十字架と復活によって、わたしたちを罪の束縛から救い出してくださいました。

こうして、わたしたちは、キリストによって、律法と罪から自由にしていただいたのです。

自分の力で律法を守ることではなく、神さまの救いの業であるキリストのご生涯と十字架と復活によって、わたしたちは、神さまと隣人を愛する者へと造り変えられ、自分で自分を救おうとする束縛から解き放たれたのです。

2025年6月19日 木曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙2:2 エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。2:3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。

パウロは、イエス・キリストを信じる者は義とされる(救われる)、キリストの信実によって救われる、という福音(良い知らせ)を宣べ伝えました。

したがって、異邦人(ユダヤ人でない人びと)は、旧約聖書の律法の定める割礼を受ける必要はない、と信じていました。

エルサレムの教会の人たちはユダヤ人で律法を大事にしていましたが、パウロから相談され、イエス・キリストを信じる異邦人は律法の定める割礼は受けなくてもよい、と認めたようです。

わたしたちは戒めをすべて守ったご褒美としてではなく、ただ、わたしたちを救おうとなさる神さまの愛と、その愛のあらわれであるイエス・キリストを信頼することで、救われるのです。

2025年6月18日 水曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。

わたしたち人間は、神さまを信頼しきれず、人を大事にしきれない罪人ですが、神さまの御子イエス・キリストがわたしたちの罪を負って十字架にかかり、復活してくださったことで、わたしたちの罪は赦されました。

このイエス・キリストを信じる者を神さまはみもとに受け入れてくださいます。

わたしたちの信仰は不十分ですが、神さまとキリストはわたしたちにゆたかな信仰をお与えくださいます。

これによってわたしたちは救われます。

パウロはかつて律法を守ることで、つまり、自分の力によって、神さまに救われようとしていて、このようなキリストによる救い、信仰による救いを滅ぼそうとしていましたが、キリストの光に照らされて、それまでの自分が倒されることで、信仰による救いを福音として告げ知らせるようになったのです。

2025年6月17日 火曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙1:13 わたしは徹底的に神の教会を迫害し滅ぼそうとしていました。1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたのです。

パウロは、最初、キリストを信じる教会を迫害していました。

しかし、神さまがパウロに御子イエス・キリストを示して、キリストによってわたしたちは救われた、という福音(うれしい知らせ)を異邦人(ユダヤ人以外の人びと)に伝える者とされたのです。

具体的には、パウロは旅の途中、天からの光に照らされ、「なぜ、わたしを迫害するのか」というイエスさまの声を聞いたのです(使徒言行録9:3-5)。

このキリストを自分に示してくれたのは神さまであり、キリストの福音を宣べ伝えるように生まれたときから神さまが恵みによって整えていてくださったことをパウロは知るのです。

わたしたちも皆、生まれたときから、神さまの御言葉とイエス・キリストを愛するように、神さまに導かれています。

2025年6月16日 月曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

「福音」とは「幸福な音信」つまり「うれしい知らせ」という意味です。

この手紙の著者であるパウロは「イエス・キリスト(へ)の信によって義とされる」(2:17)ことを「うれしい知らせ」「福音」と呼んでいます。ここは「イエス・キリストの信実」とも「イエス・キリストへの信仰」とも訳され得る箇所です。

つまり、「福音」とは、イエス・キリストが神さまとわたしたちに信なるお方であることによって、わたしたちは、神さまに受け入れられる、ということです。

あるいは、イエス・キリストに対してわたしたちが信なる(信頼している、信仰を抱いている)者であることによって、神さまに受け入れられる、ということです。

わたしたちの信仰はイエス・キリストから与えられたものですから、上のふたつは、同じ事柄のふたつの面を言っているとも言えるでしょう。

いずれにせよ、これは、イエス・キリストの「啓示」によって知らされました。

「啓示」とは、神さまがご自身をわたしたちにお示しになることですが、それは、イエス・キリストの誕生、生涯の言動、十字架、復活、召天によって示されている、とパウロは言うのです。

2025年6月15日 主日(日曜日)

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙1:10こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

わたしたちは「神さまに取り入ろう」としてはなりません。

「取り入る」とは「自分が有利になるように、力のある人に働きかけること」を言いますが、神さまはそんなものによって動かされるお方ではありません。神さまは、ただご自分の御心のみによって、わたしたちを愛し、救い、恵みをくださるのです。

わたしたちはまた「人に取り入ろう」としてもなりません。むろん、相手の気持ちや考えを尊重しよう、共感しようとする態度は、ひじょうに大切です。しかし、それは、相手に「取り入る」ことではありません。

相手の考えや思いを尊重しつつ、押しつけにならないようにわたしたちの信仰を控えめ気味に案内することは大事ですが、それは、相手に「取り入る」ことではありません。

ただ、相手を尊重することと相手に取り入ることの境目は微妙です。
わたしたちはわたしたちの信仰を大事にしつつ、相手も同じくらい大事にして、悩むくらい、ていねいに、イエス・キリストの福音を示していきたいと思います。

2025年6月14日 土曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音」「あなたがたが受けたものに反する福音」とは、パウロがガラテヤの人びとに伝えたものに反すること、を意味します。

それは、具体的にはどういうことかと言うと、2:21にこうあります。

「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」

つまり、パウロの伝えた福音(「福音」とは「良い知らせ」という意味)は、「神さまはただ神さまの愛によって、神さまの恵みによって、わたしたちを義としてくださる(神さまが受け入れてくださる)」ということです。

これに反するものとは、「人は、律法を守るという自分の行為によって、神さまに義とされる」という教えです。

この教えは、人間の力を神さまやイエス・キリストより上においてしまい、神さまとイエス・キリストをないがしろにしてしまうのです。

じじつ、わたしたちは、律法を完全には守り切れませんので、それによって義とされることはありません。

わたしたちを救ってくださるのは、ただ、イエス・キリストに現れた神さまの恵みだけなのです。

2025年6月13日 金曜日

おはようございます。

ガラテヤの信徒への手紙1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。

ガラテヤの信徒への手紙のなかでパウロが言う「キリストの福音」つまり「キリストからの喜びの知らせ」とは、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(2:16)ということです。

これは、神さまはわたしたちが善い行いを実行したご褒美として救ってくださる(わたしたちを受け入れてくださる)というのではなく、神さまはわたしたちがイエス・キリストを自分の救い主であると信頼すれば無条件で救ってくださるということです。

それを覆そうとする「ほかの福音」とは、律法を実行するご褒美として神さまに救われようとすることです。

善い行いをして、その見返りに神さまに救っていただこう、という思いは、わたしたちの中につねに潜んでいます。

しかし、神さまは、イエス・キリストを信頼する者を無条件に愛し、受け入れ、つまり、救ってくださることを信じ、わたしたちは、神さまのこの恵みへの感謝として、隣人を本当に尊重する生き方を心がけようではありませんか。

2025年6月12日 木曜日

おはようございます。 

ガラテヤの信徒への手紙1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

父なる神さまと主イエス・キリストの「恵みと平和」とはどんなものでしょうか。 

それは、4節にあるように、「わたしたちを罪とその結果の滅びから救う」という父なる神さまの御心であり、それにしたがって「わたしたちを罪とその結果の滅びから救う」ためにご自身の生涯といのちをささげてくださったキリストのお働きのことでありましょう。 

わたしたちは、自分の満足にではなく、この神さまとキリストの「恵みと平和」にこそ、栄光を帰すのです。

2025年6月11日 水曜日

おはようございます。

今日から「ガラテヤの信徒への手紙」をご一緒に読みましょう。

1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ

パウロは、イエス・キリストの福音をおおいに宣べ伝えましたが、じつは、地上でのイエス・キリストに会ったことはありません。その点が12弟子との違いであり、それを非難されたり、あるいは、自分でも引け目を感じたりしていたのかもしれません。

しかし、パウロは、自分は「人々からでもなく、人を通してでもなく」「イエス・キリストと」「父である神とによって」使徒とされたと自覚するのです。

わたしたちも、人間社会においてはとくに肩書がなかったり、人間関係においてはとても納得がいかないことがあったりしても、肩書など要らない、神さまの子、イエス・キリストに従う者であるということだけでじゅうぶんだ、人がどうのこうのではなくて、神さまとの関係でなすべきことをなしていこう、と考えようではありませんか。

わたしたちは、人からどう思われているかではなく、神さまがわたしを愛して、神さまの子の一人と数えてくださり、小さな者ですが、神さまがお用いくださることを大事にいたしましょう。

2025年6月10日 火曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙5:19 あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、5:20 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。

「ヤコブの手紙」の最後の節です。

わたしたちは神さまの元から生まれて来たのに、それを忘れて、自分のかたくなな想いだけで生きようとしてしまいます。

けれども、神さまは、イエス・キリストによって、わたしたちを神さまの元に連れ帰ってくださいます。それは、神さまがわたしたちを探しに来てくださることでもあります。

死とは生物としては生きていても心が神さまから離れてしまうことですが、このようにして、神さまはわたしたちを死から救ってくださいます。これが神さまの救いです。

神さまの救いとは、神さまから離れてしまうわたしたちを、神さまがご自分のもとに連れ戻し、あるいは、神さまがわたしたちのところにお越しくださり、神さまがいつもいつまでも、ともにいらしてくださることです。

このように神さまがわたしたちを無条件で愛してくださるのですから、わたしたちも自分のことばかりでなく、隣人の心に想いを向けましょう。

自分の想いによって隣人に何かをするのではなく、隣人の立場をよくよく配慮し、大事にいたしましょう。

神さまは、天の高いところにいるご自分の想いをわたしたちに上から伝えたのではなく、イエス・キリストの誕生と十字架によって、地上に生きるわたしたちと同じ立場に立ってくださり、そのようにして、わたしたちをご自分のもとに連れ戻してくださったのですから。

2025年6月9日 月曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

友が主によって癒されるように祈りましょう。

たとえ疾患の治療が思わしくなくても、神さまがその人を「起き上がらせてくださる」ことを信じて祈りましょう。

また、わたしたちは自分中心であり人を配慮せず、むしろ傷つけ、そのようにご自身を無とする神さまの愛の御心から離れてしまっていることを告白し、それが赦されることを祈りましょう。

そして、罪の告白と、赦しを求める祈りへと導かれていること自体が、神さまがわたしたちをすでに赦してくださっていることのしるしであることに感謝いたしましょう。

自分の罪を深く知る人は、深く祈り、神さまの赦しが深いことを知っているのです。

2025年6月8日 主日(日曜日)

おはようございます。

ヤコブの手紙5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。

また、苦しい時こそ、賛美の歌を歌いましょう。

喜びの時こそ、祈りましょう。

神さまは、わたしたちの祈りと、賛美を聞いてくださいます。

2025年6月7日 土曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。

わたしたちは「自分が」「こうする」と決めたことに固執してはなりません。「自分はもうこうすると決めた」「自分はこうすると誓った」などと、自分の思いに執着してはなりません。

そうではなく、神さまに従うのです。イエス・キリストに従うのです。神さまとキリストから出る聖霊に従うのです。

世界を創造し、わたしたちを互いに愛し合うように創造してくださった神さまの御心に「然り」と言うのです。言葉ではなく、従う生き方をすることで、「然り」と言うのです。

この神さまの愛をとことん信頼し、自分が神の子であることに傲慢にならず、むしろ、ご自身を「無にして」(フィリピ2:7)、それにつき従うようにわたしたちを招いてくださるキリストの御心に「然り」と言うのです。

神さまとキリストの御心に従って生きる者へとわたしたちを創り変えてくださる聖霊に「然り」と言うのです。

そして、御心からわたしたちを引き離そうとする者に「否」と言うのです。

2025年6月6日 金曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙5:8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。5:9 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。

世界から戦争がなくなりますように、差別がなくなりますように、と祈り続け、祈りを声に出し続けているクリスチャンたちがいます。けれども、わたしたち人間はいまだに戦争や差別を止めません。

それでも、平和と公正を願う祈りを固く保ち、何十年も忍耐強く祈り続ける人びとがいます。

主がかならず平和と公正をもたらしてくださる、主はもうすぐにおられる、と深く信じています。

5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。5:11 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

ヨブは、家族の死、財産の喪失、耐えがたい病、友からの非難の言葉によって、心身が張り裂けそうになりながらも、神さまから離れることはありませんでした。

ヨブが忍耐したから、神さまはヨブに慈しみの最後をお与えになられただけでなく、ヨブが忍耐できたのは、神さまが慈しみ深いお方であると深く信頼していたからでしょう。

2025年6月5日 木曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙5:7 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。5:8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

戦争は今すぐ終わらなければ、尊い命が、さらに奪われ続けます。

戦争のさなかにある人々に私たちは「忍耐しなさい」ということはできません。

ただ、「神さま、戦争をいますぐに終わらせてください」と祈り続けます。

けれども、わたしの抱えるいくつかの困難な問題については、祈りつつ忍耐します。
やがて、神さまがこられ、この苦しみから解き放ってくださることを信じて、待ちます。

世界から、戦争、不正、差別、貧困、独善がなくなり、ただ、神さまの愛の御心がみなぎる日が、必ず来ることを信じて、祈って、待ちます。

神さまがその日を今来させようとしてくださっておられます。

神さまがきっとそうしてくださる。これを最大の希望として、祈って、待ち続けます。

2025年6月4日 水曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙5:1 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。

5:4 畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。5:5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、5:6 正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。

富んでいる人の何が問題なのでしょうか。

ここでは、労働者に賃金を払わない、ぜいたくに暮らす、快楽にふける、自分の心を太らせる、無抵抗の正しい人を有罪にして殺すことが挙げられています。

程度の差はあれ、「ぜいたくに暮らす、快楽にふける、自分の心を太らせる」こととは、わたしたちも無縁ではないのではないでしょうか。

ときどき少しぜいたくをする、ということではなく、生活全体がぜいたくである、過度に快楽を求める、傲慢である・・・これらのことは、わたしたちを神さまから遠ざけることでしょう。

「労働者に賃金を払わない」「正しい人を殺す」ようなことはしていないかもしれませんが、わたしたちは、行動や言葉で、人を傷つけたり、抑えつけたりしていないでしょうか。

神さまと隣人と自分自身の前で「貧しい者」「心の貧しい者」にならせてください、と祈ります。

2025年6月3日 火曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。

「この人にこういうことをするのは良いことだ」と思っても、相手にとっては、ぎゃくに、迷惑であることがよくあります。

求められればできるだけ手を差し伸べることは大切ですが、「こういうことをすれば喜んでくれるだろう、自分によい思いをもってくれるだろう」という考えで相手に何かをすることには慎重であるべきでしょう。

「こうしたらよい」と思うことを伝える場合も、押しつけにならない十分な配慮が必要です。

今の時代、善とは、自分中心にならず、相手の立場や考えをよく理解し、できればよく話し合う中から、生まれ出てくる新しいことではないでしょうか。

自分が誰かと話し合う中で、そして、両者が相手の考えも尊重し合う中で、それまでの自分のものでもなければ、相手のものでもない、新しい何かが生まれてくることがあります。

それは、わたしたちをつねに新しくしてくださる聖霊の働きです。

バベルの塔ではそれぞれが異なる言葉を発しだし、つまり、それぞれが自己主張をし、たがいにそれが理解できず、人びとは散り散りになりました。

ペンテコステでも、いろいろな異なる言葉が語られ始めましたが、それは、聞き手ひとりひとりに合わせた神さまの言葉であったので、つまり、聞き手ひとりひとりが大事にされた言葉であったので、人びとはキリストの体である教会としてひとつにまとめられたのです。

2025年6月2日 月曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙4:13 「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。

「金もうけをしよう」ということもそうですが、それも含めて、「「自分はこうしたい」という自分中心の思いを、神さまと隣人を押し切ってでも、押し通そう」とすることが戒められているのではないでしょうか。

4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。

わたしは、これまで、神さまへの信頼よりも、自分の欲望と衝動で、ことを推し進めてきたことがある、今もそうしようとしていることがあると告白せざるを得ません。

けれども、神さまがもう少しわたしを生き永らえさせてくださるのなら、自分の歪んだ人間的な欲望ではなく、神さまに導かれ、神さまの愛に少しでも添った、そして、まっすぐな「あのことやこのこと」をさせてください、そのようなわたしにしてください、と祈ります。

2025年6月1日 主日(日曜日)

おはようございます。

ヤコブの手紙4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。

ヤコブの時代に、「神さまはわたしたちをすでに救ってくださったのだから、隣人を愛しなさい、という律法などどうでもよい」というように考えている人がいたのかもしれません。

あるいは、わたしたちも、「行いではなく信仰によって救われる」という信仰の陰で、隣人を愛するという生き方、姿勢、実践をおろそかにしていたら、それは、「隣人を愛せよ」という律法をわたしたちが裁き、悪口で貶めているのと同じではないでしょうか。

「殺してはならない」「隣人を愛せよ」という戒めを知りながら、わたしたちはこの二年間、人を殺し生活を破壊するこの戦争が終わりますように、と一所懸命に祈り続けて来たでしょうか。

そうでないないなら、わたしたちはこの二つの戒めをおろそかにし、軽視し、この二つの戒めをわたしたちが裁いてしまっているのではないでしょうか。

けれども、わたしたちがこの戒めを裁くのではなく、じつは、わたしたちこそが、今、「殺してはならない」「隣人を愛せよ」という戒めに裁かれているのではないでしょうか。

2025年5月31日 土曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

「悲しみ、嘆き、泣きなさい」とはどういうことでしょうか。

パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)と書いたのではなかったでしょうか。

神さまは「わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる」(エレミヤ31:13)と言われたのではなかったでしょうか。

御言葉(聖書の言葉)の意味は文脈が大事です。

今日のヤコブの箇所では10節の「主の前にへりくだりなさい」とあることが大事でしょう。

そうすると、「悲しみ、嘆き、泣きなさい」とは、自分を誇り、自分は正しいと言い張る傲慢さを、神さまの前で告白して、そのような自分の自己中心で人を傷つける姿を悲しみ、嘆き、泣きなさい、ということではないでしょうか。

けれども、神さまは、自分の傲慢さ、人を傷つけていることを心から悔いる者に、今度は、へりくだって、人と共に生きるように起き上がらせてくださいます。

その時、嘆きは喜びに変えられます。

そのことを、わたしたちはおおいに喜ぶのです。

2025年5月30日 金曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。

人を否定しよう、自分の考えだけにこだわろう、強い言葉や態度を相手にぶつけよう、相手に冷たくしよう。このような衝動がわたしたちの外から襲い掛かり、内側から沸き立ちます。

けれども、わたしたちはこれに反抗しなければなりません。

むしろ、人を大事にし、相手を尊重し、言葉や態度を穏やかに温かくすることができるように、神さまの愛の御心を想い出し、それに服従しなければなりません。

そうすれば、悪魔の衝動は退散していきます。

神さまがわたしたちを愛してくださる、この御心に近づきましょう。

聖書の言葉と、祈りと、賛美によって、近づきましょう。

そうすれば、神さまもわたしたちにもっと近づいてくださいます。

わたしたちの中で、神さまの愛の御心が強まってくださり、隣人を大事にする心が強められます。

神さまは、わたしたちの手と心を、神さまの愛の御心に添って、清めてくださいます。

2025年5月29日 木曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」

ここで、ヤコブはイエス・キリストを信じる者が、「世の友」「神の敵」ではなく、「神の友」になることを願っています。

「世の友」「神の敵」とは「高慢な者」であり、「神の友」とは「謙遜な者」でしょう。

「謙遜な者」とは、自分は正しいと言い張らず、これは自分のものだと言わず、ささげることを惜しまず、「人より上に立とう」「偉くなろう」などとせず、ただ、イエス・キリストのように、「おのれをむなしうし」(ピリピ2:7、口語訳)(新共同訳では「自分を無にして」)、自分よりも神さまと隣人を愛そうとする者のことでしょう。

わたしたちは、自分の努力や精神でそのような者になれるのでしょうか。それはできません。

けれども、神さまが「わたしたちの内に住まわせた霊」によって、わたしたちは「謙遜な者」へと導かれるのです。

神さまは、この霊を、「深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」から、わたしたちは、この霊に信頼して、わたしたちを謙遜な者へと造り替えてください、と日々祈りつづけましょう。

2025年5月28日 水曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

戦争や争いを起こすのは、わたしたち自身の内部の欲望です。

何らかの意味で自分のために、人を殺したり、傷つけたり、人の心を押さえつけたりする欲望です。

そのような欲望に基づいた祈りを神さまにしてはなりません。

そのような祈りは(・・・祈りとは言えませんが・・・)かなえられません。

神さまの御国、愛と平和の御国を求める祈りを、神さまは聞かれます。

争いの祈り、というより、欲望を聞き入れるのは、悪魔です。

わたしたちは、争いではなく、平和の祈りをいたしましょう。

主よ、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナの戦争が、いますぐ終わりますように。

もうこれ以上、いのちが損なわれませんように。

神さま、わたしの心の争いが、日々の生活の中での人との争いが、いますぐ終わりますように。

2025年5月27日 火曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

「義の実」とは何でしょうか。

それは、「ねたみ」「利己的」「自慢」「うそ」(3:14)、「混乱」「悪い行い」(3:16)、「偏見」「偽善」(3:17)から自由であり、「上からの知恵」すなわち、神さまとイエスさまの愛に根差し、「純真」「温和」「優しさ」「従順」「憐れみ」の詰まったものでありましょう。

この実は、「平和のうちに蒔かれる」、まさに、神さまとイエスさまの愛に根差して、純真、温和、憐れみをもって、相手に優しく従順に、蒔かれなければなりません。

つまり、神さまの義は、その義に基づいたやり方でもたらされ、
平和は、暴力ではなく、平和なやり方で実現されるのです。

愛は、憎しみではなく、愛によって、もたらされるのです。

2025年5月26日 月曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙3:15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。

わたしたちはいろいろな計画を立てますが、そこには、どうしても、何らかの意味での「自分中心な想い」「自分への執着」が潜んでいて、それがときに、混乱を生み出す場合があります。

反対に、「上からの知恵」、つまり、神さまの御心に従おうとする心は、「偏見」や「偽善」には距離を置き、むしろ、「純真」「温和」「優しさ」「相手の尊重」「憐れみ」に親しみます。

「上からの知恵」、ご自身に固執せずわたしたちを大切にしてくださる神さまの愛の心をいただき、それに促されて生きることができるように、つねに祈り求めましょう。

2025年5月25日 主日(日曜日)

おはようございます。

ヤコブの手紙3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。

わたしたちが、神さまやキリストではなく、自分の潜在的な欲望や妬みや私欲に支配されるのなら、傲慢になったり、不誠実であったり、虚言で人を欺いたりすることでしょう。

しかし、神さまやキリストから与えられた愛の心に従おうとするのなら、神さまやキリストの御心にかなった、隣人に柔和な行い、誠実な生き方へと促されることでしょう。

2025年5月24日 土曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。

わたしたちは、自分の口から出る言葉で人を傷つけてしまうことがあります。

けれども、その口は、神さまを賛美することもします。

神さまを賛美するわたしたちの口から、人を傷つける言葉も出てしまうことは、ひじょうに残念なことであり、乗り越えようと祈らなければならないことでもあります。

手は、人を殴ったり、振り払ったりするためではなく、むしろ、人と握手をし、神さまにお祈りするために。

口は、神さまや人を呪うためではなく、むしろ、神さまを賛美し、人を敬い、いたわるために。

2025年5月23日 金曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

これは「牧師は言葉で過ちを犯す」ということでしょう。なぜなら牧師も「全身を制御できる完全な人」ではないからです。

この場合の「言葉の過ち」とは、「不義」(3:6)であり、「人間を呪う」(3:9)ことであり、相手に「苦い水」(3:11)を味わわせることでしょう。

牧師であろうとなかろうと、言葉で、「不義」つまり「正義でないこと」を相手にもたらし、相手を罵り、相手を苦しめてはならないのです。

けれども、そうしてしまいます。

言葉を刃(やいば)にしてはならないのにそうしてしまう。

わたしたちはそのような罪人であることを深く反省しつつ、この罪を犯さない者へと創り変えていただいたはずであることをよくよく思い起こし、この罪をもう犯さないように、イエスさまに祈りましょう。

2025年5月22日 木曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙2:17 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

信仰に伴う「行い」は、イエスさまにならって言えば、「神さまを愛する」と「隣人を愛する」のふたつに凝縮されるでしょう。

2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。

アブラハムのこの「行い」は、①神さまをどこまでも信頼する ②その信頼に基づいて、神さまのお言葉に従う ③神さまが与えてくださったものを惜しまずにお返しする ということではないでしょうか。

子どもを殺して祭壇の上にささげるようなことはできませんが、子どもを自分の所有物のようにしてコントロールしようとすることを止めるという意味では、わたしたちは子どもを手放して神さまにお委ねしなくてはなりません。

お金についても、普通の衣食住プラスアルファを確保したのなら、あとは執着せず、神さまと隣人を愛する用い方も大事にしたいと考えます。

2025年5月21日 水曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

わたしたちを救ってくださるのは、あくまで、神さまです。

わたしたちは自分で自分を救うことはできません。

信じる者を救ってくださるのも、あくまで、神さまです。

行いの伴う信仰であっても、その人を救うのは、あくまで、神さまです。

けれども、信仰も、行いも、きわめて大切なものです。

信仰は、神さまを信頼しぬくことであり、神さまとの切れることのないつながりですが、これ自体、神さまがわたしたちにくださったものです。

行いは、神さまの愛に救われたわたしたちの、「反応」であり、「応答」であり、「感謝」です。

また、それは、神さまの愛に沿ってイエスさまにならって生きるように「神さまから導かれている結果」です。

ただし、この神さまの「導き」や「結果」は、わたしたち自身の「信仰的思い」「イエスさまに従って、愛に生きよう」という祈りとして現われます。

2025年5月20日 火曜日

おはようございます。 

ヤコブの手紙2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。 

わたしたちは、神さまの愛の御心からほど遠く、人を傷つける者であり、神さまは、そのことを、わたしたちにはっきりと教えてくださいます。 

しかし、神さまは、そのわたしたちを深く愛してくださり、わたしたちを裁きはしても、つまり、わたしたちの罪はあきらかにしてくださっても、わたしたちを裁き捨てることはなさいません。

けれども、神さまからそのような憐れみを受けているわたしたちが、人は愛さず、むしろ、人を裁き捨てるのであれば、神さまもわたしたちを同じようになさるかもしれません。 

わたしたちは、神さまがわたしたちを愛してくださることと、けれども、その愛を貫くことにおいては厳しいお方であることを、忘れてはなりません。 

わたしたちは、神さまは愛を貫くことにおいては厳しいお方であることと、けれども、わたしたちを愛しぬいてくださるお方であることを、忘れてはなりません。

2025年5月19日 月曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。

姦淫は相手を人ではなくモノとみなすことであり、一時の肉体的快楽のあとには長い精神的・霊的苦しみが待っているのではないでしょうか。

殺すことも、相手を人ではなく、ましてや、神さまが命を与え愛しておられる一人の人ではなく、モノとみなすことであり、戦争はその最たるものでしょう。

姦淫や殺人でなくても、わたしたちは、相手が誰でも、モノではなく、神さまに愛されている大事なひとり、であることを忘れてはならないでしょう。

それを忘れてしまえば、神さまの愛から離れてしまいます。

2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。

「姦淫してはならない」「殺してはならない」という律法は、わたしたちを人をモノとみなしてしまう罪から解き放ち、精神的、さらには、霊的な自由をもたらしてくれます。

はんたいに、「あなたは、目の前のその人を、神さまの御心に添って、ほんとうに大切にしていますか」と、イエスさまは、いつも、わたしたちに問いかけてくださいます。

2025年5月18日 日曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。2:9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。

「人を分け隔てする」とは、「あの人は○○人だから」「あの人は○○だから」劣っていると考えたり、平等に扱わなかったり、貶めたり、軽蔑したりすることです。
わたしたちは意図的な差別をしていないつもりでも、人に優劣をつける思考法が沁み込んでしまっています。

けれども、それでは「隣人を自分のように愛しなさい」という「最も尊い律法」を守っていない、とヤコブは言うのです。

人を平等に扱っているか、その人の尊厳を大切にしているか、人を見下していないか、イエスさまのように人を差別せずに生きているか、つねに点検したいと思います。

2025年5月17日 土曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。

2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

世の中では、職業、国籍、性別、学歴、能力などで、人に優劣をつけますが、イエスさまを信じるのなら、わたしたちはその差別を謙虚に反省し、乗り越えるよう祈り求めましょう。

世の中の価値観では金持ちを優遇しますが、神さまの国では、貧しい人こそが信仰に満たされ、愛され、御国の住民とされます。

わたしたちは、自分は信仰において優っている、などという傲慢から卒業しましょう。

2025年5月16日 金曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

人を攻撃し傷つける言葉を発したり、人への不満を不穏当な言葉で誰かに漏らしたりするとき、わたしたちは神さまからいただいた信仰を欺いて、無意味にしてしまっているのではないでしょうか。わたしたちは自分の舌を制することができるように祈りましょう。

困難な状況にある人に対して、その人の願いを良く聞いた上で、あるいは、自分の押し付けではなくその人の身になって熟考した上で、何かできることがあればする、自分の思いの押し付けではなく、相手のことを考えた上で、何らかの「ケア」を考えることは、大切です。

自己中心、自己主張、能率や成果優先、学歴、優劣の価値観に染まらないように、他者の尊重、わかちあい、小ささや弱さへの愛、自分を誇らないという神さまの御心をこそ信頼して歩み続けさせてくださいと祈ります。

2025年5月15日 木曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:25 自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

礼拝で神さまの御言葉を聞いても、日曜日の午後は、それを忘れて、人を傷つけたり、憎んだりしていないでしょうか。

聖書でイエスさまの御言葉に励まされても、雨風に見舞われると、御言葉の慰めや希望を忘れて、恐れや不安、絶望一色に染まってしまわないでしょうか。

イエスさまを信頼し、イエスさまの生き方に従って生きようとするならば、そこには、自由があります。

それは、イエスさまのように、創造主である神さまの愛をどこまでも信頼する自由であり、イエスさまのように、神さまの愛に促されて隣人を愛する自由、利己愛の束縛から解放された自由です。

このようなイエスさまから与えられる自由に生きることにこそ、わたしたちの幸せ(幸福、福音の福)があるのではないでしょうか。

2025年5月14日 水曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:21 あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37、39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)

わたしたちの心には、「あふれるほどの」あきらめや愚痴、憎しみ、妬み、敵意、悪口がありますが、これらを「素直に捨て去り」、かわりに、上のような御言葉を満たしましょう。

捨てるべきものを捨て、御言葉を満たし、御言葉を行なうことは、たしかにそう簡単なことではありませんが、御言葉自身と礼拝と祈りと賛美がそれを助けてくれるでしょう。

そうすれば、わたしたちの魂は救われるでしょう。

2025年5月13日 火曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。

自分のことを語ることは大事なことです。けれども、他の人が語ることを、そして、いや、まず、神さまのお言葉を聞く時間を大切にいたしましょう。

乱暴な言動で怒りを表現することは自制しましょう。

「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」(エレミヤ7:5-6)

「彼らは神ならぬものをもって、わたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもって、わたしの怒りを燃えたたせた」(申命記32:21)

自分の怒りが神さまの怒りに沿ったものなのか、それとも、神さまのお心とは無関係な、あるいは、神さまのお心に背く自分勝手な怒りなのか、よく吟味いたしましょう。

わたしたちの自分勝手な怒りは、神さまの義とは関係がないのです。

まず、神さまの義を求めましょう。

2025年5月12日 月曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

「良い贈物」「完全な賜物」「御心」「真理の言葉」とは、神さまがわたしたちにくださる愛、無条件にわたしたちを受け入れ愛してくださる愛であり、また、わたしたちがこの神さまの愛にならって生きていくためにわたしたちに神さまがくださる愛の心のことではないでしょうか。

神さまの愛は「移り変わる」こともなければ、「陰を生じる」こともありません。

そのような完全な神さまの愛にならう愛をわたしたちが持つことができるでしょうか。

けれども、わたしたちは神さまが愛を込めて造られたものの初穂です。

初穂とは、神さまにささげる、その年の最初の収穫です。

わたしたちは、未熟であっても神さまにならおうとする愛を、神さまと隣人におささげするのです。

2025年5月11日 主日 日曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

人から嫌なことをされて仕返ししてやりたい、人のことなど配慮せずただ自分の良いようにしたい。

このような誘惑は、神さまから来るのではありません。

わたしたちを誘惑しているのはわたしたち自身の欲望であり、誘惑自身がわたしたちを誘惑しているのです。

けれども、このような時、神さまはわたしたちを誘惑から救い出すために、わたしたちに語りかけよう、導こう、支えようとしてくださいます。

この神さまに聞き従うのか、誘惑に負けるのか。これが試練です。

わたしたちは自分自身の欲望ではなく、神さまの導きを選択しましょう。

神さまはそのようにお招きくださっておられるのですから。

2025年5月10日 土曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

わたしたちの人生にはさまざまな困難が起こりますが、神さまが支えてくださると信頼し、かならずここから救われるという希望を持って、それを耐え抜くとき、困難は試練になるのではないでしょうか。

神さまは、わたしたちが困難に耐えられるかどうか「試して」おられる、チェックしておられる、観察しておられる、というより、神さまは、困難に耐えられるようにわたしたちを、「練り」上げてくださるのではないでしょうか。

困難のなかでも、神さまを信頼し、希望を持って「生き」抜くこと。

「生きる」ことは「命」であり、神さまがくださる「信仰」と「希望」そして「練達」は、命の冠です。

困難な道を生きるわたしたちを「信仰」「希望」「練達」で包み込んでくださるキリストこそが、わたしたちのまことの命であり、神さまからいただく命という冠なのです。

2025年5月9日 金曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。1:11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

お金、地位、実績などは人間的な事柄であって、大切な面もありますが、見過ごせない大きな問題もあります。ひとつは、これらは永遠でも永久でもなく、やがて朽ちるということです。もうひとつは、これらは、神さまに成り代わって、わたしたちの、実際的には、一番の支えになろうとするということです。

わたしたちが、お金や地位や実績などに依存して、傲慢になり、ときには、人を見下したり、抑えつけたりするとき、神さまは、わたしたちを打ち砕き、その高みから引き下ろしてくださいます。

反対に、わたしたちがお金も地位も実績もなく、ただ貧しく、ただすわりこみ、神さまを信頼するしかないとき、神さまはわたしたちの手をとり立ち上がらせてくださいます。

2025年5月8日 木曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。

ここで言われている「知恵」とは、情報量の多さや論理力のことではなく、「信仰が試されることで忍耐が生じる」(1:3)と言われているように、試練を乗り越える忍耐、信仰のことでしょう。

また、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と言われるように、「知恵」とは「神さまを何よりも尊ぶ」ことでありましょう。

わたしたちはこんな試練はとうてい乗り越えられないと思ってしまいますが、「神さま、あなたを尊びながらこの試練を耐え抜く信仰を与えてください」と神さまに信頼をもって祈り求めるならば、この信仰はかならず与えられることでしょう。

イエスさまは、まさに、神さまを尊び、神さまを信頼しながら、人々の無理解や批難、さらには、逮捕、嘲笑、鞭打ち、十字架を耐え抜かれたのです。

このイエスさまがともにいらしてくださるのですから、わたしたちもこの道を歩きぬくことがきっとできることでしょう。

2025年5月7日 水曜日

おはようございます。

ヤコブの手紙1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

わたしたちは不完全で欠けだらけです。神さまだけが「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない」お方です。

その神さまのひとり子がわたしたちと同じ人間になってくださいました。それが地上のイエス・キリストです。

イエス・キリストは地上のご生涯において、当時の宗教人から迫害を受けたり、人々から理解されなかったり、いろいろな試練を受けられました。最後は、捕らえられ、嘲笑され、鞭打たれ、十字架につけられました。

けれども、神さまへの信頼と人を愛することを、つまり、神さまと隣人への愛を、最後まで貫かれました。

わたしたちは、このイエス・キリストと同じようにはなれないかもしれませんが、このイエス・キリストに導かれ、このイエス・キリストに従って歩むことはできるかもしれません。

それには、これまでの自分をいったん横において、自分を謙虚に、さらに謙虚に振り返り、聖書の言葉にもう一度、もう一度耳を傾け、そこにあるイエス・キリストの愛のお姿と、神さまの愛の御心を、へりくだって、求め直したいと思います。

2025年5月6日 火曜日

おはようございます。

マタイ7:24 わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

心の貧しい人々は、幸いである」(5:3)

あなたがたは地の塩である」(5:13)

兄弟と仲直りをしなさい」(5:24)

悪人に手向かってはならない」(5:39)

敵を愛しなさい」(5:43)

施しを人目につかせない」(6:4)

富は天に積みなさい」(6:20)

神と富に仕えることはできない」(6:24)

思い悩むな」(6:25)

人を裁くな」(7:1)

門をたたきなさい」(7:7)

狭い門から入りなさい」(7:13)

イエスさまの「これらの言葉」はたんなる戒めではなく、

わたしたちに「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲っても、倒れない」ようにしてくださる、

人生の土台なのです。

ですから、これらの言葉を守れば救われるということだけでなく、これらの言葉そのものがわたしたちの根底を支えてくれるのです。

2025年5月5日 月曜日

おはようございます。

マタイ7:21  わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

「天の父の御心」とは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(7:12)のことでしょう。なぜなら、イエスさまは「これこそ律法と預言者である」(7:12)と言っておられ、旧約聖書しか知らないイエスさまの時代の人びとにとっては「律法と預言者」すなわち旧約聖書が「天の父の御心」だからです。

けれども、イエスさまは旧約聖書の中心は、神さまへの愛と隣人への愛である、と言われました。

つまり、「主よ、主よ」と口先だけで言っても、そこに、神さまへの愛、そして、隣人への愛がなければ、天の国、神さまの国、つまり、神さまの愛が治める世界に入れない、とイエスさまは言われるのです。

自分が善いことをしたいという思いからではなく、ただただ、相手の思いを大事にしたいという愛こそが神さまの国では大切なのです。

なぜなら、神さまはご自分が善いことをなさってご自分を誇るのではなく、ただただ、わたしたちを愛してくださるからです。

2025年5月4日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

イエスさまは「偽預言者を警戒しなさい」(7:15)と言われました。 わたしたちは、その方が預言者か偽預言者か、キリストか偽キリストか、その実で見分けることができるでしょう。

イエスさまが結んでおられる実、つまり、神の国を宣べ伝え、罪を明らかにし、神さまの愛を伝え、人を愛する生き方を促すイエスさまのお言葉、そして、それを示す行動や出来事、これらの実によって、わたしたちは、イエスさまをキリストであると知ることができます。

ただし、これは、じつは、わたしたちがイエスさまを「見分ける」「判断する」のではなくて、まずイエスさまがそのようなお言葉や業(わざ)をわたしたちに示してくださり、わたしたちはそれに導かれて、それが神さまの御言葉であり業であることを教えていただくのです。

2025年5月3日 土曜日

おはようございます。

マタイによる福音書7:15 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。

「あなたのためにする」と言ってわたしたちを「助けて」くれる人、あるいは、本当にそう思ってそうする人でも、けっきょくは「自分のために」人にモノを与えたり「助け」たりする場合があります。

たとえば、親が子どものためにと言いながら何かを言ったりさせたりするときも、ほんとうは自分の満足のために子どもを自分の思うようにしようとすることがあります。

宗教者や親しい人、やさしい人が、じつは、そのような「羊の皮」をかぶった「貪欲な狼」である場合もありますから、わたしたちは警戒しなくてはなりません。

同時に、人を助けたり、人に仕えようとするとき、わたしたち自身の内側にも「貪欲な狼」が潜んでいないか、警戒したいと思います。

わたしたちが誰かを助けようとするとき、わたしたちは、誰かを助ける自分の「心地よさ」を貪欲に求めていないか吟味したいと思います。


2025年5月2日 金曜日

おはようございます。

マタイによる福音書7:13 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。

滅びに通じる広い門とはどのような門でしょうか。そこはたくさんの人びとが通ります。

そこで、演説をしたり、祈ったりすれば、あるいは、大勢の人びとから誉められ、心地が良いかもしれません。しかし、人の誉め言葉を根本の支えにしてしまうのであれば、わたしたちは神さまへの感謝や信頼を忘れてしまうことでしょう。

狭い門は人通りも少なく、誰も見ていないかもしれません。

しかし、そこでなら、イエスさまと静かに話すことができます。静かにイエスさまのお言葉に耳を傾けることができます。

狭い門をひとりずつくぐるように、イエスさまはわたしたちひとりひとりを迎えてくださいます。

迷った一匹の羊を探し求めてくださるように。

2025年5月1日 木曜日

おはようございます。

マタイ7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

「律法と預言者」とは旧約聖書のことです。

旧約聖書の教えを煮詰めると「あなたの神さまを精いっぱい愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」ということになる、とイエスさまは言われました。

ですから、「人にしてもらいたいと思うことは何でも人にする」とは、わたしたちが隣人を愛する、ということでしょう。

しかし、これは、自分が人から誉められたいからわたしたちも人を誉める、自分はこれが欲しいから人にもそれを与える、という意味ではないでしょう。

むしろ、相手は自分とは異なる存在であることを尊重し、自分の思いを押し付けず、それでいて、相手を忘れたり、置いてきぼりにしたりせず、相手という一人の人間に敬意を持つことが大事なのではないでしょうか。

また、隣人とは仲間内のことではなく、わたしたちが自分とは違う相手の存在、あり方を敬い大事にするとき、相手はわたしたちにとって隣人となるのではないでしょうか。

2025年4月30日 水曜日

おはようございます。

マタイ7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

イエスさまは、ここで、神さまは、ご自分の子どもであるわたしたちに、「パン」や「魚」「良い物」を与えてくださる、とおっしゃってくださいます。

これは、イエスさまの山上の説教の流れからすると、神さまのお名前を賛美し、「神さまの国と神さまの義」を求める者にあたえられる良い物ということでしょう。

自分自分と言う自分は横において、まず神さまを尊び、神さまがお治めくださり、神さまの愛が世界や自分や人との関係に漲ることを祈り求めるとき、それに伴い、わたしたちには、御言葉というパン、糧が与えられ、神さまの愛に導かれ、神さまに無条件で愛され、神さまがともにいてくださり、神さまの平安を胸の底に生きていく、という最良の生が与えられます。

これより良い物はありません。

2025年4月29日 火曜日

おはようございます。

マタイ7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

これは、何でも欲しいものを願えば神さまはただちにかなえてくださる、ということではないでしょう。

なぜなら、「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも』」(6:9-10)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(6:33)と、イエスさまは教えてくださいました。

また、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:19-20)とあるように、祈りは家族や教会の祈りなのです。

さらには、これは、「求め続けなさい」「探し続けなさい」という意味であるとも解釈され、祈り続けることが大切です。

神さまは、世界を一瞬ではなく、六日かけて丁寧に創ってくださいました。


2025年4月28日 月曜日

おはようございます。 

マタイ7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 

人の欠点、失敗、悪い点などについては、わたしたちは、それを大問題としたり、非難したりしてしまいます。 

しかし、自分の問題については、その根深さ、深刻さに気付くことも、反省することもありません。 

けれども、まず、自分の問題に向かい合わなければ、相手の真の問題にも気づかないのではないでしょうか。 

わたしたちが誰かの悪い点を言い立てるとき、じつは、それは自分を見るようでそのようになってしまうことがないでしょうか。
しかし、それでは、相手の真の問題、痛み、悩み、苦しみが見えてこないでしょう。 

わたしたちは、神さまの前で、自分の問題に正直に向き合ってはじめて、人の課題にも寄り添うことができるのではないでしょうか。

2025年4月27日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ7:1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

わたしたちは、人のことを、ああだ、こうだと裁きます。

そうすると、わたしたちも、人から、ああだ、こうだと裁かれます。

けれども、人を裁くのも、わたしたちを裁くのも、それは、本当は、神さまのなさることです。

わたしたちは、人を裁き捨てます。

人を貶め、自分を誇るために、人を裁きます。

わたしたちは、人を裁き捨ててしまうのです。

わたしたちは、否定しよう、滅ぼそうとして、人を裁くのです。

けれども、神さまは、わたしたちを裁かれますが、捨てません。

むしろ、わたしたちを救うために、わたしたちの罪を明らかにしてくださいます。

神さまは、自分の欲望にのみ生きてしまうわたしたちを愛し、新生させてくださるために、

神さまはご自分の愛の御心を示してくださるのです。

神さまの御心に照らされてわたしたちの欲の生き方は裁かれ、新しい生き方へ変えられます。

2025年4月26日 土曜日

おはようございます。

マタイ6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

わたしたちは、不安は「今」持ちますが、それは「明日のこと」つまり「これからのこと」についてであり、「これまでのこと」や「今のこと」についてではありません。

明日のことよりも、「今」神さまがともにいらしてくださり、「今」神さまが生かしてくださることを思い、「今」いただいている恵み(生命、存在、祈り、御言葉・・・)を数えましょう。

わたしたちの「今」不安ではなく恵みに心を置きましょう。

明日のことは、神さまがイエスさまという羊飼いによって何とかしてくださいます。

今日の苦労は、イエスさまがともに背負ってくださいます。

「今」の恵み、今日の恵みに生かされましょう。

2025年4月25日 金曜日

おはようございます。

マタイ6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

わたしたちが、ほんとうに求めるべきものは、「神の国と神の義」、すなわち、神さまが愛の御心によってわたしたちを治めてくださることだ、とイエスさまは教えてくださいます。

そして、「神の国と神の義」は、神さまとイエスさまによってすでにわたしたちのところに来ているのです。わたしたちがそれを受け入れていない、わたしたちが神さまの国の住民として神さまの愛を受け入れ人を愛して生きようとしていないだけなのです。

ですから、「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」「神さまのお治めと愛を、わたしたちが受け入れ、わたしたちの中で現れますように」という祈りこそが一番大切なのです。

異邦人、つまり、神さまを知らない人は、「神の国と神の義」抜きに食べ物や衣服を求めますが、食べ物や衣服は、じつは、「神の国と神の義」という土台において、その価値を持つのです。

わたしたちはまず「御国を来たらせたまえ、御心を地にもなさせたまえ」と祈り、この祈りを土台として、「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈るのです。

2025年4月24日 木曜日

おはようございます。

マタイ6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

花は、何かで自分を装いたい、と思い煩うことはありません。

けれども、花はそのままで、着飾った王よりも美しい、とイエスさまは言います。

花はそのままで、神さまによって装われている、と言うのです。

わたしたちも、自分を装おう、とする必要はありません。

神さまは、すでに、ご自分の目に「価高く、貴く」(イザヤ43:4)、わたしたちを創造してくださったからです。

2025年4月23日 水曜日

おはようございます。

マタイ6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

健康をこころがけたり良い治療に巡り合えたりすれば、わたしたちはある程度長く生きられるでしょう。

しかし、それでも、わたしたちは、いつかは地上の旅を終えて、天に帰ります。

イエスさまに病気を癒されたり蘇生させられたりした聖書の登場人物も、地上の旅は終えました。

けれども、永遠なる神さまとのつながりは、それで終わりではありません。

天においても、神さまはわたしたちを包み込んでいてくださいます。

いや、地上の旅の間でも、それを終えてからでも、神さまがわたしたちを愛しともにいらしてくださる、これが天です。神さまの国です。

それは、わたしたちの力でできることではありません。

けれども、神さまにはそれがおできになるのです。

わたしたちは、思い悩んでも、地上の旅を永久のものにすることはできませんが、神さまはわたしたちと永遠にともにいてくださり、わたしたちからけっしてお離れになりません。

イエスさまがそうしてくださる、と神さまを信頼すれば、そうなります。

神さまがともにおられると信じれば、そのとき、神さまはともにおられるのです。

2025年4月22日 火曜日

おはようございます。 

マタイ6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

種を蒔き、刈り入れ、倉に納めることは、何か月にもわたる計画と展望、実行が必要です。 これはとても大事なことですが、大丈夫だろうか、うまくいくだろうか、という不安や心配がつきまといます。 

空の鳥には、そのような長期計画もそれゆえの不安もないように見えます。 けれども、神さまは鳥を養ってくださいます。 

わたしたちは、明日はどうなるだろうと思い煩いますが、 おなじように、神さまはわたしたちを支え、導いてくださいます。 

鳥は何もしていないように見えても、じつは、翼を力強く動かしています。 神さまが養ってくださるから、その力が与えられるのでしょう。 

わたしたちも、つねに心臓というポンプを動かし血液を体中に巡らせていますが、 その力は神さまからいただいています。 

わたしたちはいつも神さまに生かされています。 

だから、明日のことを思い煩わなくてもよいのです。

2025年4月21日 月曜日

おはようございます。 

マタイ6:25 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

わたしたちは、あれがない、これがない、と心配になります。 

けれども、食べ物がなくても命があるではないか、衣服がなくても体があるではないか、とイエスさまは教えてくださいます。 

もちろん、最低限度の食べ物も衣服も必要です。 すべての人には生存するための衣食住がなければなりません。 

イエスさまはそのことは十分にご存じです。 

しかし、そのようになければならない食べ物や衣服がないときでさえ、神さまは、わたしたちに命と体を与えていてくださる、もっとも必要なものがないときでさえ、神さまは命と体をわたしたちに備えていてくださる、とイエスさまは言われるのです。 

わたしたちは、何もない、と思ってしまいますが、じつは、神さまが与えていてくださる何かがあるのです。 

イエスさまはそれを教えてくださいます。 

わたしたちも、不足しているものばかりでなく、今、いただいているものを大切にいたしましょう。

2025年4月20日 主日(日曜日)

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイ28:7)

 わたしたちは地上の旅を続けているあいだにも、いくつかの死を経験します。大病、大怪我、落第、不合格、不採用、解雇、別離、不誠実、加害、被害・・・。その苦しみ、その牢獄から、わたしたちはなかなか脱出することができません。

 しかし、わたしたちはずっとそこに留まっているのではありません。ずっとそこにうずくまっているのではありません。なぜなら、イエスさまはそこから外に出たからです。イエスさまは起き上がったからです。

 イエスさまは死にとどまらず、さらに生き続けました。そこがガリラヤです。わたしたちも人生の墓にとどまらず、ガリラヤという人生の舞台で生き続けようとするならば、そこでイエスさまと出会うことができます。そこをイエスさまとともに歩むことができます。

 イエスさまはわたしたちの墓の外で待っていますが、わたしたちを墓から連れ出してくれるのもイエスさまです。イエスさまはすでに墓を出てガリラヤを歩いている、といううれしい知らせ、福音が、わたしたちを閉所から空の下へと大地の上へと導きだしてくれるのです。

 わたしたちより先に地上の旅を終えた友らも墓の中に閉じこもってはいません。友らも、死者の中から復活して、わたしたちより一歩先にガリラヤを歩いています。友らを墓に求めてはなりません。友らは今わたしたちとともにいます。

 神さまは、イエスさま、友ら、わたしたちを墓に封じ込めません。色とりどりの花と緑の野へと救い出してくださいます。

2025年4月19日 土曜日

マタイ6:24 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 

富はある程度は大切です。最低限度の衣食住だけでなく、緊急時やささやかな余暇や文化のためのお金は必要です。 

しかし、ぜいたくな生活を求めて、あるいは、お金そのものを限りなく求めて、お金を愛するようなことがあってはなりません。 
そうなってしまえば、それは、お金に仕えてしまっているのです。お金を自分の神にしてしまっているのです。 

最低限度プラスアルファのお金があるならば、あとは、それ以上のお金ではなく、神さまを支えに生きていきましょう。 

わたしたちが、過度の財産ではなく、神さまをこそ慕い求めることを、神さまは望んでおられるのです。 

わたしたちが過剰な富を慕い求める姿を神さまは悲しまれます。 それが神さまの御心です。

ご自身のすべてを無条件に与えてわたしたちを生かしてくださる神さまが、いつもわたしたちと一緒にいてくださる。わたしたちはすでにこのような無限永遠の富をいただいているのです。

2025年4月18日 金曜日

おはようございます。

マタイ6:22 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

わたしたちの中にある光とは、神さまのことであり、イエスさまのことでしょう。

周りの人や出来事をよこしまな想いで見れば、そこに秘められている神さまの光は見過ごされ、したがって、その神さまの光は、わたしたちの中に入って来ず、わたしたちの中は暗いままです。

はんたいに、周りの人や出来事や風景を澄んだ思いで見渡せば、そこに込められている神さまの光がわたしたちの中に入ってきて、わたしたちの心は明るく照らされます。

神さま、ものごとの中に潜んでいるあなたの光を見出す心をわたしたちに育ててください。

神さま、わたしたちがあなたの光を受け入れ、わたしたちの心が、あなたによって、今日も輝きますように、お祈りいたします。

2025年4月17日 木曜日

おはようございます。

マタイ6:19 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。6:20 富は、天に積みなさい。

キリスト教徒や牧師の中にも、地位、名声、称賛、財産など、地上に富を積もうとしたりする人がいます。

そのようなものを求めることは、イエスさまや神さまにはまったく関係なく、むしろ、御心とは反対のものであることを知りつつ、わたしも、そのようなものを求めてしまいます。

けれども、本当はそんなことをしなくてもよいし、そんなこととは一線を画す生き方が求められています。

むろん、最低限度プラスアルファの衣食住や平安は必要です。

しかし、それで十分です。

イエスさまの十字架の道を想いましょう。

執着しないことにまさる富はありません。

なぜなら、インマヌエル、アガペー、シャロームという、朽ちない天の富を、

イエス・キリストによって、わたしたちはすでにいただいているからです。

♪十字架のほかには、誇るものあらず、この世のものみな、消えなば消え去れ♪

2025年4月16日 水曜日

おはようございます。

マタイ6:16 偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

断食中に暗い顔をして、わたしはこんなにも立派な信仰を持っていますよ、と人にアピールしようとする者たちを、イエスさまは「偽善者」と呼ばれました。

わたしも、それと同じようなことをしてしまっている、と告白しなければなりません。

けれども、イエスさまはそんなわたしに「人に気づかれない」ようにする道をくりかえし教えてくださいます。

しかし、報いを求めてではなく、感謝して、人知れず、神さまにお仕えしたいと思います。

人には気づかれなくても神さまは見ていてくださるでしょう。

これにまさる報いはありません。

これ以上の報いを求めれば、偽善者に戻ってしまうかもしれません。

2025年4月15日 火曜日

おはようございます。

マタイ6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

これは、まずわたしたちが人の過ちを赦したら、つぎに神さまがわたしたちの過ちを赦してくださる、というようにも理解できます。

けれども、イエスさまのたとえ話の王はこう言っています。

18:32『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

これによれば、まず神さまがわたしたちを赦してくださったから、つぎにわたしたちも人を赦す、ということになります。

はたしてどちらの順番なのでしょうか。

さらには次のようにも考えられないでしょうか。

わたしたちが人を赦すことそのこと自体が、同時に、神さまがわたしたちをお赦しくださることであり、わたしたちが人を赦すよろこびは、同時に、神さまに赦していただく喜びであると。

いかがでしょうか。あなたは、どう思いますか。

2025年4月14日 月曜日

おはようございます。

マタイ6:9 こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

わたしたちの「主」であるイエス・キリストが「こう祈りなさい」(6:9)と教えてくださった「『主』の祈り」は、最初に神さまのことを祈り(6:9~6:10)、つづけて、わたしたちのこと(6:11-13)を祈ります。

つまり、神さまを賛美することに基づいて、わたしたちのことの祈りがあるのです。

神さまがおられることに基づいて、わたしたちもここにいるのです。

ありあまる財産ではなく、今日の糧、必要な糧を、

神さまを信頼しきれず、隣人を大事にしきれないわたしが赦されることを、

悪い力から救われることを

祈ります。

これが「必要な」(6:8)祈りです。

2025年4月13日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ6:7 祈るときは異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる。6:8 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

神さまはわたしたちに「必要なもの」をご存じだとイエスさまは言われます。

「神さまこそがわたしたちの王である」、これがわたしたちにとっていちばん必要なことではないでしょうか。

だから、王である神さまのお名前が賛美されること、地上にも神さまを王とする御国が来ること、そして、神さまの御心に従って御国が治められることを、祈り求めなさい、とイエスさまは言われるのではないでしょうか。

11節に「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」とありますが、そのまえに、王である神さまの御心が地上でなされますようにと祈るのです。

なぜなら、わたしたちに「必要な糧」が与えられることは、神さまの御心だからです。

2025年4月12日 土曜日

おはようございます。

マタイ6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

神さまにおささげする、自分の持っているもの、時間、労力を人とわかちあう。

こうしたことは、人に誇るためにするのではありません。

神さまに救っていただく代金としてお支払いするのでもありません。

ただただ、神さまがわたしたちに与えてくださった恵みと救いに感謝して、それにこたえて、ひそやかになすことです。

神さまはご自分のひとり子イエス・キリストをおしみなくわたしたちに遣わしてくださいました。

イエス・キリストはご自分の生涯といのちをおしみなくわたしたちに与えてくださいました。

はかりしれないこの恵みに心から感謝して、わたしたちは、いただいたものを、ひそやかに神さまにお返しし、あるいは、隣人とわかちあうのです。

2025年4月11日 金曜日

おはようございます。 

マタイ5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

愛を徹底させるのなら、自分を愛してくれない人をも愛するのです。 

自分に挨拶をしない人、敵意を示す人をも愛するのです。 

神さまはわたしたちを徹底的に愛してくださいます。 

わたしたちが悪人であっても正しくない者であっても(45節)愛してくださいます。 

神さまの愛がこのように徹底したものであるように、わたしたちの愛も一部の人だけでなく、自然には(人間的な思い、肉の思いでは)愛せない人にも向けられるものでありたい、と切に祈ります。 

このような愛は、聖書の御言葉に心を動かされ、イエスさまに従って生きて行こうと心を決め、神さまに祈り、わたしたちの心をイエスさまと神さまにお委ねすることによって、少し実を結ぶのです。

2025年4月10日 木曜日

おはようございます。

マタイ5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

イエスさまがわたしたちに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えてくださる根拠は、まさに、神さまがわたしたちに同じようにしてくださっておられるからです。

いや、わたしたちよりはるかに完全にそのようになさっておられるからです。

太陽は悪人の上にも昇り、雨は正しくない者にも降ります。

それと同じように、神さまはご自分から離れていく者を愛し、ご自分に背く者のために祈ってくださいます。

ようするに、神さまはわたしのような本来は神さまにふさわしくない者を愛し、心を配ってくださるのです。 だから、わたしたちも自分を傷つける人を愛し祈るように促されているのです。

2025年4月9日 水曜日

マタイによる福音書5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

イエスさま以前は、「隣人」は同胞、同じ民族、仲間内を意味しました。自分たちと同じものに属する人びとは大事にするが、自分たちと異なる人びとは受け入れるな、と言うのです。これは今のわたしたちの姿にも通じます。

けれども、イエスさまは、わたしたちと異なる人びとをも大事にし、わたしたちを攻撃するように思える人びとをも受け容れなさい、と言われるのです。

たとえば外国人はわたしたちに害をもたらす、とわたしたちは思い込みがちです。また、自分の意見に賛成してくれない人、反対する人に対しては、反発を覚えます。

しかし、イエスさまはそのような人を愛し、そのような人のために祈りなさい、とわたしたちに教えてくださり、そのような生き方へと導き、その生き方へと変えようとしてくださいます。

自分と同じ人びとだけでなく、自分と異なる人びとをも、イエスさまはわたしたちの隣人としてくださるのです。

2025年4月8日 火曜日

おはようございます。

マタイ5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

「相手が先にやったからやり返す」のであれば、永久に終わりません。やり返された方は、自分がやったことは忘れて、先にやられたと思い、またやり返すことでしょう。

復讐ではなく、冷静に話すことです。

ある大学教員は、学生のレポートの提出が遅れても人格は攻撃せず、「次は必ず期限内に出すように」と冷静に約束させるそうです。人を責めるのではなく、事柄を整えるのです。

こちらの心を傷つける、相手の心無い言葉や態度に対しては、怒りを投げ返したくなりますが、それでは、平和は訪れないでしょう。

わたしたちは、人を傷つけ、神さまをも悲しい思いをさせてしまっていますが、神さまは、それに報復攻撃をなさいません。

むしろ、わたしたちをお赦しくださり、再起の道を示してくださいます。

倒れても倒れても、何度でも何度でも、起き上がれます。

主が起こしてくださいます。

2025年4月7日 月曜日

おはようございます。 

マタイ5:33 「昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 

「誓いを果たす」ということは、自分の意志や努力、能力によってのみ何かをなそうとすることになりかねません。 

しかし、わたしたちは、神さまを信頼することが大事です。自分の弱さ、力のなさを認め、神さまにお委ねするのです。

わたしたちは、自分の思いつきで何かをするのではなく、まずは、神さまの愛、恵みをしっかり受け止め、その神さまの愛に促され、助けられ、神さまの愛に感謝しつつ、その感謝の表れとして、何かをなすのです。 

あるいは、イエスさまの愛の生き方に心を動かされて、イエスさまに従って、わたしたちも人を愛そうとするのです。 

これは、最初に自分の考え、思いつきがあって、それから離れないという生き方とは異なります。 

自分の決心ではなく、神さまの愛に感謝して、それにお応えして、また、イエスさまの愛に心を動かされて、わたしたちは生きたいと思います。

2025年4月6日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。5:32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

離縁状を書いて渡しさえすれば、妻を放り出しても構わない、と考えていた夫たちがたくさんいたのでしょう。

けれども、それでは、その女性は生きて行けません。

だいじなことは、かたちだけの「正しさ」ではなく、そこに相手を大切に思う心があることです。

イエスさまは、律法を守っていないと責め立てられ、そのあげく、神さまを冒涜したとされ、十字架につけられてしまいました。

けれども、イエスさまにとって大事なことは、たとえば「安息日には何もしてはならない」という規則ではなく、安息日であっても、人を癒すことでした。

わたしたちも、何が大事なのか、「正しさ」が大事なのか、それとも、神さまと相手を思う愛なのか、もういちど考え直してみようではありませんか。

2025年4月5日 土曜日

おはようございます。

マタイ5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

人はそれぞれ自分のいのち、体、心、考えを持って生きています。人はその人の人生の主人公のひとりです(もうひとりは、神さまです)。

それなのに、わたしたちは人を自分の道具にしてしまうことがあります。相手のいのち、体、心、考え、人生を配慮しないのです。

イエスさまは、姦淫をしないだけでなく、人を自分のための道具にしてしまうことを戒めておられるのではないでしょうか。

わたしが「わたし」であるように、人も「わたし」です。

人も神さまに与えられ、イエスさまが大事になさる「わたし」なのです。

イエスさまがそうなさったように、わたしたちも人を道具とせずに、人の「わたし」を否定せずに、人の「わたし」を心から大事に思い、大事に扱おうではありませんか。

2025年4月4日 金曜日

おはようございます。

マタイ5:21 「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

「 殺してはならない」(旧約聖書、出エジプト記20:13)とは、モーセの十戒でも言われており、わたしたちの多くも守っているつもりでいます。

けれども、イエスさまは、もっと掘り下げなさい、と言われるのです。

あなたは、人は殺していなくても、『ばか』などという言葉や、ひどい態度で、人を深く傷つけていませんか、とイエスさまは、わたしたちに問いかけてくださいます。

そして、これからは、人に反感を持たせてしまうようなことはひかえ、人と平和に生きなさい、とイエスさまは導いてくださいます。

2025年4月3日 木曜日

おはようございます。

マタイ5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

旧約聖書は「律法」「預言者」「諸書」から成り立ちます。「律法」には命令文だけでなく、アブラハムなどの「物語」も含まれます。

旧約聖書は救い主イエス・キリストにおいて成就(じょうじゅ)したとも考えられます。

そういう意味では、旧約聖書はキリスト者(クリスチャン)にとっても、今なお大事な聖典であり、正典です。聖典とは聖なる文書のこと、正典はキリスト教が聖書に収めた聖典のことです。

では、旧約聖書の戒めは、キリスト者にどういう意味があるのでしょうか。

レビ記11:10 しかしひれやうろこのないものは、すべて汚らわしいものである。11:11 その肉を食べてはならない。

これは、うろこのないイカやタコを食べてはならない、という意味のようですが、わたしたちはイカもタコも食べています。

けれども、以下のような戒めは、わたしたちもおろそかにはしないでしょう。

出エジプト記20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。

レビ記19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

これらの戒めをどのくらい守れば天国に入れられるのか、どの程度破れば天国に入れられないのか、わたしたちにはわかりませんが、これらを守ることはひじょうに大切でしょう。

しかも、イエスさまは、ただ殺さなければよい、ただ盗まなければよい、ただ隣人を愛すればよい、とは言われず、これらをもっと掘り下げられるのです。

わたしたちが人を憎んだり、人のものを欲しがったりすることをも、イエスさまは指摘され、隣人だけでなく敵をも愛せよ、と言われるのです。

2025年4月2日 水曜日

おはようございます。

マタイ5:14 あなたがたは世の光である。 5:16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

神さまはわたしたちの光です。

神さまが暗闇を照らしてくださいますから、わたしたちは歩くことができます。

わたしたちがそのように歩く姿を見て、きっと誰かが、神さまの光に気づきます。

わたしの父親は、気が短く、傲慢な人でした。 わたしは父親をひどく嫌っている時期もありました。

しかし、こんな人でも神さまを信じているのなら、わたしにも神さまを信じられるかもしれない、と思いました。

立派な人だけでなく、破れの多い人も、神さまの光を誰かに示しているのです。

「あなたがたは世の光である」「あなたたちは神さまの光を示している」とイエスさまは言ってくださいます。

2025年4月1日 火曜日

おはようございます。 

マタイ5:13 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 

塩は食品を保存します。また、おいしくします。 

わたしたちも、誰かを大切にしたり、誰かの人生の舞台のひとつの点になったりしています。 

神さまがわたしたちをそのようにしてくださったのです。 

わたしたちはここにいるだけで、誰かの生きがいになったり、喜びになったりします。

 「ここにいるだけ」と言いましたが、「ここにいる」ことほど大きなことはありません。 

神さまはこのようにわたしたちを「地の塩」にしてくださいました。 

それに気づかなかったり忘れてしまったりすると、わたしたちは、自分は役立たずだとか、人から捨てられているとか思ってしまいます。 

けれども、じっさいはそうではなく、たとえ、わたしたちはすべての人からは愛されているように思えなくても、何人かの人びとにとっては、とても大切な存在なのです。

地の塩なのです。 

すくなくとも、神さまとイエスさまにとっては、そうなのです。

2025年3月31日 月曜日

おはようございます。

マタイ5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

神さまを信じたり礼拝を大事にしたりすることで、辛い思いをしておられないでしょうか。

信仰を直接非難されるわけではないけれども、神さまを信じるゆえに、苦しい思いをしておられないでしょうか。

「神さま、わたしはあなたをこんなに信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか」と苦しんでおられないでしょうか。

しかし、「あなたは幸いですよ、喜びなさい、あなたは神さまの愛を受けていますよ、

あなたの信仰の先輩たちもおなじように苦しみました、

あなたはあの先輩たちと同じところに列せられているのですよ」

とイエスさまは励ましてくださいます。

人は知らない、わかってくれないあなたの苦しみを、十字架のイエスさまは、良く知っていてくださいます。

あなたとともに、あなた以上に、苦しんでくださいます。


2025年3月30日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

義とは、「神さまから良し!と受け入れられること」ですが、これを大切にするがゆえに、苦しい思いをする人びとがいます。

たとえば、日曜日の礼拝で、神さまを賛美し、祈り、御言葉をいただくことを何よりも大切にしているのに、それを理解していない人から、「今は、それよりも、こちらのほうが大事なはずだ」と責められ、心を痛めている人びとがいます。

あるいは、この世での耐えがたい出来事に遭遇し、神さまを信じるからこそ、かえって、神さま、なぜですか、と苦しい思いをする人びとがいます。

しかし、この人びとは幸いですよ、この人びとは神さまの国の住民ですよ、とイエスさまは言ってくださいます。

イエスさまは、ご自分の大きな十字架を背負いながら、この人びとの苦しみをともに担い、一緒に歩き続けてくださいます。


2025年3月29日 土曜日

おはようございます。

マタイ5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

パレスチナ、ウクライナの戦争が終わりますように、人の命と生活が奪われませんように、と心を込めて祈り続けましょう。

わたしたちに何ができるでしょうか。教会の友の家にミサイルが落ちて来て、人が死に、家が破壊され、生活のすべてが失われたら、わたしたちは毎日そのことを祈らないではいられないでしょう。戦地の知らない人びとのことにもそのように心を深く痛める感受性、想像力を持ちましょう。

人を押さえつけず、むしろ、尊重しましょう。

自分の言葉が人を傷つけてないように、言葉がその場に小さな大事な平和をもたらすように、つねに、考えましょう。

わたしたちの行いや言葉が、イエスさまの愛の御心につながっているものでありますように、祈り求めましょう。

2025年3月28日 金曜日

おはようございます。

マタイ5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

わたしたちは、自分の中に、神さまから離れたり、人に無関心であったり、人を押さえつけたりする罪があることを認めなくてはなりません。

けれども、わたしたちはどうせ罪びとですから、と開き直って、そこに居座ってもなりません。

神さまとともに歩み、人を大切にする生き方を、つねに心がけたいと思います。

イエスさまはそのような生き方を貫かれました。

わたしたちがイエスさまのお姿を見て、イエスさまの歩みに倣って歩こうとするとき、そこには、苦しみが伴います。

しかし、苦しみにはるかにまさる幸いがあります。

イエスさまの背中を追って、神さまとともに歩み、人を大切にしようとする祈り、生き方そのものが、何にもまさる幸いではないでしょうか。

2025年3月27日 木曜日

おはようございます。

マタイ5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

「憐れみ深い」とは、自分は上に立って、自分より下に位置付けている相手に、何かを「してあげる」「してやる」ということではありません。

むしろ、相手と同じ立場に立って、自分の思いではなく相手の思いを大事にしようとすることです。

あるいは、相手の下に立って、相手に仕えようとすることです。

イエス・キリストは、十字架という死刑台、つまり、この世界で一番低いところ、一番苦しいところまで降りて、そこから、わたしたちの痛みをともにしてくださるのです。

わたしたちも、上から人を押さえつけようとするのではなく、相手を大切に思い、相手に仕える生き方ができるように、たえず祈り求めましょう。

2025年3月26日 水曜日

おはようございます。

マタイ5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

義とは、どういうことでしょうか。

ひとつは、神さまとの良い関係、そして、それに基づく、人との良い関係のことだとも考えられます。

つまり、神さまの無条件の愛によって大切に受け入れられること、そして、人とも相手を思いやり大切にしあうこととも考えられます。

そのような神さまとのつながり、人とのつながりを、慕い求める人、せつに祈り求める人は、神さまがそのように導いてくださるから、幸いなのだ、神さまに祝福されているのだ、とイエスさまは言ってくださっておられるのではないでしょうか。

自分は正しいと満足せず、神さまや隣人とのこのようなつながりを、つねに、あらたに、心に願い、祈り求めていきましょう。

2025年3月25日 火曜日

おはようございます。

マタイ5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

「柔和な」は「へりくだった」とか「やさしい」などとも訳されます。

頑なでもない、傲慢でもない、冷たくもない人びと、

つまりは、人を抑圧せずむしろ大切にする神さまとイエスさまの御心にならおうとする人びと。

そういう人びとは、アブラハムに「乳と蜜の流れる土地」が約束されたように、神さまのおおいなる祝福が約束されています。

砕かれた心は、よく耕された心であり、

それはすでに、それそのものが、神さまに祝福された豊饒な地ではないでしょうか。

わたしたちの心が柔和であるなら、その心こそが、神さまが与えてくださる約束の地ではないでしょうか。

コンクリートやアスファルト、日照りの荒野のように心を固くせずに、

むしろ、指の間からさらさらこぼれるように柔らかな土が黒く潤う

神さまの畑になりたい、と祈ります。

2025年3月24日 月曜日

おはようございます。

マタイ5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

病気、怪我、戦争、災害、仕事、学校、人間・家族関係、精神・・・

これらゆえに、深く悲しんでいる人びとがいます。

もう何年も何年も苦しんでいる人びとがいます。

わたしも苦しみました。

今も痛いです。

けれども、イエス・キリストが、わたしとともに苦しんでくださいます。

わたしの何倍も苦しんでくださいます。

これがわたしの幸いであり慰めです。

ある女性は何年も何年も苦しみ抜きました。

ある日、彼女は、キリストに出会い、後ろから服の房にそっと触れました。

キリストの後ろにいる、ということは、キリストに従う、キリストを信頼してついていく、ということではないでしょうか。

ある女性も何年も何年も苦しみ抜きました。

家族とともに祈り続けました。

ある日、ある人と不思議なめぐりあわせで出会いました。

それをきっかけに、それからも時間はかかりましたが、その人を信じて、その女性の苦しみは和らいでいきました。

あなたのその悲しみはきっと慰めを得ます。

だから、幸いなのです。

2025年3月23日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

山に登って教えるイエス・キリストを見て、ガリラヤの人びとは、かつてシナイ山のふもとで神からの十戒を民に告げたモーセを思い出したのではないでしょうか。

しかし、イエス・キリストは、かつての戒めをそのまま語ったのではありませんでした。

5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

ここには、「心を貧しくしなさい」という響きがあることは否定できませんが、命令文ではないことも重要です。

あなたは今心に穴を抱えているが、神さまはそういうあなたをこそ、今ふところに受け入れてくださる。

だから、あなたは、じつは、幸いなのです。

あなたは、自分は優れている、自分は救われる資格があるなどと傲慢にならず、むしろ、自分は弱く、人を傷つけてしまい、神さまも信頼しきっていない、と心を貧しくしている。

神さまはそういうあなたをこそ今ふところに受け入れてくださる。だから、あなたは、じつは、幸いなのです。

2025年3月22日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:19 わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。5:20 神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。

わたしたちは、とても残念なことに、神さまや隣人には誠実を貫けず、自分が自分がという想いに支配されてしまっています。

けれども、神さまは、それとは正反対で、真実なお方、真に誠実なお方です。

わたしたちが神さまを知ることができるのは、神さまが御子イエス・キリストを遣わしくださったからです。神さまはそのようにして、わたしたちをご自身に帰らせてくださる真実で誠実なお方です。

真実で誠実な神さま、そして、神さまの御子イエス・キリストはわたしたちを包み込んでくださいます。

このように真実で誠実である神さまとつながっていること、この神さまに包みこまれていること、この誠実なる神さまご自身こそが、永遠の命であり、わたしたちは、永遠の命なる神さまの内に入れていただいているのです。

2025年3月21日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。

神さまはわたしたちの「願い事は何でも聞き入れてくださる」とありますが、注意したい大事なことがあります。

まず、「その通りにしてくださる」ではなく「聞き入れてくださる」とあることです。

たとえば「○○大学に合格できますように」という願いは、わたしたちの経験上、その通りになるかどうかはわかりませんが、それをたんなる人間の願いではなく神さまへの「祈り」としてささげたならば、神さまは「聞き入れてくださる」「祈りとして受け入れてくださる」ことはまちがいありません。そして、わたしたちの救いのたしかさはこのように神さまが祈りを「聞き入れてくださる」ところにこそあるのです。

つぎに、「何事でも神の御心に適うことを願うなら」とあり「神に願ったことは既にかなえられている」とあります。つまり、「何事でも」とありますが、「神さまの御心に添ったことならば」ともあります。

神さまの御心に添ったこととはどういうことでしょうか。

たとえば、マタイ5章を見ますと、「こころの貧しい人は天の国の住民となる」「悲しむ人は神さまに慰められる」「平和を実現する人々は神の子と呼ばれる」とありますが、これは、イエスさまの御心ですから、このように祈れば、この祈りは聞き入れられます。

また、マタイ6章を見ますと、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「負い目を赦してください」とありますが、これも、イエスさまの御心ですから、このように祈れば、聞き入れられます。いや、すでに、神さまの聖名はたたえられていますし、神の国は来たとイエスさまは言われましたし、わたしたちは罪を赦されて神さまの愛のふところにいます。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

イエスさまのこの祈りは二段構えになっていますが、上の段を支える下の段の祈りは、神さまの御心に添ったものであり、すでにその通りになり、聞き入れられています。

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