牧師室より6
牧師室より6
2026年1月14日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書41:8 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。41:9 わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
イザヤの時代より千数百年前、神さまはアブラハムに「乳と蜜の流れる土地」へと導き、子孫を空の星、浜辺の砂の数ほどにするという約束、つまり、祝福の約束をなさいました。
ヤコブはその孫、イスラエルはヤコブの別名であると同時に、イスラエル民族のことでもあります。同時に、「ヤコブ」もここではイスラエル民族のことも指すでしょう。とくに、イザヤの時代、近隣大国に脅かされていたユダヤの民を指すのでしょう。
それが「わたしの選んだヤコブ」「わたしの僕イスラエル」そして「わたしの愛する友アブラハムの末」と呼ばれているのは、アブラハムと同じように、神さまの祝福の約束を受け継いでいることを意味するでしょう。
ユダヤの民は、大国バビロニアに国を滅ぼされ、その都バビロンに連れていかれ、捕囚になっていました。「地の果て、その隅々」という言葉を聞いて、バビロン捕囚となったユダヤの民は、ああ、自分たちのことだ、と思ったことでしょう。
神さまは捕囚となった民を「固くとらえ」「その隅々から呼び出す」と言われるのです。つまり、捕囚から救い出すと言われるのです。
捕囚の民を神さまは「あなたはわたしの僕」と呼びます。つまり、捕囚の民の古い先祖アブラハムやヤコブに与えた祝福の約束は続いているというのです。
そして、神さまは、捕囚の民を決して見捨てず、「選ぶ」というのです。
「選ぶ」とは「試験のように選抜する」という意味ではなく、「神さまの方から手を伸ばす」という意味です。
アブラハムに与えられた祝福の約束は、わたしたちにも続いています。
神さまは、わたしたちが今どこにいても、「地の果て」「世界の片隅」にいるような状態にあっても、決して見捨てず、手を差し伸べて、そこから呼び出してくださいます。
これがインマヌエル、つまり、「神さまがともにおられる」ということです。
2026年1月13日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書40:30 若者も疲れ、弱り、勇士もつまずき倒れようが 40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
元気な若者も疲れたり弱ったりすることがあります。屈強な勇士もつまづき倒れることがあります。
けれども、神さまを希望とする人は、たとえ、疲れたり弱ったりしても、神さまから新たな力をいただき、鷲が翼を広げて風にのって上昇するように、前を目指して、上を目指して、進むことができます。
神さまを希望とする人は、走っても弱ることなく、弱ってもふたたび走れるようになり、歩いても疲れず、疲れてもふたたび歩けるようになるのです。
神さまこそ、わたしたちの希望、わたしたちの力です。
2026年1月12日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。40:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
イザヤは言います。
神さまは、永遠なるお方で、世界をお創りになられる前から世界の救いが完成するその先まで、とこしえにおられるお方です。
神さまは、世界全体の創造者で、世界のすみずみまで神さまがお創りになられました。
神さまは、時間にも、空間にも縛られず、いつでも、どこでも、わたしたちとともにいらしてくださいます。
神さまのお力にも限界はありません。神さまは世界とわたしたちを愛し救われることにあきてしまわれることも、つかれてしまわれることもけっしてありません。
神さまの英知と御心は、わたしたちの考えや思いをはるかに超えておられ、わたしたちの小さな常識を覆される、限りない愛に満ちておられます。
わたしたちが疲れ果てたとき、そして、力が尽きてしまいそうなとき、立ち上がれず、心が萎えるとき、この神さまが、つまり、世界を創造し、時間も空間も越え、限りない力に満ち、圧倒的な愛と知恵に溢れるこの神さまが、わたしたちに力を与え、立ち上がらせ、心に息を吹きこんでくださるのです。
2026年1月11日 主日
おはようございます。
イザヤ書40:12 手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし/山々を秤にかけ/丘を天秤にかける者があろうか。40:13 主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。40:14 主に助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。
神さまは創造者であり、わたしたちは被造物(神さまに創っていただいたもの)です。
これは、神さまの大きな恵みであると同時に、神さまとわたしたちの圧倒的な違いです。
この違いを忘れて、わたしたちは、神さまをわかったようになってはなりません。
海、天空、大地、山々を創ったのは、わたしたちではなく神さまです。
神さまの霊を、神さまの御計画を、神さまの裁きと神さまの知恵を、わたしたち人間の、ちっぽけで浅い考えの枠に閉じ込めてはなりません。
神さまはヨブに言われました。
「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(38:4)。
神さまは大地を据えるお方、つまり、世界の創造者ですが、ヨブは被造物であり、神さまによる世界創造の二日目には存在しませんでした。
「神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」(創世記1:10)。
けれども、神さまと人間のこのような圧倒的な違いを超えて、神さまはわたしたち人間のところにお越しくださり、さらには、人となってくださいました。
それが、イエス・キリストです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)
2026年1月10日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書40:11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
神さまは、羊飼いとして、群れを養ってくださいます。
詩編23編に「主は私の羊飼い」とある通りです。
捕囚の地バビロンから解放されエルサレムに帰還する民は、荒れ野にできた広い道を、神さまが羊飼いのように先頭に立って、自分たち羊の群れを導いてくださることを経験したことでしょう。
その際に、神さまは、自分の力で歩けない小羊をふところに抱いて、歩んでくださるのです。
イザヤから数百年後、イエスさまは言われました。
「 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。
イエスさまは、困難な状況、あるいは、自分中心の思いに束縛されているわたしたちを、そこから解き放ち、希望の道、神さまや他の人とともに歩む道へと導きだしてくださいます。
2026年1月9日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書40:9 高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神 40:10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。
「福音」の「福」は「良い」「幸福な」、「音」は「おとずれ」「知らせ」です。つまり、イザヤが告げる「良い知らせ」は、まさに、「福音」です。「福音」とは「神さまからの良い知らせ」です。
バビロンで捕囚の身になっていたユダヤの民が、シオンの丘のあるエルサレムに帰還できる。神さまがそうしてくださる。これも旧約聖書の「良い知らせ」のひとつです。
ユダヤの民は、もはや、バビロニアの王によってではなく、「主なる神」の「御腕」によって「統治される」のです。
イザヤの数百年後、イエスさまは「神の国が近づいた」と宣言なさいました。ヘロデでもなくローマ皇帝でもなく、神さまこそがわたしたちを治めてくださるまことの王である、とイエスさまは告げられたのです。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(マルコ1:14-15)。
イザヤが「良い知らせ」と言ったことを、イエスさまは「福音」と言われました。
イザヤが「神さまの御腕による統治」と言ったことを、イエスさまは「神の国」と言われたのです。
神さまこそがまことの王であり、神さまが愛によってわたしたちのすべてを治めていてくださる。これが御言葉がわたしたちに日々伝えてくださる「良い知らせ」「福音」なのです。
2026年1月8日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
緑の草も美しい花も、中東では熱風が吹けば枯れるそうです。
神さまによる被造物であるわたしたち人間の生命も永遠ではありません。
しかし、創造者である神さまは永遠です。
わたしたちには限界がありますが、神さまは永遠です。
わたしたちは有限ですが、神さまがわたしたちに語り掛けてくださる御言葉はとこしえです。
イザヤの数百年後、イエスさまはこう言われました。
「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ6:30)
被造物であり有限であるわたしたち、わたしたちの人生、わたしたちの生を、永遠なる神さまが装ってくださるのです。祝福してくださるのです。
わたしたちには限界がありますが、永遠なる神さまの愛と救いの御言葉がわたしたちを祝福してくださいます。なんという恵みでしょうか。
2026年1月7日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
紀元前6世紀、国を滅ぼされ、バビロンで捕囚となっていたユダヤの民は、イザヤのこの預言を聞いてどれだけ慰められたことでしょうか。
民の故郷であるエルサレムと民が今捕囚となっているバビロンの間には広大な砂漠、荒れ野があります。
しかし、その荒れ野に広い道ができる、と預言者は言うのです。
さらには、丘と谷というような高低差もなくなり、歩きやすい平らな道ができるというのです。
この道は、神さまがバビロンまでユダヤの民を迎えに来てくださる道であり、同時に、ユダヤの民がエルサレムに帰還する道ではないでしょうか。
わたしたちがたとえ神さまから遠くにいても、故郷から遠いところにいても、平安や祝福から遠いところにいるように思えても、神さまは広い道を造り、わたしたちのところまで来てくださり、広い道を通って、わたしたちを連れ帰ってくださいます。
わたしたちも、高くなった心を低くし、狭くなった心を広げ、神さまをお迎えし、神さまに導かれて歩みましょう。
神さまはわたしたちをかならずすばらしいところに連れ帰ってくださいます。
そして、そのことを希望とすれば、そこには神さまはともにおられ、そこはすでにすばらしいところなのです。
2026年1月6日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
ユダヤの人びとはバビロニア帝国によって国を滅ぼされ、帝国の首都バビロンに連れていかれ、そこで捕囚になっていました。しかし、数十年後、神さまはユダヤの民をそこから解放してくださいます。
苦しんでいるわたしたちを神さまが助け出してくださる、何とすばらしい慰めであろうか、と預言者は言います。
わたしたちが今抱えている苦しみもやがて解決される時が来ます。
その日を信じて、希望を持ちましょう。
神さまは今、わたしたちを慰めてくださっておられます。
わたしたちも今、神さまの慰めを受けとりましょう。
2026年1月5日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書35:9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み35:10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
神さまが来て救ってくださるとき(35:4)、わたしたちの人生の困難は、もはや獅子のような手に負えない脅威ではありません。神さまは、わたしたちを困難から救い出して、人生を前へと進ませてくださいます。
とこしえなる神さまの喜びに先導されて、わたしたちも喜び歌いながら、神さまを賛美します。
わたしたちの嘆きと悲しみは、神さまがともにいらしてくださる喜びと楽しみに変えられます。
きっとそういうときが来ます。
そして、信じ、待ち望むならば、それは、いますでにわたしたちの胸の中にあるのです。
2026年1月4日 主日
おはようございます。
イザヤ書35:7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。35:8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。
「神が来てあなたたちを救われる」(35:4)とき、それまではわたしたちが生きられなかったような場所が、ゆたかに生きられる場所に変えられます。渇き切った人生が潤いある人生に変えられます。
生きる道が見いだされなかったところに大路が敷かれます。神さまと歩む聖なる道です(聖なのはわたしたちではなく神さまです)。
神さまはわたしたちの前に幅広い道を開いてくださり、神さまがわたしたちを先導してくださいます。
2026年1月3日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
その時とは、「神は来て、あなたたちを救われる」(35:4)時です。
イザヤの何百年か後(のち)、イエスさまは次のようなことをなさいます。
「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた」(マタイ15:30)
つまり、イエスさまがなさったことは、神さまの救いの業であった、と福音書は語っているのです。
イエスさまは、わたしたちの荒れた心、荒れた日々を、みずみずしいものに創り変えてくださいます。
2026年1月2日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。35:4 心おののく人々に言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
わたしたちの手に力が入らないくらいに弱ったときでも、膝がよろめくときでも、心がおののくときでも、神さまがお越しくださり、問題を抱え、苦しんでいるわたしたちを守り、支え、励まし、慰めと希望を与えてくださいます。
神さまがともいらしてくださり、神さまが救ってくださいます。
イエスという名前には「主は救ってくださる」という意味があります。
「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。
イエスさまはインマヌエルとも呼ばれます。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1:23)。
つまり、主が罪と苦しみからわたしたちを救ってくださるとは、わたしたちの罪と苦しみの中に主がともにいてくださる、ということなのです。
2026年1月1日 木曜日
新しい年になりました。
イザヤ書35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。35:2花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
荒れ野、荒れ地、荒れていたはずのわたしたちの心が、喜び踊り、花を咲かせ、賛美の声を上げるのはなぜでしょうか。
それは、神さまが砂漠とわたしたちの渇いた魂を、緑色に潤わせてくださるからです。
わたしたちの不安と恐れに、神さまの陽光が差し込むからです。
長い夜、辛い過去があっても、神さまは、夜明けをもたらし、新しい時を創造してくださいます。
2025年12月31日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。
サウル王が登場するまで、イスラエルには王はいませんでした。
神さまがイスラエルの王だったからです。
イエスさまは「神の国が近づいた」と言われました。
ヘロデ王でもローマ皇帝でもなく、まことの王は神さまであることを示してくださったのです。
この世界を愛で治め、わたしたちの生きる根本となってくださり、わたしたちがすべてをお委ねし、お仕えすべき王は、神さまだけです。
神さまは、愛の戒めをあたえてくださり、愛によってわたしたちを裁いてくださり、愛によってわたしたちを救ってくださるまことの王なのです。
2025年12月30日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書33:5 主は、はるかに高い天に住まわれ/シオンに正義と恵みの業を満たされる。33:6 主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。
神さまは、わたしたち人間をはるかに超えるお方ですが、わたしたちの住まうこの地に、その正義と恵みの業をなしてくださいます。
神さまは、わたしたちの住まう場所だけでなく、わたしたちが生きる時をも祝福してくださり、去りゆく年も来る年も、神さまに祝福されたたしかな時としてくださいます。
神さまがわたしたちを創造し、救い、今ともにいらしてくださることを知る時、わたしたちは救いの思いに満たされます。
神さまに恐怖を抱くのではなく畏怖することは、わたしたちの人生にとってもっとも大切な財産です。
2025年12月29日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書33:2 主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください。
わたしたちは、預言者イザヤとともに、神さまを待ち望み、憐れんでください、我らの腕となってください、我らの救いとなってください、と祈ります。
神さまは、預言者イザヤのこの祈りを聞いてくださり、わたしたちのこの祈りを聞いてくださいます。
イエス・キリストこそが神さまの憐みの現れであり、イエス・キリストこそが我らの腕となってくださり、イエス・キリストこそが我らの救いです。
神さまの御子、わたしたちの救い主イエス・キリストが、わたしたちのところにおこしくださり、わたしたちとともにいらしてくださる! この喜びをともにかみしめましょう。
2025年12月28日 主日
おはようございます。
イザヤ書32:15 ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。32:16 そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。32:18 わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。
創造者なる神さま、救い主御子イエス・キリスト、そして、聖霊が、天からわたしたちのところにお越しくださるとき、からからに乾いた荒れ野は緑ゆたかな園に変わります。
神さまこそがわたしたちのまことの王となってくださり、神さまは権力や暴力、軍事力ではなく、公平、正義でわたしたちを治めてくださり、わたしたちの間には平和と信頼が満ち溢れます。
神さまこそが、わたしたちの「平和の住みか」「安らかな宿」「憂いなき休息の場所」です。
これは、御言葉と祈り、礼拝、賛美、そして、イエスさまの愛に従うわたしたちの歩みの中に現れます。
2025年12月27日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書32:1 見よ、正義によって、一人の王が統治し、高官たちは、公平をもって支配する。32:2 彼らはそれぞれ、風を遮り、雨を避ける所のように、また、水のない地を流れる水路のように、乾ききった地の大きな岩陰のようになる。32:3 見る者の目は曇らされず/聞く者の耳は良く聞き分ける。
イエス・キリストは、降誕の時と十字架の時、「ユダヤ人の王」と呼ばれました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(マタイ2:2)
「イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた」(マタイ27:37)
しかし、イエス・キリストは、この世の王のように力で支配するのではなく、神さまの国の王として愛で治め、わたしたちに下から仕えてくださいます。
イエスさまは、わたしたちを人生の暴風防雨から守ってくださり、渇いたわたしたちの心を潤してくださり、猛暑に苦しむわたしたちのための日陰となってくださいます。
イエスさまは、わたしたちの生きている姿をしっかりと見てくださり、わたしたちの祈りやうめきや叫びをしっかりと聞いてくださいます。
イエスさまは、正義によってわたしたちを治めてくださいますが、それはわたしたちを裁き捨てる正義ではなく、愛しぬき救ってくださる正義、神さまの義なのです。
2025年12月26日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書31:6 イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ 31:7 その日、人々はそれぞれ、かつて、自分の手で造り、それをもって罪を犯した銀の偶像と金の偶像を退ける。
わたしたちは、神さまに従っているつもりで、じつは、自分のこれまでの思い、自分の執着、自分の正しさ、自分の心の産物にひれ伏してしまっていないでしょうか。金、財産、地位、人間関係をこそ、根本の頼み、人生の土台としてしまっていないでしょうか。
けれども、わたしたちは、神さまの御言葉を聞くことによって、神さまでないもの、御言葉でないものにもっともすがり、神さまに背いてしまっている自分の姿に気づき、まことの土台である神さまに日々立ち帰りましょう。
2025年12月25日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書31:1 災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。
イスラエルの民は大国に攻められる危機を覚え、もうひとつの大国エジプトに助けを求めようとしますが、イザヤは、そのようなことをする者は「災いだ」と断言します。
それは、軍馬や戦車や騎兵の力にすがろうとすることであり、イエスラエルの聖なる方であり、主である神さまを信頼しないことだ、と言うのです。
わたしたちも、人生の根本の土台を、お金や自力や自分の思いに置こうとしていないでしょうか。難題に臨むときの、根本の支えを神さまにする、神さまこそがわたしたちの支えであることを忘れてしまっていないでしょうか。
わたしたちと、わたしたちの人生、わたしたちの家族、世界の根本の支えは、力ではなく、神さまです。
わたしたちは、貧しい馬小屋で生まれ、粗末なまぶねに横たわる生まれたばかりの小さなイエスさまを、わたしたちの主、神さまの御子、救い主と、信じ、信頼し、その信仰を告白するのです。
2025年12月24日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書30:26 主が民の傷を包み/重い打ち傷をいやされる日/月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの日の光となる。
今夜生まれる救い主は、どんなに重い打ち傷であっても、わたしたちをお癒しくださいます。
この方は、闇を照らす光です。
この方の光は、太陽の七倍の光です。
その光は、戦争を平和に、天災を天恵に、不安を信頼に、憎しみを愛に、捕らわれを解放に、死する生命を永遠のいのちに、創り変えてくださいます。
2025年12月23日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書30:23 主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。地の産み出す穀物は豊かに実る。その日には/あなたの家畜は広い牧場で草をはみ 30:24 地を耕す牛やろばは/ふるいや箕でえり分け/発酵させた飼葉を食べる。
金や銀や自分の思いや力ではなく、神さまをこそ根本の頼み、人生の土台とするように、神さまはわたしたちを促してくださいます。
わたしたちが神さまを土台にして種を蒔けば神さまは雨を降らせ、芽生えさせてくださいます。神さまの恵みによってわたしたちの霊と心と人生はゆたかにされます。
わたしたちは礼拝という牧場で御言葉という牧草をいただきます。
永遠なるお方を知り、ひざまずき、黄金・乳香・没薬をささげ、一番大切なものを委ね、わたしたちの人生はゆたかに実り、永遠のいのちへと招かれて行きます。
2025年12月22日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書30:21 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。30:22 そのとき、あなたは銀で覆った像と/金をはり付けた像を汚し/それを汚れたもののようにまき散らし/「消えうせよ」と言う。
自分の根本の支えをお金や地位や人間関係や自分の思いに求めてはならない、むしろ、神さまをこそ根本の支えとして慕い求めなさい、自分以外の人の生命と尊厳を大事にしなさい(「あなたは殺してはならない」)、すべてを尽くしてあなたの神と隣人を愛しなさい。
神さまはわたしたちをこのように導いてくださいます。
わたしたちは金や銀の偶像、自分の私利私欲、自分の思いへの執着に「消えうせよ」と言い、神さまを土台とする道を選びましょう。
神さまはすでにわたしたちにこの道を用意してくださっておられます。
2025年12月21日 主日
おはようございます。
イザヤ書30:19 まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ/もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて/必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。
神さまに「助けてください」と祈れば、神さまは「直ちに答えて」くださいます。
神さまの第一の「答え」は、「わたしたちが祈るその場に、ともにおられ、聞いてくださる」ということです。
わたしたちが祈るのは、そこにおられ聞いてくださるという「直ちの答え」を確信している、いや、知っているからです。
「主よ、お越しください」と祈る時、主はすでにそこにおられ、祈りを聞いていてくださいます。それが「直ちの答え」です。
そして、それは、主がそこにいらしてくださることに、わたしたちが直ちに答えて、主よ、お越しください、主よ、ともにいらしてください、と祈ることと同じなのではないでしょうか。
2025年12月20日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
わたしたちは、イエス・キリストがわたしたちのところにお越しくださるのを待ち望んでいますが、その前に、神さまはわたしたちに恵みを与えようと待っていてくださいます。神さまはわたしたちに憐れみを与えようと立って待ち構えていてくださるのです。
わたしたちがその到来を待ち望んでいるイエス・キリストは、じつは、イエスさまの方が立ってわたしたちを待ち構えていてくださるのです。
まず神さまがわたしたちを歓迎してくださり、そしてわたしたちが神さまを歓迎してくださるのです。
このアドベント、神さまはいつでもわたしたちを待ち構えていて歓迎してくださることを想い起こし、わたしたちも神さまを待ち構え歓迎いたしましょう。隣人を待ち構え歓迎いたしましょう。
2025年12月19日 金曜日
おはようございます。
イザヤ29:18 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。29:19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
その日とは神さまの救いが訪れる日のことですが、耳の聞こえない人びとが聞こえるようになり、目の見えない人びとが見えるようになる、苦しんでいた人びとが喜ぶようになり、貧しい人びとが神さまゆえに喜び踊る、とイザヤは言います。
イエスさまは、まさにそのようになさいました。イエスさまは人びとの耳と目を癒し、道端に座っていた人はイエスさまに呼ばれ躍り上がりました。
このアドベントにわたしたちが待ち望み、クリスマスにお越しくださるイエス・キリストは、今日も、わたしたちや苦しんでいる人びとを立ち上がらせてくださることでしょう。
2025年12月18日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書29:17 なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。
わたしたちの人生の園は、ときに、草木が枯れ果てた荒野のようになってしまうことがあります。
けれども、神さまは、それをきっと、ふたたび、緑の森林に、色とりどりの園にしてくださることでしょう。
これを幻と呼ぶことがありますが、それは絵空事ではなく、ヴィジョン、展望、希望なのです。
神さまは、わたしたちの生きる世界を、深い緑の木々の枝から陽光が差し、四季の花が咲く園にしてくださることでしょう。
そこでは、あらゆる人びとがわたしたちとともに喜びに満たされることでしょう。
2025年12月17日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書27:12 その日が来ると/ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで/主は穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人々よ/あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。
イザヤの時代、イスラエルの人びとは、メソポタミアやエジプトの大国に悩まされていました。
しかし、神さまが、その悩みから救い出すために、「ひとりひとり拾い集めて」くださる日が来る、とイザヤは預言します。
わたしたちは、クリスマスを前に、イエス・キリストがお越しになる「その日」を心待ちにしています。
神さまは、悩み苦しむわたしたち、ひとりひとりを拾い集めてくださることでしょう。
2025年12月16日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書26:12 主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を/成し遂げてくださるのはあなたです。26:13 わたしたちの神なる主よ/あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは/あなたの御名だけを唱えます。
世界とわたしたちを本当に治めていてくださるのは、目に見えない神さまだけです。
この世は目に見える権力者たちが支配していますが、わたしたちと世界を本当に治めているのは、神さまの愛と平和です。これが神の国です。
ですから、わたしたちは、人ではなく、神さまだけを拝むのです。
神さまの御子、救い主イエス・キリストは、神さまの愛そのものであり、平和の君(きみ)です。
この方をお迎えすることは、神さまの愛と平和をお迎えし、わたしたちの心を治めていただくことなのです。
2025年12月15日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書26:7 神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。26:8 主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み/わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは/わたしたちの魂の願いです。
人生の道は山あり谷ありですが、神さまに導かれて歩むならば、わたしたちはこの道を歩きぬくことができます。神さまに導かれて歩きぬくことができるという意味では、この道は「平ら」「平安」なのです。
神さまがわたしたちの道を歩きやすくしてくださり、重荷を負いやすくしてくださる。これは神さまの恵みであり、神さまは恵みによってわたしたちに道を創ってくださいました。
わたしたちは神さまが整えてくださったこの道を歩みながら、神さまの平和、平安が満ちる日を待ち望みます。その日を待ち望みながら、この道を歩みます。
神さまが備えてくださった道を歩みながら、わたしたちは神さまのお名前を呼び、賛美いたしましょう。
2025年12月14日 主日
おはようございます。
イザヤ書26:1 その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。
26:4 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
わたしたちを守ってくださり、救ってくださる「堅固な都」「城壁」「堡塁」とは、神さまのこと、わたしたちの主のことです。
そして、イザヤは「主こそはとこしえの岩」、わたしたちが根本の信頼を寄せることのできるお方である、と言うのです。
神さまこそが、揺らぐことのない、わたしたちの人生の根本の土台です。
アドベント、わたしたちは、神さまという根本の土台にわたしたちを導いてくださる、神の御子イエス・キリストのお越しを待ち望んでいます。
2025年12月13日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書25:8 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
イザヤは、すべての人の涙がぬぐわれる日が来る、と預言しました。
その何百年か後に、イエスさまは、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)と宣言なさいました。
また、その何十年か後に、ヨハネによる黙示録は「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(21:3-4)と告げました。
アドベントです。すべての人の心に、神さまの御子イエス・キリストがお越しくださり、平和と平安、癒しと救い、正義と愛をもたらしてくださることを、待ち望みつつ、信頼しつつ、まことに、まことに、お祈りいたします。
2025年12月12日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書25:4 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨25:5 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。
神さまは弱い者、苦しむ者、貧しい者の砦になってくださいます。
わたしたちの人生が豪雨に見舞われるとき、神さまは避難所になってくださり、
猛暑に悩まされるとき、日陰となってくださいます。
神さまは防御壁となってくださり、わたしたちに襲い掛かる困難から守ってくださいます。
2025年12月11日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書12:6 シオンに住む者よ、叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方。
むかし、ユダの都、エルサレムに住む人びとは、そこに神さまがいらしてくださることをおおいに喜びました。
このアドベント、わたしたちは、神さまの御子イエス・キリストがお越しくださるのを待ち望んでいます。
わたしたちの心の中に、そして、わたしたちの間に、この御子をお迎えし、わたしたちもおおいに喜び歌いましょう。
2025年12月10日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書12:3 あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む。
「救いの泉」とは何でしょうか。
イエス・キリストはこう言われました。
ヨハネ4:14 わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
そうすると、「救いの泉」とは、イエス・キリストご自身のことだと考えられます。
イエスさまの御言葉、イエスさまの御業、イエスさまご自身が、わたしたちを神さまのところに連れて行ってくださるいのちの川、いのちの道なのです。
アドベントのこの季節、このイエスさまのお越しを心から待ち望みましょう。
2025年12月9日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書12:1 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
今は苦しくて、ばあいによっては、神さまが遠くに行ってしまったと思ってしまうようなこともあるかもしれませんが、神さまは、この苦しみからきっと助け出してくださいます。
そのときは、わたしたちは慰めに満たされ、神さまに感謝する言葉を述べずにはいられないことでしょう。
神さまがわたしたちを救ってくださいます。
わたしたちは神さまを信頼します。
それゆえに、わたしたちはどんなことも恐れません。
神さまは、わたしたちの力、わたしたちの歌、わたしたちの救いです。
神さまこそが、わたしたちの力、わたしたちの歌、わたしたちの救いです。
2025年12月8日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書11:11 その日が来れば、主は再び御手を下して/御自分の民の残りの者を買い戻される。
ユダやイスラエルの中には、諸国に離散している人びともいましたが、神さまはこの人びとを呼び戻されると言います。
11:12 主は諸国の民に向かって旗印を掲げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放されていた者を引き寄せ/ユダの散らされていた者を集められる。
神さまは、追放されたり散らされたりしている人びともお見捨てにはならないのです。
11:16 エジプトの地から上った日に/イスラエルのために備えられたように/アッシリアに残されていた/この民の残りの者にも、広い道が備えられる。
かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放されたように、アッシリアにとらわれている民も、神さまによって解放され、そのために、神さまは広い道を備えてくださるというのです。
同じように、今、苦しみや不安に捕らわれている人びとを、神さまは解放し、その人びとのために、広い道を用意してくださることでしょう。
2025年12月7日 主日
おはようございます。
イザヤ書11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
救い主は平和をもたらしてくださるという希望をわたしたちは抱いています。そのように信じています。
毒蛇や蝮が乳児や幼児に嚙みつかないどころか、ペットのようにともに遊ぶような平和、強い者が弱い者を攻撃せず虐げない平和、そのような平和が救い主とともに到来することを、わたしたちは待ち望んでいます。
神さまの愛がみなぎり、人びとの胸には、不安も敵意もなく、ただ、相手への尊重し、相手への喜びで満たされています。
イエス・キリストがそのような平和をわたしたちの心にもたらしてくださいますから、わたしたちはキリストの平和に心をお委ねいたしましょう。
2025年12月6日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
「エッサイの株から」つまりダビデ家から、イスラエルの民、そして、世界の民の救い主が現われる時の平和を、イザヤは、じつに美しいヴィジョン(幻)で描いています。
狼が小羊に襲い掛かることなく、豹は子山羊を虐げることはありません。
若い獅子も子牛に食らいつかず、むしろ、両者は共に生き、小さな子どもたちの手から干し草をもらいます。
今年のアドベント、イエス・キリストのお越しを待ち望みながら、わたしたちは、この世界にこのような平和が来ますように、ひとりひとりの心に、小羊が狼と安心して共に生きるような、平安が来ますようにと、切に祈りましょう。
2025年12月5日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
これは、紀元前8世紀に大国アッシリアの脅威にさらされたユダヤの民を救う王を預言し、同時に、世界を救うメシア、つまり、イエス・キリストの到来を預言している、と言われています。
この救い主は、表面的に見えることや人びとのうわさだけによって人を裁くことをしません。
弱い人の立場に立って正当な裁判をし、貧しく苦しんでいる人びとを救う裁きをします。
貧しい人びとを苦しめる権力者たちにはその悪をはっきりと指摘します。
当時の民衆を苦しめたファリサイ派、律法学者、長老たちへのイエス・キリストの「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ」(マタイ23:13)というお言葉が思い出されます。
このお方には正義と真実があります。
わたしたちがお迎えする救い主イエス・キリストには、愛と赦しとともに、正義と真実があるのです。
イエス・キリストの正義と真実とは、どのようなものなのか、このアドベントにあらためて考えたいと思います。
2025年12月4日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
紀元前8世紀末、ユダ王国はアッシリアの従属国となってしまいました。
ユダの民も、とうぜん、いっそう苦しい生活を余儀なくされることになったでしょう。
けれども、預言者イザヤは、「ダビデ家」を意味する「エッサイの株」から、ユダの民を救う新しい王が出てくることを預言します。
それは、のちに、全世界の民を救う御子イエス・キリストがダビデ家の末裔ヨセフを父として生まれてくることの預言でもありました。
その救い主の上には、「主の霊」、神さまの霊が注がれています。
その救い主は、「主を知り」つまり、神さまと深く結ばれていて、主を「畏れ敬う霊」に満たされています。
「主を知り、畏れ敬う霊」は、イエス・キリストを救い主と信じ、「父と子と聖霊」の聖名によって洗礼を受けたわたしたちの上にも、注がれます。
イエス・キリストを待ち望むアドベントの季節、わたしたちは、じつは、洗礼によって注がれた「主を知り、畏れ敬う霊」に満たされていることを再発見しようではありませんか。
2025年12月3日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書10:24 「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように/彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。」
10:26 万軍の主は、彼らに対して鞭を振るわれる/かつて、オレブの岩で/ミディアン人を打たれたように。またエジプトでなされたように/杖を海の上に伸ばされる。10:27 その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛は砕かれる。」
ユダの民は大国アッシリアが侵略してくるのではないかと恐れていますが、神さまはアッシリアを恐れるな、と言われます。神さまがアッシリア軍を倒してくださると。かつて、エジプトを脱出した時迫りくるエジプト軍を滅ぼしてくださったように。そして、ユダの民は解放されると。
わたしたちもいくつかの恐れを抱えていますが、神さまは「恐れるな」と言ってくださいます。
神さまがその難問を乗り越えさせてくださいます。
わたしたちは、この困難からきっと解放される日を迎えることが、きっとできることでしょう。
2025年12月2日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書10:20 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。10:21 残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。
神さまは、大国の軍事力に頼ろうとしたイスラエルの権力者たちを厳しく裁き、国は滅びますが、そのうちの何人かは逃れて生き延びます。そして、生き延びた場で、軍事力に頼ったことを反省し、神さまのみに頼る決意をします。
わたしたちの人生も同じではないでしょうか。神さま以外のもの、たとえば、自分の力、考え、お金、地位、人間関係などを根本の頼みにしようとしたものは、けっきょくは、それは根本の頼みにならないことを知らされるでしょう。
そして、神さまをこそ根本の頼みにするように、導かれることでしょう。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2)
異邦人である占星術の学者たちが言った「ユダヤ人の王」とは政治的な王のことではなく、わたしたちの根本の頼みになるお方(=王)がユダヤに生まれる、という意味ではないでしょうか。
イエス・キリストをお迎えするにあたって、もう一度、神さまだけ、イエス・キリストだけを根本の頼みにする思いをあらたにしようではありませんか。
2025年12月1日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
この「みどりご」「ひとりの男の子」「平和の君」(9:5)は誰のことでしょうか。
これは、いわば三重に考えられます。
まずは、このイザヤの預言がなされた紀元前8世紀のユダ王国は国難にありました。それを救う新しい王、ヒゼキヤ王のことが預言されていると考えられます。
しかし、ここには、ヒゼキヤ王に限らず、イスラエルの民を救う救い主がダビデ王の家系から生まれることも預言されていると考えられます。
さらには、世界のすべての人の救い主イエス・キリストの誕生も預言されています。
イエス・キリストには神さまの権威、永遠の神さまの力があり、平和の統治者と呼ばれます。
その国はもはや「ユダ王国」ではなく「神さまの王国」「神の国」と呼ばれます。
「神の国」は「正義と恵みの業」(9:6)によるのです。
このイエス・キリストがわたしたちの心にお越しくださることを待ち望みましょう。
2025年11月30日 主日
おはようございます。
イザヤ書9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
今日からアドベント、イエス・キリストがお越しくださるのを待ち望む季節の始まりです。
「大いなる光」は紀元前8世紀、国難に苦しむユダの人びとの救いのことであり、
どうじに、その700年以上後に到来する救い主イエス・キリストのことでもあります。
さらには、今、病、家族、仕事などで苦しみを抱えている人びとへの希望でもありましょう。
闇には光が差します。
暗い夜にも朝は訪れます。
救い主イエス・キリストがわたしたちのところにおこしくださいます。
2025年11月29日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書8:17 わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。
イエス・キリストの誕生、神のひとり子がわたしたちのところにお越しくださるのを待ち望むアドベントの期間が明日から始まります。
イエス・キリストは「平和の君」(イザヤ9:5)と呼ばれますから、わたしたちは、この世界から戦争や人と人との争いがなくなり、平和が来ることを待ち望みます。
悩みや苦しみを抱える一人一人の心に、キリストがお越しくださり、平安、救い、癒しが与えられることを待ち望みます。
「しかし、現実は厳しい」「神さまはまだ何もしてくださってないのではないか」と思われる場合もあるでしょう。
けれども、イザヤは、そのような中で、「わたしは主を待ち望む」「わたしは主に望みをかける」と言うのです。
神さまは助けてくださるのだろうか、と思いたくなるような「絶望」「闇」の中にこそ、神さまがお越しくださる、道を開いてくださるという「希望」「光」があるのです。
2025年11月28日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書8:12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを、何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。8:13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。
「主」とは、わたしたちの創造「主」であり、救い「主」である神さまのことです。
「主」は、わたしたちを導いてくださるお方であり、「根本の」支えであるお方です。
人間関係やお金、自分の力は「ある程度の」支えにしかなりません。
主はなぜわたしたちの「根本の」支えなのでしょうか。
主は、わたしたちとわたしたちの生きる世界を創造し、わたしたちを滅ぼさず、むしろ罪を赦し救うために十字架について命をささげてくださり、わたしたちに今導き働きかけるために聖霊としてお越しくださる方だからです。
御父としてわたしたちと世界を創造してくださり、御子としてわたしたちを闇から救い出してくださり、聖霊として今働きかけてくださる、三位一体の神さまこそ、わたしたちの主、わたしたちの「根本」の支えと信じ、その信仰を告白いたしましょう。
2025年11月27日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書8:9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。8:10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。
紀元前8世紀、ユダは近隣諸国からの脅威にさらされますが、預言者イザヤは、「神が我らと共におられる」(インマヌエル)と言って民を励まします。
わたしたちも、人生において、いくつかの困難を抱えたり、出口や助けが見出せなかったりすることがあります。
けれども、神さまがわたしたちと共におられます。
願っていることがそのまま実現するとは限りませんが、神さまがともにおられ、何とかしてくださいます。
今自分にできる最善を尽くしつつも、わたしたちとともにいてくださり、けっしてお見捨てにならない、この神さまをこそ、わたしたちの根本の支えであると、信頼し続けましょう。
2025年11月26日 水曜日
おはようございます。
ユダは近隣外国から攻め込まれる危機に瀕していましたが、ユダのアハズ王は神さまを信頼せず、他の外国の力を頼りにしました。ようするに、神さまではなく軍事力に頼ったのです。
そのアハズにイザヤの言葉が向けられます。
イザヤ書7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
これに対して、アハズ王は答えます。
7:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
アハズは、「神さまを試すようなことはしない」と言っていますが、それは口実で、内実は、やはり、神さまより軍事力を頼りにしたのです。
ここに、イザヤの預言がくだります。
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
14節はアドベントやクリスマスに読まれ、イエス・キリストの誕生の預言として有名ですが、これは、軍事力など、人間的なものに頼ろうとするアハズに向けて、「インマヌエル」つまり「神さまがともにおられる」から、神さまをこそ根本の頼りとしなさい、と言われた言葉なのです。
11月30日からアドベントに入ります。イエス・キリストの誕生をお迎えいたします。
わたしたちの根本の頼みは、自分の力、能力、経済力なのでしょうか。
いえ。
わたしたちの根本の頼みは、神さまです。
その神さまが、インマヌエル、つまり、わたしたちとともにいてくださる、それが、クリスマス、イエス・キリストの誕生です。
イエス・キリストがわたしたちとともにいらしてくださる、このインマヌエルの出来事をこそ、わたしたちの根本の頼みといたしましょう。
たとえ何が起こっても、神さまがあなたとあなたの家族とともにいらしてくださいます。
2025年11月25日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。
今から2600年前、ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、多くのユダヤ人がバビロンに連れていかれました。バビロン捕囚です。けれども、その半世紀後、ユダヤの民は祖国に帰ってくることができました。
わたしたちも、何もかも失ってしまった、もう何も残っていない、と絶望してしまうことがあります。
しかし、木が切り倒されても、切り株が残り、切り株の切断面ではなく、その脇から新しい枝が出て、育っていきます。
わたしたちも、たとえ切り倒されて何もかも失ったようであっても、神さまは切り株から新しい枝を芽吹かせ、やがて大きく育ててくださいます。
これは、絶望にまさる、神さまの希望です。
2025年11月24日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
預言者イザヤは神殿で神さまの圧倒的な御臨在に触れます。イザヤは、自分は汚れた者、自分の言葉も汚れている、そんな自分は神さまの前では滅ぼされるしかない、と罪を告白します。
けれども、神さまの使いがイザヤの唇を炭火で清め、イザヤの罪は赦されます。
わたしたちは、神さまの前で自分の罪を徹底的に知らされ、それを告白し、神さまは、わたしたちの罪を徹底的に赦してくださるのです。
そして、赦された者は、新しい仕事へと派遣されます。
イザヤの場合、それは、神さまの言葉を伝える預言者となることでした。
イザヤは言います。「神さま、わたしをあなたの御用に遣わしてください」。
わたしたちも、日々、神さまに罪を告白し、赦され、昨日とは違う新しい今日を生きようではありませんか。
2025年11月23日 主日
おはようございます。
イザヤ書4:4 主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。4:5 主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。4:6 昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。
神さまの前で、わたしたちの罪(神さまと人を愛するという戒めに忠実でない罪)はあきらかにされ、徹底的な悔い改めに導かれます。
神さまは、「裁きの霊」と「焼き尽くす霊」で、わたしたちの罪を焼き尽くしてくださいます。
こうやって新しくされたわたしたちを、神さまは、「昼の暑さを防ぐ陰」と雲、夜の闇を照らす火によって、守ってくださいます。
神さまこそが、人生と信仰の「嵐と雨を避ける隠れ場」となってくださいます。
わたしたちは、主日、神さまの前で裁かれ、悔い改め、新しくされ、
神さまは、一週間、わたしたちとともに歩んでくださいます。
これは信仰生活のリズムです。
2025年11月22日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書4:2 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。4:3 そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。
イザヤは、罪を犯したイスラエルとエルサレムが神さまによって滅ぼされると預言しますが、その廃墟には「生き残った者」がいて、「主の若枝」も伸び、「実を結ぶ」と言います。
また、「残りの者」「残された者」は「聖なる者」とよばれ、「命を得る者」として書き記される、と言います。
わたしたちの、心の中の悪、自分勝手な考え、人を傷つける心は、神さまの前で、すべて滅ぼされますが、それでも、神さまからいただいた「命の息」(創世記2:7)は残ります。
神さまは、わたしたちの悪と罪を焼き尽くしてくださいます。
けれども、「裁き」とは、そのことだけでなく、そこには、神さまからいただいた聖なるものが残り、枝を伸ばし、実を結ぶことを含むのです。
神さまは、夜の後に朝をもたらしてくださいます。信じましょう。
2025年11月21日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書2:19 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞穴、地の中の穴に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。2:20 その日には、だれもが/ひれ伏すために造った銀の偶像と金の偶像を/もぐらやこうもりに投げ与える。
わたしたちが本当に支えとすべきは、根本の頼みとすべきは、金でも銀でもお金でも財産でもなく、「威光の輝き」を持つ神さまです。(最低限度プラスアルファで生きていくお金は必要であることを、否定しているのではありません)
2:21 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。2:22 人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。
わたしたちが本当に支えとすべきは、自分や他の人の言葉でも考えでも行動でも立場でもなく、神さまの「威光の輝き」です。
金や銀や人間の能力を最大の拠り所としていれば神さまの「威光の輝き」は避けてしまおうとしますが、神さまをこそ根本の支えとするのであれば、「威光の輝き」はわたしたちの人生を照らしてくださいます。
2025年11月20日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書2:17 その日には、誇る者は卑しめられ/傲慢な者は低くされ/主はただひとり、高く上げられる。2:18 偶像はことごとく滅びる。
わたしたちがそれを最大の頼みにしてしまうのであれば、お金、財産、名誉、地位、能力、言葉、思考、腕力、軍事力なども偶像になってしまいます。
自分の思い、考えは大切ですが、それを絶対としてしまうのであれば、それも偶像となってしまいます。
けれども、まことの神は神さまのみであり、わたしたちは、今挙げた偶像ではなく、自分でもなく、神さまを根本の支えとするのがよいのです。
信仰とは、自分ではなく、神さまを根本的に信頼しようとすることです。
神さまの御子イエスさまを宿していると天使に告げられたマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と、神さまを信頼しようとしました。
そして、「 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」(1:51-53)という言葉で、神さまがわたしたちのなかの偶像崇拝を打ちこわしてくださることを言い表わしています。
2025年11月19日 水曜日
おはようございます。
イザヤ書2:10 岩の間に入り、塵の中に隠れよ/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。2:11 その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢な者は卑しめられ/主はただひとり、高く上げられる。2:12 万軍の主の日が臨む/すべて誇る者と傲慢な者に/すべて高ぶる者に――彼らは低くされる――
「誇る者」「傲慢な者」「高ぶる者」とはどういう者でしょうか。
直前の7~8節では、金銀、財宝、軍事力、手の業、指の造った物、すなわち、偶像にひれ伏す者のことが言われています。
つまり、偶像崇拝とは、神さまではなく、自分を誇ることなのです。
そのように自分を誇る者たちに向けて、イザヤは、神さまを畏れなさい、自分を誇るのではなく、自分の思いを崇めるのでもなく、自分を遥かに超えた神さまの前でひざまずきなさい、とすすめているのです。
わたしたちより遥かに高いお方である神さまの前で、わたしたちは何も語ることはできません。ただ黙してひざまずくだけです。
そして、その姿勢から、なんとか、ひとこと、ふたこと、恐る恐る語ることしかできないのです。
わたしたちは、自分を誇り合うのではなく、ただ、いと高き神さまの前で、ひれ伏しましょう。
2025年11月18日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書2:6 あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。2:7 この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。2:8 この国は偶像に満たされ/手の業、指の造った物にひれ伏す。2:9 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。
神さまではなく、金銀、財宝、軍事力を求めることは偶像崇拝であり、それゆえに人びとのいのちや生活が圧迫されていたイスラエル王国は、神さまに捨てられた、という非常にきびしい預言者の言葉が述べられています。
けれども、これは、21世紀の世界のいくつかの国々にもあてはまることではないでしょうか。
わたしたちも、最低限度プラスアルファのお金は必要ですが、ぜいたくな生活を追い求めたり、強い行動や態度や言葉で人を押さえつけたり傷つけたりしていないか、つねに自分を振り返りたいと思います。
神さまはこのようなわたしたちの罪を悲しまれます。
神さま、イエスさまの前に立つとき、このようなわたしたちの罪の姿を教えられますが、同時に、その神さまがわたしたちを、そこから救い、ともに歩んでくださいます。
2025年11月17日 月曜日
おはようございます。
今日からは旧約聖書のイザヤ書を読んでいきましょう。
2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
世界では戦争が続いています。わたしたちが生きている小さな群れの中にも、意見や背景や歩んできた道の違いがあり、それは、喜びや豊かさにもつながりますが、争いになることもあります。
けれども、神さまは、わたしたちに歩むべき道を教えてくださいます。
それは、人を刺す剣や槍を捨てて、畑の実りのための鋤と鎌を手にするということです。
わたしたちの、人に向ける言葉や態度も、相手をせめる剣や槍ではなく、わたしたちがともに生きる、神さまからいただいた大地を耕し、実りを収穫する鋤と鎌にいたしましょう。
神さまの「裁き」の本質は、「切り捨て」や「裁き捨て」ではなく、むしろ、神さまの「義」「救い」をここに打ち立ててくださることなのです。
2025年11月16日 主日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
「真実な方」とは神さまです。「真実な方」とは「本当の答えである方」ということだけでなく「徹底的に誠実なお方、誠のお方、真のお方」という意味も含んでいると思います。
神の子、神さまの御子、イエス・キリストは、わたしたちに、このまことなるお方である神さまを示してくださり、引き合わせてくださいました。
わたしたちは、この神さまの内にいる、このイエス・キリストの内にいるのです。この誠実なる神さま、イエス・キリストに包まれているのです。
この真実なる神さま、信実なるイエス・キリストこそが「永遠の命」であり、この永遠の命がわたしたちをつかまえてくださり、けっして離してくださらないのです。
2025年11月15日 土曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
神さま、いつもわたしとともにいらしてください。
神さま、こんなわたしを愛してください。
神さま、わたしにあなたの平安をお与えください。
神さまは、これらの祈りをすでにかなえていてくださいます。
あとは、わたしたちが耳を澄まし、心を澄まして、神さまがともにいらしてくださり、わたしたちを愛してくださり、平安を与えていてくださることに、気づくことです。
目を閉じて、心を静かにして、何も言わず、何も思わず、ただ、そこにある静けさにだけ、心を傾け、そこに身を委ねれば、そうやって、心を空にして、体の力を抜いて、ただじっとしていれば、神さまがともにおられ、神さまが愛してくださり、平安で満たしてくださることに気づくことでしょう。
2025年11月14日 金曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
このヨハネの手紙の文脈で言えば、神さまの御心に適うということは、「神さまから愛されているのだから、わたしたちもたがいに愛しあいなさい」という勧めに従っている、ということでしょう。
わたしたちが「神さま、あなたの愛に沿って、わたしもあなたと隣人を愛することができますように」と祈るのであれば、神さまは聞き入れてくださることでしょう。
わたしたちの願いが御心に適っているかどうかは、そこに私利私欲ではなく、神さまと隣人への愛があるかどうかにかかっているのではないでしょうか。
2025年11月13日 木曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
神さまの御子イエス・キリストを信頼する人は、つまり、「イエス・キリストはわたしを愛してくださる」と信頼する人は、その信頼と愛によって、永遠なる神さま、永遠なるイエス・キリストに永遠につながっています。
愛は、イエス・キリストから、また、神さまからわたしたちに注がれ、信頼は、神さまのこの愛への応答であり、感謝なのです。
神さまのこの愛と、わたしたちの信頼によって、わたしたちはイエス・キリストと、どんなときでもつながっていて、イエス・キリストがどんなときでも、いっしょにいてくださいますから、こわがらなくても大丈夫なのです。
「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」
主なる神さま、主なるイエス・キリストが、永遠に、どんなときでも、ともにいてくださいますから、何も恐れることはありません。恐れることさえ恐れなくてもよいのです。
2025年11月12日 水曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
「永遠の命」とは、わたしたちが「御子の内に、また御父の内にいつもいる」(2:24)ことです。つまり、永遠なる御子イエス・キリストと父なる神さまの中にいる、包みこまれていることです。
わたしたちは、自分の生命だけで生きているような気がしていますが、じつは、永遠なる神さまとつながっているのです。わたしたちの中に永遠なる神さまがいらしてくださり、永遠なる神さまの中にわたしたちは生かされているのです。
自分一人だけで生きているように思うと、不安が募ったり、はんたいに、傲慢になったりしますが、永遠なる神さま、御子イエス・キリストの命とつながっていることを思うと、信仰生活によって、日々その思いを新しくしていこうとすると、不安は平安に、傲慢は謙虚に、不満は喜びに変えられて行くことでしょう。
2025年11月11日 火曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
わたしたちは、自分で探し求めて神さまに出会ったのではなく、神さまがわたしたちを探し求めてくださったのです。神さまの方から会いに来てくださったのです。
わたしたちは、自分で御子イエス・キリストを信じるようになったというよりは、じつは、神さまがイエス・キリストはわたしたちの救い主だと教えてくださったのです。
神さまは、父、御子、聖霊の三位一体の神さまですから、「神が御子についてなさった証し」とは、神さまがご自身をわたしたちに証ししてくださったということなのです。
たとえわたしたちが神さまを見つけることができなかったり、見失ったりしてしまっても、神さまの方がわたしたちを見つけ出して、ご自身をわたしたちに示してくださいます。
なんという喜びでしょうか。
神さまは、日々の生活の中でご自身をわたしたちに示してくださいます。
2025年11月10日 月曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。
この方とは、わたしたちに「世に打ち勝つ」(5:5)力を与えてくださるお方のことでしょう。
わたしたちはこの世の争いや憎しみや支配の力に負けてしまいそうになりますが、イエス・キリストはわたしたちを愛し、愛で包んでくださり、愛に生かされる世界観を与えてくださり、わたしたちはこのキリストの愛でこの世の力に打ち勝つことができるのです。
わたしたちは、しばしばこの世の力に負かされてしまったような苦しみを味わいますが、ほんとうは、わたしたちは負けていないのです。わたしたちには、この世の力にまさる、キリストの愛が注がれているからです。なんという喜びでしょうか!
「水と血を通って来られた」とは、イエスさまは、洗礼を受けられ、十字架で血を流されたということです。
それは、神さまのわたしたちの愛のゆえです。神さまはわたしたちを愛するゆえに、御子イエスさまをこの世で苦しむわたしたちのところに送ってくださり、イエスさまは、わたしたち人間と同じように洗礼を受けられ、十字架の上でわたしたち人間以上に苦しんでくださったのです。
2025年11月9日 主日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
世の中は、争い、憎しみ、妬み、無関心、自分中心ばかりで、わたしたちも、知らずと、これに染まってしまっているのではないでしょうか。
そして、わたしたちはこのようなことで、人に苦しめられていますが、どうじに、人を苦しめていないでしょうか。
神さま、そして、イエスさまは、争い、憎しみ、妬み、自分中心とは、まったく違う世界に、わたしたちを招いてくださいます。
それは、愛です。神さまに愛されていることを知り、自分以外の人を愛そうとすることによって、わたしたちは、世に勝つのです。いや、神さまとイエスさまの愛が、世に打ち克ってくださるのです。
争い、支配、自分中心とはまったく違う、神さまの愛、イエスさまの愛を信じましょう。信頼しましょう。
舞台は、争い、支配、自分中心から、愛へと変わります。
2025年11月8日 土曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
「イエスさまはわたしの救い主です」と信じることで、わたしたちは「神の子」(「神から生まれた者」)とされます。
それは、わたしたちは「神の子」として神さまから愛される、ということです。
そして、わたしたちも、自分を「子」としてくださる神さまを愛します。
どうじに、自分以外の「神の子」つまり「イエスさまを救い主と信じる人びと」を愛します。
ようするに、わたしたちは、イエスさまを信じることで、神さまから愛され、わたしたちも神さまを愛し、わたしたち以外のイエスさまを信じる人びとを愛するのです。
ヨハネはそのように教えています。
イエスさまは、どんな人をも愛されました。
神さまも、すべての人を愛されました。
わたしたちも、出会う人びとを大切にする生き方をしたい、と祈りましょう。
2025年11月7日 金曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
自分以外の人びとを愛することは「神から受けた掟」である、とあります。
「掟」とは強い言葉ですが、この掟が与えられる前に、「神がまずわたしたちを愛してくださった」(4:19)とヨハネは言います。
ですから、わたしたちが他の人びとを愛することは、神さまの掟ではあっても、これは、同時に、わたしたちの感謝なのです。
神さまがわたしをこんなにも愛してくださる、無条件に愛してくださる、こんなにうれしいことはない、わたしも自分だけでなく、自分以外の人を愛することができるように、いつも心がけよう、いつも祈ろう、という感謝なのです。
そして、わたしたちが自分以外の人を愛することは同時に神さまを愛することでもあり、また、神さまを愛することは自分以外の人を愛することとセットになっている、とヨハネは言うのです。
2025年11月6日 木曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
神さまがわたしたちを愛してくださり、わたしたちもたがいに愛しあう。このことによって、神さまの愛がわたしたちの内に満ちているので、神さまに裁き捨てられるのではないかと恐れる必要はない、とヨハネは言います。
イエスさまが神さまに愛されているように、わたしたちも神さまに愛されているからです。
神さまの愛を信じれば、神さまから永遠の罰を受けるのではないかと恐れることなく、平安に生きていくことができるのです。
2025年11月5日 水曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
「わたしたちが、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証しする」(4:14)とは、どういうことでしょうか。
これは、「イエスが神の子であることを公に言い表す」(4:15)ことです。
さらに、それは、「わたしたちに対する神の愛を知り、また信じる」(4:16)ことです。
つまり、「信じる」とは、イエス・キリストを「神さまから遣わされたわたしの救い主である」と信じ、また、イエスさまは「神さまから愛されている神の子」と信じ、また、イエスさまをわたしたちに遣わしてくださることは神さまの愛の業であると信じることなのです。
そして、このことを信じる人は、神さまの愛の内、愛の中にあり、また、その人の内、その人の中には、神さまの愛が、つまり、神さまご自身がおられるのです。
2025年11月4日 火曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
神さまは目に見えないお方、わたしたち人間の五感や思考や言語、そして、神さまがお創りになった物質(被造物)とはまったく異なるお方です。
神さまは「霊」なのです。
神さまはその霊をわたしたちに分け与えてくださいました。
「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。
神さまが人=わたしたちに吹き込んでくださり、わたしたちを「生きる者」にしてくださる「命の息」も、神さまの霊だと考えられます。
また、洗礼のときにも、神さまはわたしたちに霊を注いでくださいます。
神さまが霊であられ、わたしたちの中にその霊が分け与えられることは、神さまが愛であられ、わたしたちも神さまからいただいた愛によって神さまと人を愛することができることと重なります。
わたしたちは神さまの愛に包まれ、同時に、わたしたちの心の中で神さまの愛が働いてくださいます。
同じように、わたしたちは神さまの霊に包まれ、同時に、わたしたちの心の中に神さまの霊がいらしてくださいます。
このことをヨハネは、「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださる」と言っています。
こうして、神さまはわたしたちといつもともにいらしてくださいますが、わたしたちの中に分け与えられた神さまの霊は、わたしたちを外から包みこんでくださる霊なる神さまをキャッチするアンテナにもなってくださいます。
神さまがわたしたちの中に霊を分け与えてくださったから、わたしたちは神さまを感じたり、知ったりすることができるのです。
2025年11月3日 月曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
神さまは目には見えません。「神はいる」ことの「目に見える証拠」はないのです。
しかし、わたしたちの間に、わたしと誰かと誰かの間に、たがいに相手を大切にしあい、大事にしあい、尊重しあう心が働くのなら、そのような関係があり、つながりがあるなら、つまり、そこに愛があるのなら、神さまはそこにおられます。
なぜなら、わたしたちが互いに愛し合う時、その愛はわたしたちからではなく、神さまから出ているからです。
神さまはわたしたちを愛してくださいます。天から地上に注がれる愛、縦の愛です。
神さまのこの愛は、わたしたちと誰かを結び合わせてくださいます。横につながる愛です。
十字架と同じように、横の愛は縦の愛に支えられています。
横の愛、わたしたちどうしの愛によって、縦の愛、神さまの愛が明らかになります。
2025年11月2日 主日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
わたしたちが神さまを愛したから、神さまがわたしたちを愛してくださるのではありません。
そうではなく、まず神さまがわたしたちを愛してくださるのです。わたしたちが何かをする前に、神さまはわたしたちを愛してくださるのです。
神さまや人をじゅうぶんには愛していないというわたしたちの罪を償うためのいけにえを神さまはお求めになりません。
御子イエス・キリストがわたしたちのもとに遣わされたからです。
罪を償うためにわたしたちが大切なものをいけにえとしてささげることを神さまはわたしたちにお求めにならず、むしろ、神さまはご自分の大切なものをわたしたちにお与えくださったのです。
ここに神さまの愛があります。
わたしたちは、みな、神さまのこの愛に愛されているのです。
2025年11月1日 土曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
神さまはその独り子イエス・キリストを「世」にお遣わしになりました。「世」は、「神さまの御心」「愛」とは正反対の「反キリスト」「偽預言者」がはびこるところです。
しかし、その「世」に、「愛」である神さまはその独り子をお遣わしくださいました。独り子は神さまの「愛」そのものです。
「愛」ではなく「支配」や「憎しみ」が満ちた世界では、わたしたちは神さまから離れてしまいます。神さまから離れてしまうことこそが「死」なのです。
けれども、「世」に神さまの「愛」がお越しくださり、わたしたちは「愛」によって神さまと隣人につながり、「生きる」ことができるのです。
2025年10月31日 金曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
「愛」とは、自分以外の人びと、自分と異なる人びとを、抑えつけず、斥けず、むしろ、尊重し、大切にすることです。
この愛は、神さまから出るものです。わたしたちは自分の力で誰かを愛するのではなく、神さまからいただいた愛によって、他の人を愛することができるのです。
愛は神さまのお働きです。ですから、わたしたちは誰かを愛したり、たがいに愛しあったりするとき、神さまの愛のお働きという「磁場」の中にいて、そこで、神さまを「知る」、つまり、神さまと深くつながるのです。
愛は神さまのお働きですが、ヨハネは、「神さまは愛」そのもの、と言っています。
わたしたちから出る想いや考えがわたしたち自身であるように、「愛は神さまから出る」と言っても、「神さまは愛そのもの」と言っても、同じことなのです。
わたしたちがたがいに愛しあうとき、神さまという愛の働きのなかに招かれていて、神さまという愛がわたしたちとともにいらしてくださるのです。
2025年10月30日 木曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:5 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
自分中心。人を見下す。抑えつける。争う。相手に勝とうとする。自分が正しいと言い張る・・・これらは、わたしたちに巣くう「この世」と偽預言者の価値観です。
「この世」は神さまを知らず、偽預言者は「神」の名を口にはしますが、そこには神さまと人への愛はなく、神さまと人を自分の道具にしようとします。
しかし、わたしたちは、今、「この世」ではなく、神さまに属する者です。わたしたちはイエスさまの誕生と、この世のご生涯、十字架の愛によって、「神の子」とされ、「神の国」の住民とされました。
「神の子」であり「神の国の民」であるわたしたちは、イエスさまがわたしたちを愛してくださったように、自分だけを愛し、相手を押さえつけるのではなく、たがいに愛しあいましょう。
愛とは、相手を押さえつけず、むしろ、相手を大切にすることなのです。
それは、神さまを知っている生き方なのです。
神さまとイエスさまはわたしたちを知っていてくださるのですから、わたしたちも神さまとイエスさま、そして、他の人を知る生き方を祈り求めましょう。
2025年10月29日 水曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
「反キリスト」や「偽預言者」とは、イエス・キリストが「肉となって来られた」(4:2)まことの人として人びとを愛されたことを否定し、それゆえ、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもたがいに愛し合いなさい」という戒めを大事にしない人びとのことでしょう。
しかし、イエスさまの愛のゆえに互いに愛し合う人びとは、このイエスさまの愛に属しており、それゆえに、神さまに属しており、このような「反キリスト」や「偽預言者」の言葉に打ち負かされることはない、とヨハネは言います。
わたしたちが互いに愛し合う時、わたしたちの内にいらしてくださるイエス・キリストが、このような「反キリスト」「偽預言者」「世にいる者」に打ち克ってくださるからです。
わたしたちは「世」「支配」ではなく「神の国」「天」「愛」の価値観に生かされているのです。
2025年10月28日 火曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
イエス・キリストは、わたしたちと同じ人として、わたしたちの世界に生まれ、生きてくださいました。
その地上の生涯においては、苦しんでいる人びと、虐げられている人びと、斥けられている人びと、病気の人びとの痛みにご自身の心をも傷められ、愛されました。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもたがいに愛し合いなさい」と言われたのは、このイエス・キリストです。
偽預言者は、イエス・キリストには「神の霊」が宿っていたのだから「人」ではなかった、と言いますが、それは、イエス・キリストの地上の生涯での愛を否定することになります。
けれども、イエス・キリストに「神の霊」が宿っていたことを、真の意味で知っている人は、イエス・キリストがまことの「人」、愛の人であったことをも知っているのです。
2025年10月27日 月曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という神さまの掟を守る人は、神さまの内にいつもとどまり、神さまもその人の内にとどまってくださる、とヨハネは言います。
わたしたちが神さまの内にいて、神さまがわたしたちの内にいる、ということは、物理的にはありえませんが、信仰的、霊的にはそのように言うことができるのです。
神さま御自身が霊であられますが、その神さまの霊が天からわたしたちに注がれ、わたしたちを外から包みこみ、また、わたしたちの内にお越しくださいます。
わたしたちの内におられる神さまの霊がアンテナとなって、わたしたちに神さまを感じさせてくださいます。
わたしたちが神さまを感じ、神さまを信頼、信仰できるのは、神さまの霊がわたしたちの内でアンテナとなってくださるからなのです。
2025年10月26日 主日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
「神に願うことは何でもかなえられます」とは、どういう意味でしょうか。
これは、たとえば「まわりの人が自分の言うとおりになりますように」というような願いもかなえられるという意味ではないでしょう。
ここには「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行なっている」とあり、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」とあります。
つまり、「御心に適うこと」とは、わたしたちが「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」なのです。
そして、「神に願うことは何でもかなえられます」とは、「御心にかなうことを神に願いなさい」ということではないでしょうか。
つまり、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」ができますように、と神さまに願いなさい、それは御心にかなっています、ということではないでしょうか。
神さま、あなたの御心に添って祈ります。わたしたちが神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに与えてくださった愛の掟のように、互いに愛しあうことができますように。
2025年10月25日 土曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
「自分が真理に属している」とはどういう意味でしょうか。
これはわたしたちが正しい知識を持っているというよりも、神さまの愛の働きの中にいる、神さまから出てくる「誠実」(3:18)の中にいる、というようなニュアンスではないでしょうか。
「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(3:17)とヨハネは言いますが、わたしたちが他の人を慈しむのも、神さまが内側におられるからなのです。
「神さまがわたしたちの内におられる」ということと「わたしたちが神さまの愛の内にいる」ということは、同じことです。
「神は、わたしたちの心よりも大きい」ということは、わたしたちの心は神さまの大きな愛と慈しみの内にあり、これこそが、わたしたちが「真理に属する」ということではないでしょうか。
2025年10月24日 金曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
わたしたちのまわりにも、病気や仕事や生活や家族や信仰の言葉などで、苦しみを抱えている人びとがいます。
世界には、戦争や災害で生命を奪われたり生活を破壊されたりする人びと、人種、民族、国籍、宗教、性別、職業、学歴、心身の状態などによって差別を受けている人びとがいます。
わたしたちに何ができるか、よくわかりませんが、そのような人びとの痛みに、わたしたちは無関心ではなく、心を痛めます。
今、自然界も危機的な状況にあると伝えられています。
けれども、神さまの愛はとても大きいことも、わたしたちは知っています。
神さまの愛が、世界中の人びとの痛み、地球の生命の痛みを包み込んでくださることを、もう一度思い起こして、祈りを深め、考え方をあらため、神さまと人と世界を愛する生き方に変えられるように祈り求めます。
2025年10月23日 木曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネのこの言葉は、イエスさまのつぎの御言葉を響かせています。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:21-22)。
つまり、人を憎むことは人を殺すことに等しく、その結果、わたしたちは永遠の命から離れ、神さまに裁かれる、すなわち、神さまにつながっていない者、その意味で死んだ者となってしまう、というのです。
言い換えれば、イエスさまから受けた愛に基づいて人を愛そうとするとき、わたしたちは、イエスさまと神さまの命、永遠なるお方の命に、しっかりとつながっているのです。
イエスさまはこの永遠の命をわたしたちに与えてくださるために、ご自分の命に固執せず、十字架についてくださいました。それがイエスさまの愛です。
わたしたちは、イエスさまのこの愛、永遠の命をにぎりしめましょう。
イエスさまは、もう、わたしたちの手首を握っていてくださいます。
2025年10月22日 水曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
ここでヨハネは、人を愛することは「命」であり、人を愛さないことは「死」であると言います。
神さま、イエスさまがわたしたちを愛してくださるように、わたしたちも誰かを愛する。このことによって、わたしたちは神さまとイエスさまにつながっています。そして、神さまとイエスさまにつながっていることこそが、「命」なのです。
反対に、わたしたちが誰かを愛さないのであれば、神さまやイエスさまとつながっておらず、それは「死」なのです。
わたしたちは、「自分は正しい」と主張することで、人を自分の思うようにさせようとしてしまうならば、それは、人や人の想いを愛しているのではないでしょう。人を愛さなければ、神さまやイエスさまとのつながりがなくなってしまうでしょう。そこには「死」が待っています。
しかし、神さま、イエスさまは、わたしたちを愛し、愛に招き、「命」に招いてくださいます。
わたしたちは、愛と命を選びましょう。
2025年10月21日 火曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
「正しい生活」とありますが、具体的には、「自分の兄弟を愛する」ことでしょう。すなわち、自分以外の人びとを愛する生活を、ヨハネは「正しい生活」と呼び、そういう生活をする者を「神の子」と呼んでいるのではないでしょうか。
愛はほんらい神さまに属するものですから、その愛を相続した生き方をしている人は「神の子」と呼ばれるのでしょう。
神さまとイエスさまがわたしたちを愛してくださったように、また、ここからいただいた愛によって、わたしたちが互いに愛し合うことこそ、イエス・キリストによる「新しい掟」であり、そのように生きることをヨハネは「正しい生活」と呼び、そのように生きようとする者を「神の子」と呼んでいるのではないでしょうか。
ヨハネにとって、「正しい」こととは「愛する」ことなのです。
言い換えれば、自分が「正しい」者であることよりも、自分以外の人を「愛する」ことの方が大事なのです。
2025年10月20日 月曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
「この望み」とは、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」(3:2)ことでしょう。
そして、「御子に似た者となる」とは、
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
という御子の御言葉と照らし合わせれば、御子のように自分以外の者を愛せるようになることではないでしょうか。
さらに、「御子が清いように、自分を清める」ということも、
「御子がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも自分以外の人を愛せるようになる」ということではないでしょうか。
これは、ハードルが高いようにも思えますが、わたしたちが自分で自分を清めるだけでなく、御子がわたしたちを清くしてくださるという希望を持ちたいと思います。
2025年10月19日 主日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3:3御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
わたしたちは、「今既に神の子です」とあります。わたしたちは、神さまに愛されている、神さまの子どもなのです。
けれども、これから、御子イエス・キリストがふたたびお越しくださるとき、わたしたちはどうなるのでしょうか。
そのとき、わたしたちは「御子に似た者」としていただく、とヨハネは言います。
わたしたちも御子のように神さまの愛があふれるものとしていただけるのでしょうか。
わたしたちは、神さまとイエスさまに愛されているのですから、すこしでもその愛に近づいて、隣人をいまよりももっと愛することのできる者へと成長させていただく希望と祈りを持ち続けましょう。
2025年10月18日 土曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
御父なる神さまは、御子イエス・キリストをお与えになるほどにわたしたちを愛してくださいました。
ヨハネによる福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
それゆえに、わたしたちは「神の子」「神さまの子ども」なのです。
わたしたちは、自分以外のその人も、神さまから愛されている神さまの子どもであることを、いつも深く思い、その人を尊重し、大切にできるように祈りましょう。
2025年10月17日 金曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
「御子の内にいつもとどまる」とは、イエス・キリストの愛をいつも忘れず、それによって、隣人を愛することも忘れない、ということです。「自分の思いの内に」ではなく、「イエス・キリストの愛の内に」そして「隣人との愛の内に」です。
(けれども、「自分が苦しんだり、苦しめられたりしていて、そこから救われたい」という祈りは、大切にしなくてはなりません。問題なのは、それとは別の、自分中心の思いです)
神さまの愛、キリストの愛、隣人との愛の内にいつもあれば、キリストがふたたびお越しになられたとき、あわてる必要はありません。
「正義」もまた、自分の「正義」ではなく、神さまとキリストの愛、隣人との愛に根差していてこそ、「正義」なのです。
2025年10月16日 木曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。''''
「御子から注がれた油」とありますが、これは聖霊のことでしょう。
イエスさまは、弟子たちには、直接、
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)
と教えられました。
また、イエスさまが天に昇られたあとは、聖霊の働きによって、人びとはこのことを知りました。
わたしたちもそうです。
わたしたちをこの教えから逸らそうとする者がいても、わたしたちは、聖霊の導きに従って、御父、御子、隣人との愛の内にとどまりましょう。
2025年10月15日 水曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
「これこそ」「永遠の命です」とありますが、「永遠の命」とは何なのでしょうか。
これは、直前の24節にある「あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいる」ということでしょう。
つまり、「わたしたちが御子イエス・キリストの内に、また御父なる神さまの内にいつもいる」ことが、「永遠の命」なのです。
永遠なる御子イエス・キリストと御父なる神さまのうちにいることが「永遠の命」なのです。
では、わたしたちはどうしたら「永遠の命」をいただくことができるのでしょうか。
これも、直前の24節に「 初めから聞いていたことを、心にとどめる」ことによるのではないでしょうか。
そして、「初めから聞いていたこと」とは、
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)
ということであり、
つまり、御父なる神さまが御子イエス・キリストを通してわたしたちを愛してくださるように、わたしたちもたがいに愛しあうとき、わたしたちは神さまの愛の働きの中にあり、すなわち、御父と御子の中にあり、「永遠の命」の中にあるというのです。
言い換えれば、わたしたちが神さまの愛を受け、たがいに愛しあうとき、わたしたちは御父と御子の「永遠の命」に生かされているのであり、それは、死を超えて続いていくのです。
2025年10月14日 火曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
「初めから聞いていたこと」とは
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)
のようなイエスさまの御言葉ではないでしょうか。
この御言葉を語るイエスさまは「神の御子」であると告白する者は、イエスさまと父なる神に結ばれている、とヨハネは言います。
また、これらの御言葉を心に置く者は、イエスさまの内に、また、父なる神の内にいる、とヨハネは言います。
2025年10月13日 月曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。2:22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
「真理を知っている」とは、「イエスがメシアである」ことを知り、「御父と御子を認める」ことでしょう。
そして、「御父と御子を認める」とは、御子を遣わすほどに御父がわたしたちを愛してくださることを知り、それに基づいて、わたしたちがたがいに愛しあうことでありましょう。
「聖なる方から油を注がれている」ということは、イエス・キリスト自らがこの真理をわたしたちに教えてくださり、わたしたちを世の価値観から聖別してくださっておられる、ということではないでしょうか。
主がわたしたちに愛を注ぎ、主がわたしたちを愛してくださっておられるという真理を注いでくださるのです。
2025年10月12日 主日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
「反キリスト」とは強い言葉ですが、これはどういう人びとのことでしょうか。
キリストに反対する人びと、キリストとは反対の生き方をする人びと、キリストとは反対のことを教える人びとのことでしょうか。
ヨハネによる福音書13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
この戒めとは正反対で、わたしたちを愛さず、むしろ、抑えつけたり、支配しようとしたりし、わたしたちを互いに愛し合うようにではなく、むしろ、争い合い、憎しみ合うように促す人びとのことでしょうか。
残念ながら、わたしたちも、いつも人を愛することができているのではなく、むしろ、憎んだり、抑えつけたりするときが、まったくないとは言えないように思えます。
けれども、反キリストではなく、まことのキリストは、わたしたちを愛し、わたしたちをも愛の生き方に導いてくださいます。
反キリストではなく、このキリストに従って、歩みましょう。
反キリストのようにではなく、少しでもキリストの愛にならって、生きていきましょう。
2025年10月11日 土曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
人びとからの賞賛、社会的地位、適度な財産、心身の心地良さ・・・
これらのものは、わたしたちを支えてくれますが、「根本」の支え、つまり、神さま以上の支えとして、慕い求めてはなりません。執着してはなりません。
わたしたちの「根本」の支えは神さまであり、「土台」はイエスさまです。
愛、慈しみ、平和、希望は、この神さま、イエスさまから出てきますが、称賛や地位や財産や快楽は一時的なものです。
自分の執着ではなく、神さまとイエスさまの愛に由来する愛は、朽ちることはありません。
憎しみ、残酷、争い、絶望は、この世的なもの、人間的なものに過度に執着するところから出てきます。
神さま、イエスさまから出てくるものは、永遠です。
2025年10月10日 金曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:12 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである。2:13 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を、知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
ヨハネは、どこかの信仰共同体(つまり教会)に向けてこの手紙を書いているようです。そして、そこには、子たち、父たち、若者たちと呼ばれているように、いろいろな世代の人びとがいたことでしょう。「父たち」とありますが、男性以外の人びともいたことでしょう。
その人びとにヨハネは、大事なことを思い出させています。
つまり、世界の創造主である父なる神を知っていること、その御子イエス・キリストによって罪を赦されていること、また、御父と御子から発せられる聖霊の愛の働きによって悪にすでに打ち勝っていることを。
わたしたちは、悪に打ち勝とうとして悪を憎む必要はないのです。
三位一体の神さまはすでに悪に打ち勝ってくださり、わたしたちを愛へと招いておられるのです。
神さまを知り、罪を赦され、悪に負かされているようでじつは負かされていないわたしたちは、愛に生きることがよいのです。
2025年10月9日 木曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。
どうするべきか迷うとき、わたしたちは、愛を選ぶべきなのではないでしょうか。
たとえば、自分を傷つける相手に対して、わたしたちは相手にそれを伝える場合と、そうでない場合がありますが、いずれにせよ、相手を愛することが大事なのではないでしょうか。
相手の非を伝えるときも、言葉や姿勢は穏やかであり、心中も、相手を憎むのではなく、相手を大事にする思いを持ちましょう。
相手の非は伝えず、相手の言動を受容する場合も、自分が打ち負かされたり、相手のいいなりになったりするのではなく、相手と自分の間に、支配ではなく、愛の関係ができることを祈り求めましょう。
その先には、(一方的な所有欲、支配欲ではなく)人と人との愛が見えるかどうかが大事です。
その先に愛が見えるか、それとも憎しみか、自分の感情か。
神さまの御心であるかどうかの判断は、ここにあるのではないでしょうか。
憎しみは道を閉ざす闇であり、愛は道を照らす光です。
2025年10月8日 水曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
この掟とは
ヨハネによる福音書13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
のことです。
ヨハネの手紙の読者は、すでにこの掟をイエスから聞いているのですが、ヨハネは読者にこの愛の掟の前に新たな思いで立つように呼び掛けているのです。
おなじように、わたしたちも、この掟をすでに何度も聞いているのですが、今日、いま、まったく新しい掟として、この前に立ち、わたしたち自身が新たになることが求められているでしょう。
同時に、今日、いま、イエスさまのこの新しい掟は、わたしたちをまったく新しくしてくださることでしょう。
2025年10月7日 火曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:6 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
「神の内にいる」とはどういうことでしょうか。 この直前の2:5にはこうあります。
2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
つまり、「神の内にいる」とは、「神の言葉を守る」ことであり、「その人の内には神の愛が実現している」ことなのです。
そして、これは、「イエスが歩まれたように自らも歩む」ことなのです。
すなわち、イエスさまが神さまと隣人を愛して歩まれたようにわたしたちも歩むならば、それは、神さまの言葉、神さまの掟を守ることであり、自分の内に神さまの愛が実現することであり、どうじに、神さまの内にいることなのです。
2025年10月6日 月曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
聖書においては「知る」という言葉は、「深い交わりを持つ」という意味を持っている場合があります。
「神の掟を守る」ことは「神を知る」こと、「神を知る」なら「神の掟を守る」はずだ、とヨハネは言っています。
ヨハネは、さらに、「神を知る」を「その人のうちに神の愛が働く」「わたしたちが神の内にいる」と言い換えています。
つまり、「神の掟を守る」ことは「神を知る」ことであり、さらに「わたしたちの中に神の愛が働く」「わたしたちが神の愛の中にいる」と言い換えているのです。
この「神の掟」とは「神がわたしたちを愛してくださったのだから、わたしたちもたがいに愛しあう」ということでした。
つまり、「神さまの愛に基づいて、わたしたちがたがいに愛しあえば」、わたしたちは神さまの愛の中にいて、どうじに、わたしたちの中に神さまの愛が働く、ということなのです。
2025年10月5日 日曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)。
この戒めを守らないということは、二重の意味で罪を犯すことになります。
ひとつは、隣人へと関心が向いていないこと、もうひとつは、愛してくださる神さまにも気づいていないこと、つまり、二重の意味で、自分のことしか考えていないのです。
この二重の罪は犯さない方がよいのです。
しかし、わたしたちは、神さまも隣人も十分に愛することはできず、自分のことばかり愛してしまいがちです。
けれども、この罪を巡って、イエス・キリストがわたしたちの弁護者になってくださる、とヨハネは言うのです。
このイエス・キリストは、わたしたちの罪、世界の罪を償ってくださる、というのです。
ここに、わたしたちが、神さまの愛に気づき、それに基づいて、たがいに愛しあう道が、あらためて開かれます。
2025年10月4日 土曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
罪とは、自分のことしか頭になく、神さまにも隣人にも心が向かないことですが、この手紙では、それは、「闇」とも言われ、また、「神さまがわたしたちを愛してくださるにもかかわらず、わたしたちが互いに愛しあわないこと」でもありましょう。
わたしたちは神さまや隣人を完全に愛しているとは言えないでしょう。
完全ではないが十分に愛しているので神さまから救われるにふさわしい、と言うこともできないでしょう。
罪を告白しない限り、罪は赦されません。
わたしたちは、日々、自分中心であることを反省し、同時に、その自分がイエス・キリストに赦され、生かされている恵み、神さまの愛をかみしめて、隣人を大事にする言動をこころがけましょう。
2025年10月3日 金曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
ここでは、神さまは光であるから、あるいは、神さまは光の中におられるから、わたしたちも光の中を歩みましょう、ということが言われています。
ヨハネのこの言葉は、イエスさまの次の言葉とまったく同じ意味です。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)。
ヨハネもイエスさまのこの教えをこの手紙で繰り返しています。
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(ヨハネの手紙一4:11)。
これがこの手紙の中心メッセージです。
2025年10月2日 木曜日
おはようございます。
ヨハネの手紙一1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
「わたしたち」つまりヨハネたちは、天に昇られる前のイエス・キリストを直接知っているのでしょう。
「わたしたち」は、このイエス・キリストと出会った喜びを、地上で生きられた時のイエス・キリストを知らない人びとに伝えるためにこの手紙を書いている、と言うのです。
しかし、それは、地上のイエス・キリストの言動を具体的に記すのではなく、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の喜びを伝えたい、と言います。
つまり、御父と御子イエス・キリスト、そして、ヨハネたちと手紙の読者を貫く愛の交わりを伝えたい、と言います。
この愛の交わりを通して、イエス・キリストの愛、神さまの愛が伝わる、と言うのです。
2025年10月1日 水曜日
おはようございます。
今日から「ヨハネの手紙一」です。
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
「初めからあったもの」とはイエス・キリストのことです。
「命の言」「命」「永遠の命」もイエス・キリストのことです。
キリストは天の父なる神さまのところにおられましたが、地のわたしたち人間のところに現れてくださいました。
しかも、聞く、見る、触れるという、わたしたち人間の感覚で捉えられるイエスという人として現われてくださいました。
それゆえに、ある人びとは、「命の言」「命」「永遠の命」であるイエス・キリストと、聞く、見る、触れる、という交わりをすることが許されました。
そして、その人びとは、その経験がない人びとにも、キリストを証しし、伝えるのです。
現在のわたしたちの多くは、直接聞く、見る、触れるということはありませんが、それができた人びとの証しと、それを含む聖書の御言葉、聖霊の働き、賛美と祈りによって、イエス・キリストと出会い、ともに歩んでいただいているのです。
2025年9月30日 火曜日
おはようございます。
ペトロの手紙二3:17 愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。3:18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。
ペトロはこの手紙で、信仰、徳、神さまを知る知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛(1:5-7)を持って生きることを勧めています。
しかし、わたしたちは、不信仰、不徳、神さまを無視すること、自分勝手、拙速、不信、憎しみ、争いの誘惑につねにさらされています。
けれども、わたしたちはこれに負けない「堅固な足場」があります。
それは、「救い主イエス・キリストの恵みと知識」です。
つまり、救い主イエス・キリストの恵みがある、ということをしっかりと知り、つねに思い起こせば、信仰、徳、神さまを知る知識、自制、忍耐、信心、愛、兄弟愛に生きることができるのです。
苦しい状況にあっても、キリストの恵みをつねに思い起こして、キリストに従って歩み続けましょう。
2025年9月29日 月曜日
おはようございます。
ペトロの手紙二3:14 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。3:15 また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。
「このこと」とは「義の宿る新しい天と新しい地」(3:13)のことです。
神さまの救いが満ちる新しい世界を待ち望みつつ、キリストの御心に従って、「信仰、徳、キリストを知る知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛」(15:5-7)を持って生きることが大切です。
わたしたちは日々神さまの前で打ち砕かれていますが、「天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去る」(3:12)ことはまだ起こっていません(人間による自然破壊は深刻ですが)。
これは、神さまはわたしたちの悔い改めを忍耐強く待っていてくださるのであり、主の忍耐強さはわたしたちの「救い」だ、とペトロは言います。
そうであるならば、わたしたちは今「救い」の中にあることを深く知り、深く感謝し、感謝にふさわしい生活、神さまに信頼し、自制し、忍耐し、神さまと人を愛する生き方ができるようにと祈ります。
2025年9月28日 主日
おはようございます。
ペトロの手紙二3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
神の日、この世界に神さまの救いが完成する日を、わたしたちは待ち望んでいます。
この手紙でペトロが読者に求める信仰、徳、神さまを知ること、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛(1:5-7)をわたしたちが心がけることによって、その日が来るのは早まるのかもしれません。
いずれにせよ、神さまの前で、古い世界は終わり、わたしたちは裁かれ、古いわたしたちは終わります。
しかし、そこに、神さまの義がみなぎる「新しい天と新しい地」が現われることをわたしたちは待ち望んでいます。
神さまがそのように約束してくださったのです。
今は苦しいけれども、この世界には苦しみがあるけれども、神さまの前でわたしたちはまったく新しくされて、まったく新しい世界に生かされる日が来ることを待ち望みましょう。
そして、この日の喜びは、世界の救いの完成の日だけでなく、わたしたちの信仰生活においても、なんどでも、なんどでも、新しくされ、新しく生きることが許されている、という希望をももたらしてくれるのです。
2025年9月27日 土曜日
おはようございます。
ペトロの手紙二3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。3:11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
主の日、イエス・キリストがふたたび地上にお越しになられわたしたちを裁いてくださる日は、いつ訪れるか、わかりません。
ですから、わたしたちは、いつでも、今この時も、ああ、イエスさまがここにおられる、わたしたちを見ておられる、という姿勢でいるのがよいのです。
イエスさまがここにおられるのなら、わたしたちは、人にひどい言葉をぶつけることができるでしょうか。
イエスさまの目の前で、わたしたちは、人を殺したり、ものを盗んだり、人を憎んだり、争ったりすることができるでしょうか。
罰を受けないために、ということ以上に、イエスさまの愛と平和と慈しみの眼差しの前で、わたしたちは人を傷つけたり神さまを信頼しなかったりすることは、できないのではないでしょうか。
そこにイエスさまがおられれば、わたしたちも、愛と平和と慈しみの心に満たされていくのではないでしょうか。
2025年9月26日 金曜日
おはようございます。
ペトロの手紙二3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
「主の約束」とは「主が来るという約束」(3:4)であり「神の日が来る」(3:12)という約束です。
それは、神さまの前で、わたしたちの心の奥底まですべて暴かれ(3:10)、裁かれ、滅ぼされる時ですが、同時に、「義の宿る新しい天と新しい地」が現われる時でもあります。
礼拝、祈り、御言葉を読むときにおいても、わたしたちの自分の思いは打ち砕かれ、神さまの御心によって新しい者に創り変えられます。
わたしたちの不信心、絶望、怒りは、神さまの御言葉によって滅ぼされ、信仰、希望、愛を宿す者へと、わたしたちは新しく創り変えられるのです。
神さま、わたしたちの内なる闇と争いを滅ぼしてください。
そして、あなたの光と平和で満たしてください。
いや、あなたがすでに満たしてくださった光と平和に目覚めさせてください。
2025年9月25日 木曜日
おはようございます。
ペトロの手紙二3:1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。3:2 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。
「預言者たちがかつて語った言葉」そして「使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟」とは何でしょうか。
イエス・キリストは、聖書の教えを「あなたの神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」にまとめました。上の「言葉」と「掟」も、このふたつに集約されるのではないでしょうか。
ペトロの手紙の受取人たちの中には、このふたつを忘れた生活にふけってしまった者がいたようです。
わたしたちはどうでしょうか。生活は一見乱れていないように思えても、心は自分だけを愛し、じつは、神も人も愛していない、ということはないでしょうか。
神さまの無償の愛、おのれを無にする愛を想い、憧れながら、隣人を大切にできるように祈り求めます。
2025年9月24日 水曜日
おはようございます。
ペトロの手紙二2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。
「義の道」「聖なる掟」とは何でしょうか。
1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
この手紙の文脈では、「義の道」「聖なる掟」とは、「信仰」「徳」「知識」「自制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」のことでしょう。
これらは、どういうことでしょうか。神さまへの信頼、神さまへの愛、神さまを知ろうとすること、自分を抑えること、忍耐、人への信頼、人への愛のことでしょうか。
イエス・キリストからこれらを教えていただいておりながら、そこから離れてしまうなら、知らない方がよかった、とペトロは言います。
言い換えれば、これらをつねにあらたに思い起こしなさい、ということではないでしょうか。
2025年9月23日 火曜日
おはようございます。
ペトロの手紙二2:19 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。
偽教師は「キリストはわたしたちを罪から解き放ちてくださる」と言いながら、自分自身は罪の奴隷にとどまっています。
わたしたちも、キリストの救いを知りながら、罪の奴隷にとどまるなら、以前よりも悪いと言わざるを得ません。
神さまの愛を知りながら、かえって憎しみの奴隷になってしまうなら、神さまの平和を知りながら、かえって争いを好むのなら、キリストのへりくだりを知りながら、むしろ傲慢になるのなら、キリストを知りながら、むしろ自分自分と言い続けるのなら・・・
キリストは神さまの愛を教えてくださいましたから、わたしたちは愛に生きることを、つねに祈り求めましょう。
キリストは神さまの平和を教えてくださいましたから、わたしたちは争いではなく平和に生きることを、つねに祈り求めましょう。
キリストはご自身のへりくだりを教えてくださいましたから、わたしたちは傲慢にならないように、隣人を大事にし、自分はへりくだるように、つねに祈り求めましょう。
2025年9月22日 月曜日
おはようございます。
''ペトロの手紙二2:17 この者たちは、干上がった
