私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

牧師室より6

牧師室より6

2025年11月12日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。

「永遠の命」とは、わたしたちが「御子の内に、また御父の内にいつもいる」(2:24)ことです。つまり、永遠なる御子イエス・キリストと父なる神さまの中にいる、包みこまれていることです。

わたしたちは、自分の生命だけで生きているような気がしていますが、じつは、永遠なる神さまとつながっているのです。わたしたちの中に永遠なる神さまがいらしてくださり、永遠なる神さまの中にわたしたちは生かされているのです。

自分一人だけで生きているように思うと、不安が募ったり、はんたいに、傲慢になったりしますが、永遠なる神さま、御子イエス・キリストの命とつながっていることを思うと、信仰生活によって、日々その思いを新しくしていこうとすると、不安は平安に、傲慢は謙虚に、不満は喜びに変えられて行くことでしょう。

2025年11月11日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。

わたしたちは、自分で探し求めて神さまに出会ったのではなく、神さまがわたしたちを探し求めてくださったのです。神さまの方から会いに来てくださったのです。

わたしたちは、自分で御子イエス・キリストを信じるようになったというよりは、じつは、神さまがイエス・キリストはわたしたちの救い主だと教えてくださったのです。

神さまは、父、御子、聖霊の三位一体の神さまですから、「神が御子についてなさった証し」とは、神さまがご自身をわたしたちに証ししてくださったということなのです。

たとえわたしたちが神さまを見つけることができなかったり、見失ったりしてしまっても、神さまの方がわたしたちを見つけ出して、ご自身をわたしたちに示してくださいます。

なんという喜びでしょうか。

神さまは、日々の生活の中でご自身をわたしたちに示してくださいます。

2025年11月10日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。

この方とは、わたしたちに「世に打ち勝つ」(5:5)力を与えてくださるお方のことでしょう。

わたしたちはこの世の争いや憎しみや支配の力に負けてしまいそうになりますが、イエス・キリストはわたしたちを愛し、愛で包んでくださり、愛に生かされる世界観を与えてくださり、わたしたちはこのキリストの愛でこの世の力に打ち勝つことができるのです。

わたしたちは、しばしばこの世の力に負かされてしまったような苦しみを味わいますが、ほんとうは、わたしたちは負けていないのです。わたしたちには、この世の力にまさる、キリストの愛が注がれているからです。なんという喜びでしょうか!

「水と血を通って来られた」とは、イエスさまは、洗礼を受けられ、十字架で血を流されたということです。

それは、神さまのわたしたちの愛のゆえです。神さまはわたしたちを愛するゆえに、御子イエスさまをこの世で苦しむわたしたちのところに送ってくださり、イエスさまは、わたしたち人間と同じように洗礼を受けられ、十字架の上でわたしたち人間以上に苦しんでくださったのです。

2025年11月9日 主日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

世の中は、争い、憎しみ、妬み、無関心、自分中心ばかりで、わたしたちも、知らずと、これに染まってしまっているのではないでしょうか。

そして、わたしたちはこのようなことで、人に苦しめられていますが、どうじに、人を苦しめていないでしょうか。

神さま、そして、イエスさまは、争い、憎しみ、妬み、自分中心とは、まったく違う世界に、わたしたちを招いてくださいます。

それは、愛です。神さまに愛されていることを知り、自分以外の人を愛そうとすることによって、わたしたちは、世に勝つのです。いや、神さまとイエスさまの愛が、世に打ち克ってくださるのです。

争い、支配、自分中心とはまったく違う、神さまの愛、イエスさまの愛を信じましょう。信頼しましょう。

舞台は、争い、支配、自分中心から、愛へと変わります。

2025年11月8日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。

「イエスさまはわたしの救い主です」と信じることで、わたしたちは「神の子」(「神から生まれた者」)とされます。

それは、わたしたちは「神の子」として神さまから愛される、ということです。

そして、わたしたちも、自分を「子」としてくださる神さまを愛します。

どうじに、自分以外の「神の子」つまり「イエスさまを救い主と信じる人びと」を愛します。

ようするに、わたしたちは、イエスさまを信じることで、神さまから愛され、わたしたちも神さまを愛し、わたしたち以外のイエスさまを信じる人びとを愛するのです。

ヨハネはそのように教えています。

イエスさまは、どんな人をも愛されました。

神さまも、すべての人を愛されました。

わたしたちも、出会う人びとを大切にする生き方をしたい、と祈りましょう。

2025年11月7日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

自分以外の人びとを愛することは「神から受けた掟」である、とあります。

「掟」とは強い言葉ですが、この掟が与えられる前に、「神がまずわたしたちを愛してくださった」(4:19)とヨハネは言います。

ですから、わたしたちが他の人びとを愛することは、神さまの掟ではあっても、これは、同時に、わたしたちの感謝なのです。

神さまがわたしをこんなにも愛してくださる、無条件に愛してくださる、こんなにうれしいことはない、わたしも自分だけでなく、自分以外の人を愛することができるように、いつも心がけよう、いつも祈ろう、という感謝なのです。

そして、わたしたちが自分以外の人を愛することは同時に神さまを愛することでもあり、また、神さまを愛することは自分以外の人を愛することとセットになっている、とヨハネは言うのです。

2025年11月6日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

神さまがわたしたちを愛してくださり、わたしたちもたがいに愛しあう。このことによって、神さまの愛がわたしたちの内に満ちているので、神さまに裁き捨てられるのではないかと恐れる必要はない、とヨハネは言います。

イエスさまが神さまに愛されているように、わたしたちも神さまに愛されているからです。

神さまの愛を信じれば、神さまから永遠の罰を受けるのではないかと恐れることなく、平安に生きていくことができるのです。

2025年11月5日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

「わたしたちが、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証しする」(4:14)とは、どういうことでしょうか。

これは、「イエスが神の子であることを公に言い表す」(4:15)ことです。

さらに、それは、「わたしたちに対する神の愛を知り、また信じる」(4:16)ことです。

つまり、「信じる」とは、イエス・キリストを「神さまから遣わされたわたしの救い主である」と信じ、また、イエスさまは「神さまから愛されている神の子」と信じ、また、イエスさまをわたしたちに遣わしてくださることは神さまの愛の業であると信じることなのです。

そして、このことを信じる人は、神さまの愛の内、愛の中にあり、また、その人の内、その人の中には、神さまの愛が、つまり、神さまご自身がおられるのです。

2025年11月4日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

神さまは目に見えないお方、わたしたち人間の五感や思考や言語、そして、神さまがお創りになった物質(被造物)とはまったく異なるお方です。

神さまは「霊」なのです。

神さまはその霊をわたしたちに分け与えてくださいました。

「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。

神さまが人=わたしたちに吹き込んでくださり、わたしたちを「生きる者」にしてくださる「命の息」も、神さまの霊だと考えられます。

また、洗礼のときにも、神さまはわたしたちに霊を注いでくださいます。

神さまが霊であられ、わたしたちの中にその霊が分け与えられることは、神さまが愛であられ、わたしたちも神さまからいただいた愛によって神さまと人を愛することができることと重なります。

わたしたちは神さまの愛に包まれ、同時に、わたしたちの心の中で神さまの愛が働いてくださいます。

同じように、わたしたちは神さまの霊に包まれ、同時に、わたしたちの心の中に神さまの霊がいらしてくださいます。

このことをヨハネは、「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださる」と言っています。

こうして、神さまはわたしたちといつもともにいらしてくださいますが、わたしたちの中に分け与えられた神さまの霊は、わたしたちを外から包みこんでくださる霊なる神さまをキャッチするアンテナにもなってくださいます。

神さまがわたしたちの中に霊を分け与えてくださったから、わたしたちは神さまを感じたり、知ったりすることができるのです。

2025年11月3日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

神さまは目には見えません。「神はいる」ことの「目に見える証拠」はないのです。

しかし、わたしたちの間に、わたしと誰かと誰かの間に、たがいに相手を大切にしあい、大事にしあい、尊重しあう心が働くのなら、そのような関係があり、つながりがあるなら、つまり、そこに愛があるのなら、神さまはそこにおられます。

なぜなら、わたしたちが互いに愛し合う時、その愛はわたしたちからではなく、神さまから出ているからです。

神さまはわたしたちを愛してくださいます。天から地上に注がれる愛、縦の愛です。

神さまのこの愛は、わたしたちと誰かを結び合わせてくださいます。横につながる愛です。

十字架と同じように、横の愛は縦の愛に支えられています。

横の愛、わたしたちどうしの愛によって、縦の愛、神さまの愛が明らかになります。


2025年11月2日 主日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

わたしたちが神さまを愛したから、神さまがわたしたちを愛してくださるのではありません。

そうではなく、まず神さまがわたしたちを愛してくださるのです。わたしたちが何かをする前に、神さまはわたしたちを愛してくださるのです。

神さまや人をじゅうぶんには愛していないというわたしたちの罪を償うためのいけにえを神さまはお求めになりません。

御子イエス・キリストがわたしたちのもとに遣わされたからです。

罪を償うためにわたしたちが大切なものをいけにえとしてささげることを神さまはわたしたちにお求めにならず、むしろ、神さまはご自分の大切なものをわたしたちにお与えくださったのです。

ここに神さまの愛があります。

わたしたちは、みな、神さまのこの愛に愛されているのです。

2025年11月1日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

神さまはその独り子イエス・キリストを「世」にお遣わしになりました。「世」は、「神さまの御心」「愛」とは正反対の「反キリスト」「偽預言者」がはびこるところです。

しかし、その「世」に、「愛」である神さまはその独り子をお遣わしくださいました。独り子は神さまの「愛」そのものです。

「愛」ではなく「支配」や「憎しみ」が満ちた世界では、わたしたちは神さまから離れてしまいます。神さまから離れてしまうことこそが「死」なのです。

けれども、「世」に神さまの「愛」がお越しくださり、わたしたちは「愛」によって神さまと隣人につながり、「生きる」ことができるのです。

2025年10月31日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

「愛」とは、自分以外の人びと、自分と異なる人びとを、抑えつけず、斥けず、むしろ、尊重し、大切にすることです。

この愛は、神さまから出るものです。わたしたちは自分の力で誰かを愛するのではなく、神さまからいただいた愛によって、他の人を愛することができるのです。

愛は神さまのお働きです。ですから、わたしたちは誰かを愛したり、たがいに愛しあったりするとき、神さまの愛のお働きという「磁場」の中にいて、そこで、神さまを「知る」、つまり、神さまと深くつながるのです。

愛は神さまのお働きですが、ヨハネは、「神さまは愛」そのもの、と言っています。

わたしたちから出る想いや考えがわたしたち自身であるように、「愛は神さまから出る」と言っても、「神さまは愛そのもの」と言っても、同じことなのです。

わたしたちがたがいに愛しあうとき、神さまという愛の働きのなかに招かれていて、神さまという愛がわたしたちとともにいらしてくださるのです。

2025年10月30日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:5 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

自分中心。人を見下す。抑えつける。争う。相手に勝とうとする。自分が正しいと言い張る・・・これらは、わたしたちに巣くう「この世」と偽預言者の価値観です。

「この世」は神さまを知らず、偽預言者は「神」の名を口にはしますが、そこには神さまと人への愛はなく、神さまと人を自分の道具にしようとします。

しかし、わたしたちは、今、「この世」ではなく、神さまに属する者です。わたしたちはイエスさまの誕生と、この世のご生涯、十字架の愛によって、「神の子」とされ、「神の国」の住民とされました。

「神の子」であり「神の国の民」であるわたしたちは、イエスさまがわたしたちを愛してくださったように、自分だけを愛し、相手を押さえつけるのではなく、たがいに愛しあいましょう。

愛とは、相手を押さえつけず、むしろ、相手を大切にすることなのです。

それは、神さまを知っている生き方なのです。

神さまとイエスさまはわたしたちを知っていてくださるのですから、わたしたちも神さまとイエスさま、そして、他の人を知る生き方を祈り求めましょう。

2025年10月29日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。

「反キリスト」や「偽預言者」とは、イエス・キリストが「肉となって来られた」(4:2)まことの人として人びとを愛されたことを否定し、それゆえ、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもたがいに愛し合いなさい」という戒めを大事にしない人びとのことでしょう。

しかし、イエスさまの愛のゆえに互いに愛し合う人びとは、このイエスさまの愛に属しており、それゆえに、神さまに属しており、このような「反キリスト」や「偽預言者」の言葉に打ち負かされることはない、とヨハネは言います。

わたしたちが互いに愛し合う時、わたしたちの内にいらしてくださるイエス・キリストが、このような「反キリスト」「偽預言者」「世にいる者」に打ち克ってくださるからです。

わたしたちは「世」「支配」ではなく「神の国」「天」「愛」の価値観に生かされているのです。

2025年10月28日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。

イエス・キリストは、わたしたちと同じ人として、わたしたちの世界に生まれ、生きてくださいました。

その地上の生涯においては、苦しんでいる人びと、虐げられている人びと、斥けられている人びと、病気の人びとの痛みにご自身の心をも傷められ、愛されました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもたがいに愛し合いなさい」と言われたのは、このイエス・キリストです。

偽預言者は、イエス・キリストには「神の霊」が宿っていたのだから「人」ではなかった、と言いますが、それは、イエス・キリストの地上の生涯での愛を否定することになります。

けれども、イエス・キリストに「神の霊」が宿っていたことを、真の意味で知っている人は、イエス・キリストがまことの「人」、愛の人であったことをも知っているのです。

2025年10月27日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という神さまの掟を守る人は、神さまの内にいつもとどまり、神さまもその人の内にとどまってくださる、とヨハネは言います。

わたしたちが神さまの内にいて、神さまがわたしたちの内にいる、ということは、物理的にはありえませんが、信仰的、霊的にはそのように言うことができるのです。

神さま御自身が霊であられますが、その神さまの霊が天からわたしたちに注がれ、わたしたちを外から包みこみ、また、わたしたちの内にお越しくださいます。

わたしたちの内におられる神さまの霊がアンテナとなって、わたしたちに神さまを感じさせてくださいます。

わたしたちが神さまを感じ、神さまを信頼、信仰できるのは、神さまの霊がわたしたちの内でアンテナとなってくださるからなのです。

2025年10月26日 主日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。

「神に願うことは何でもかなえられます」とは、どういう意味でしょうか。

これは、たとえば「まわりの人が自分の言うとおりになりますように」というような願いもかなえられるという意味ではないでしょう。

ここには「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行なっている」とあり、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」とあります。

つまり、「御心に適うこと」とは、わたしたちが「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」なのです。

そして、「神に願うことは何でもかなえられます」とは、「御心にかなうことを神に願いなさい」ということではないでしょうか。

つまり、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」ができますように、と神さまに願いなさい、それは御心にかなっています、ということではないでしょうか。

神さま、あなたの御心に添って祈ります。わたしたちが神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに与えてくださった愛の掟のように、互いに愛しあうことができますように。

2025年10月25日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。

「自分が真理に属している」とはどういう意味でしょうか。

これはわたしたちが正しい知識を持っているというよりも、神さまの愛の働きの中にいる、神さまから出てくる「誠実」(3:18)の中にいる、というようなニュアンスではないでしょうか。

「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(3:17)とヨハネは言いますが、わたしたちが他の人を慈しむのも、神さまが内側におられるからなのです。

「神さまがわたしたちの内におられる」ということと「わたしたちが神さまの愛の内にいる」ということは、同じことです。

「神は、わたしたちの心よりも大きい」ということは、わたしたちの心は神さまの大きな愛と慈しみの内にあり、これこそが、わたしたちが「真理に属する」ということではないでしょうか。

2025年10月24日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

わたしたちのまわりにも、病気や仕事や生活や家族や信仰の言葉などで、苦しみを抱えている人びとがいます。

世界には、戦争や災害で生命を奪われたり生活を破壊されたりする人びと、人種、民族、国籍、宗教、性別、職業、学歴、心身の状態などによって差別を受けている人びとがいます。

わたしたちに何ができるか、よくわかりませんが、そのような人びとの痛みに、わたしたちは無関心ではなく、心を痛めます。

今、自然界も危機的な状況にあると伝えられています。

けれども、神さまの愛はとても大きいことも、わたしたちは知っています。

神さまの愛が、世界中の人びとの痛み、地球の生命の痛みを包み込んでくださることを、もう一度思い起こして、祈りを深め、考え方をあらため、神さまと人と世界を愛する生き方に変えられるように祈り求めます。

2025年10月23日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

ヨハネのこの言葉は、イエスさまのつぎの御言葉を響かせています。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:21-22)。

つまり、人を憎むことは人を殺すことに等しく、その結果、わたしたちは永遠の命から離れ、神さまに裁かれる、すなわち、神さまにつながっていない者、その意味で死んだ者となってしまう、というのです。

言い換えれば、イエスさまから受けた愛に基づいて人を愛そうとするとき、わたしたちは、イエスさまと神さまの命、永遠なるお方の命に、しっかりとつながっているのです。

イエスさまはこの永遠の命をわたしたちに与えてくださるために、ご自分の命に固執せず、十字架についてくださいました。それがイエスさまの愛です。

わたしたちは、イエスさまのこの愛、永遠の命をにぎりしめましょう。

イエスさまは、もう、わたしたちの手首を握っていてくださいます。

2025年10月22日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。

ここでヨハネは、人を愛することは「命」であり、人を愛さないことは「死」であると言います。

神さま、イエスさまがわたしたちを愛してくださるように、わたしたちも誰かを愛する。このことによって、わたしたちは神さまとイエスさまにつながっています。そして、神さまとイエスさまにつながっていることこそが、「命」なのです。

反対に、わたしたちが誰かを愛さないのであれば、神さまやイエスさまとつながっておらず、それは「死」なのです。

わたしたちは、「自分は正しい」と主張することで、人を自分の思うようにさせようとしてしまうならば、それは、人や人の想いを愛しているのではないでしょう。人を愛さなければ、神さまやイエスさまとのつながりがなくなってしまうでしょう。そこには「死」が待っています。

しかし、神さま、イエスさまは、わたしたちを愛し、愛に招き、「命」に招いてくださいます。

わたしたちは、愛と命を選びましょう。

2025年10月21日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。

「正しい生活」とありますが、具体的には、「自分の兄弟を愛する」ことでしょう。すなわち、自分以外の人びとを愛する生活を、ヨハネは「正しい生活」と呼び、そういう生活をする者を「神の子」と呼んでいるのではないでしょうか。

愛はほんらい神さまに属するものですから、その愛を相続した生き方をしている人は「神の子」と呼ばれるのでしょう。

神さまとイエスさまがわたしたちを愛してくださったように、また、ここからいただいた愛によって、わたしたちが互いに愛し合うことこそ、イエス・キリストによる「新しい掟」であり、そのように生きることをヨハネは「正しい生活」と呼び、そのように生きようとする者を「神の子」と呼んでいるのではないでしょうか。

ヨハネにとって、「正しい」こととは「愛する」ことなのです。

言い換えれば、自分が「正しい」者であることよりも、自分以外の人を「愛する」ことの方が大事なのです。

2025年10月20日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

「この望み」とは、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」(3:2)ことでしょう。

そして、「御子に似た者となる」とは、

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

という御子の御言葉と照らし合わせれば、御子のように自分以外の者を愛せるようになることではないでしょうか。

さらに、「御子が清いように、自分を清める」ということも、

「御子がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも自分以外の人を愛せるようになる」ということではないでしょうか。

これは、ハードルが高いようにも思えますが、わたしたちが自分で自分を清めるだけでなく、御子がわたしたちを清くしてくださるという希望を持ちたいと思います。


2025年10月19日 主日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3:3御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

わたしたちは、「今既に神の子です」とあります。わたしたちは、神さまに愛されている、神さまの子どもなのです。

けれども、これから、御子イエス・キリストがふたたびお越しくださるとき、わたしたちはどうなるのでしょうか。

そのとき、わたしたちは「御子に似た者」としていただく、とヨハネは言います。

わたしたちも御子のように神さまの愛があふれるものとしていただけるのでしょうか。

わたしたちは、神さまとイエスさまに愛されているのですから、すこしでもその愛に近づいて、隣人をいまよりももっと愛することのできる者へと成長させていただく希望と祈りを持ち続けましょう。

2025年10月18日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。

御父なる神さまは、御子イエス・キリストをお与えになるほどにわたしたちを愛してくださいました。

ヨハネによる福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

それゆえに、わたしたちは「神の子」「神さまの子ども」なのです。

わたしたちは、自分以外のその人も、神さまから愛されている神さまの子どもであることを、いつも深く思い、その人を尊重し、大切にできるように祈りましょう。

2025年10月17日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。

「御子の内にいつもとどまる」とは、イエス・キリストの愛をいつも忘れず、それによって、隣人を愛することも忘れない、ということです。「自分の思いの内に」ではなく、「イエス・キリストの愛の内に」そして「隣人との愛の内に」です。

(けれども、「自分が苦しんだり、苦しめられたりしていて、そこから救われたい」という祈りは、大切にしなくてはなりません。問題なのは、それとは別の、自分中心の思いです)

神さまの愛、キリストの愛、隣人との愛の内にいつもあれば、キリストがふたたびお越しになられたとき、あわてる必要はありません。

「正義」もまた、自分の「正義」ではなく、神さまとキリストの愛、隣人との愛に根差していてこそ、「正義」なのです。

2025年10月16日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。''''

「御子から注がれた油」とありますが、これは聖霊のことでしょう。

イエスさまは、弟子たちには、直接、

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)

と教えられました。

また、イエスさまが天に昇られたあとは、聖霊の働きによって、人びとはこのことを知りました。

わたしたちもそうです。

わたしたちをこの教えから逸らそうとする者がいても、わたしたちは、聖霊の導きに従って、御父、御子、隣人との愛の内にとどまりましょう。

2025年10月15日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。

「これこそ」「永遠の命です」とありますが、「永遠の命」とは何なのでしょうか。

これは、直前の24節にある「あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいる」ということでしょう。

つまり、「わたしたちが御子イエス・キリストの内に、また御父なる神さまの内にいつもいる」ことが、「永遠の命」なのです。

永遠なる御子イエス・キリストと御父なる神さまのうちにいることが「永遠の命」なのです。

では、わたしたちはどうしたら「永遠の命」をいただくことができるのでしょうか。

これも、直前の24節に「 初めから聞いていたことを、心にとどめる」ことによるのではないでしょうか。

そして、「初めから聞いていたこと」とは、

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)

ということであり、

つまり、御父なる神さまが御子イエス・キリストを通してわたしたちを愛してくださるように、わたしたちもたがいに愛しあうとき、わたしたちは神さまの愛の働きの中にあり、すなわち、御父と御子の中にあり、「永遠の命」の中にあるというのです。

言い換えれば、わたしたちが神さまの愛を受け、たがいに愛しあうとき、わたしたちは御父と御子の「永遠の命」に生かされているのであり、それは、死を超えて続いていくのです。

2025年10月14日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。

「初めから聞いていたこと」とは

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14:23)

のようなイエスさまの御言葉ではないでしょうか。

この御言葉を語るイエスさまは「神の御子」であると告白する者は、イエスさまと父なる神に結ばれている、とヨハネは言います。

また、これらの御言葉を心に置く者は、イエスさまの内に、また、父なる神の内にいる、とヨハネは言います。

2025年10月13日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。2:22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。

「真理を知っている」とは、「イエスがメシアである」ことを知り、「御父と御子を認める」ことでしょう。

そして、「御父と御子を認める」とは、御子を遣わすほどに御父がわたしたちを愛してくださることを知り、それに基づいて、わたしたちがたがいに愛しあうことでありましょう。

「聖なる方から油を注がれている」ということは、イエス・キリスト自らがこの真理をわたしたちに教えてくださり、わたしたちを世の価値観から聖別してくださっておられる、ということではないでしょうか。

主がわたしたちに愛を注ぎ、主がわたしたちを愛してくださっておられるという真理を注いでくださるのです。

2025年10月12日 主日


おはようございます。

ヨハネの手紙一2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。

「反キリスト」とは強い言葉ですが、これはどういう人びとのことでしょうか。

キリストに反対する人びと、キリストとは反対の生き方をする人びと、キリストとは反対のことを教える人びとのことでしょうか。

ヨハネによる福音書13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

この戒めとは正反対で、わたしたちを愛さず、むしろ、抑えつけたり、支配しようとしたりし、わたしたちを互いに愛し合うようにではなく、むしろ、争い合い、憎しみ合うように促す人びとのことでしょうか。

残念ながら、わたしたちも、いつも人を愛することができているのではなく、むしろ、憎んだり、抑えつけたりするときが、まったくないとは言えないように思えます。

けれども、反キリストではなく、まことのキリストは、わたしたちを愛し、わたしたちをも愛の生き方に導いてくださいます。

反キリストではなく、このキリストに従って、歩みましょう。

反キリストのようにではなく、少しでもキリストの愛にならって、生きていきましょう。

2025年10月11日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

人びとからの賞賛、社会的地位、適度な財産、心身の心地良さ・・・

これらのものは、わたしたちを支えてくれますが、「根本」の支え、つまり、神さま以上の支えとして、慕い求めてはなりません。執着してはなりません。

わたしたちの「根本」の支えは神さまであり、「土台」はイエスさまです。

愛、慈しみ、平和、希望は、この神さま、イエスさまから出てきますが、称賛や地位や財産や快楽は一時的なものです。

自分の執着ではなく、神さまとイエスさまの愛に由来する愛は、朽ちることはありません。

憎しみ、残酷、争い、絶望は、この世的なもの、人間的なものに過度に執着するところから出てきます。

神さま、イエスさまから出てくるものは、永遠です。

2025年10月10日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:12 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである。2:13 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を、知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。

ヨハネは、どこかの信仰共同体(つまり教会)に向けてこの手紙を書いているようです。そして、そこには、子たち、父たち、若者たちと呼ばれているように、いろいろな世代の人びとがいたことでしょう。「父たち」とありますが、男性以外の人びともいたことでしょう。

その人びとにヨハネは、大事なことを思い出させています。

つまり、世界の創造主である父なる神を知っていること、その御子イエス・キリストによって罪を赦されていること、また、御父と御子から発せられる聖霊の愛の働きによって悪にすでに打ち勝っていることを。

わたしたちは、悪に打ち勝とうとして悪を憎む必要はないのです。

三位一体の神さまはすでに悪に打ち勝ってくださり、わたしたちを愛へと招いておられるのです。

神さまを知り、罪を赦され、悪に負かされているようでじつは負かされていないわたしたちは、愛に生きることがよいのです。

2025年10月9日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。

どうするべきか迷うとき、わたしたちは、愛を選ぶべきなのではないでしょうか。

たとえば、自分を傷つける相手に対して、わたしたちは相手にそれを伝える場合と、そうでない場合がありますが、いずれにせよ、相手を愛することが大事なのではないでしょうか。

相手の非を伝えるときも、言葉や姿勢は穏やかであり、心中も、相手を憎むのではなく、相手を大事にする思いを持ちましょう。

相手の非は伝えず、相手の言動を受容する場合も、自分が打ち負かされたり、相手のいいなりになったりするのではなく、相手と自分の間に、支配ではなく、愛の関係ができることを祈り求めましょう。

その先には、(一方的な所有欲、支配欲ではなく)人と人との愛が見えるかどうかが大事です。

その先に愛が見えるか、それとも憎しみか、自分の感情か。

神さまの御心であるかどうかの判断は、ここにあるのではないでしょうか。

憎しみは道を閉ざす闇であり、愛は道を照らす光です。

2025年10月8日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。

この掟とは

ヨハネによる福音書13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

のことです。

ヨハネの手紙の読者は、すでにこの掟をイエスから聞いているのですが、ヨハネは読者にこの愛の掟の前に新たな思いで立つように呼び掛けているのです。

おなじように、わたしたちも、この掟をすでに何度も聞いているのですが、今日、いま、まったく新しい掟として、この前に立ち、わたしたち自身が新たになることが求められているでしょう。

同時に、今日、いま、イエスさまのこの新しい掟は、わたしたちをまったく新しくしてくださることでしょう。

2025年10月7日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:6 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

「神の内にいる」とはどういうことでしょうか。 この直前の2:5にはこうあります。

2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。

つまり、「神の内にいる」とは、「神の言葉を守る」ことであり、「その人の内には神の愛が実現している」ことなのです。

そして、これは、「イエスが歩まれたように自らも歩む」ことなのです。

すなわち、イエスさまが神さまと隣人を愛して歩まれたようにわたしたちも歩むならば、それは、神さまの言葉、神さまの掟を守ることであり、自分の内に神さまの愛が実現することであり、どうじに、神さまの内にいることなのです。

2025年10月6日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。

聖書においては「知る」という言葉は、「深い交わりを持つ」という意味を持っている場合があります。

「神の掟を守る」ことは「神を知る」こと、「神を知る」なら「神の掟を守る」はずだ、とヨハネは言っています。

ヨハネは、さらに、「神を知る」を「その人のうちに神の愛が働く」「わたしたちが神の内にいる」と言い換えています。

つまり、「神の掟を守る」ことは「神を知る」ことであり、さらに「わたしたちの中に神の愛が働く」「わたしたちが神の愛の中にいる」と言い換えているのです。

この「神の掟」とは「神がわたしたちを愛してくださったのだから、わたしたちもたがいに愛しあう」ということでした。

つまり、「神さまの愛に基づいて、わたしたちがたがいに愛しあえば」、わたしたちは神さまの愛の中にいて、どうじに、わたしたちの中に神さまの愛が働く、ということなのです。

2025年10月5日 日曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)。

この戒めを守らないということは、二重の意味で罪を犯すことになります。

ひとつは、隣人へと関心が向いていないこと、もうひとつは、愛してくださる神さまにも気づいていないこと、つまり、二重の意味で、自分のことしか考えていないのです。

この二重の罪は犯さない方がよいのです。

しかし、わたしたちは、神さまも隣人も十分に愛することはできず、自分のことばかり愛してしまいがちです。

けれども、この罪を巡って、イエス・キリストがわたしたちの弁護者になってくださる、とヨハネは言うのです。

このイエス・キリストは、わたしたちの罪、世界の罪を償ってくださる、というのです。

ここに、わたしたちが、神さまの愛に気づき、それに基づいて、たがいに愛しあう道が、あらためて開かれます。

2025年10月4日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

罪とは、自分のことしか頭になく、神さまにも隣人にも心が向かないことですが、この手紙では、それは、「闇」とも言われ、また、「神さまがわたしたちを愛してくださるにもかかわらず、わたしたちが互いに愛しあわないこと」でもありましょう。

わたしたちは神さまや隣人を完全に愛しているとは言えないでしょう。

完全ではないが十分に愛しているので神さまから救われるにふさわしい、と言うこともできないでしょう。

罪を告白しない限り、罪は赦されません。

わたしたちは、日々、自分中心であることを反省し、同時に、その自分がイエス・キリストに赦され、生かされている恵み、神さまの愛をかみしめて、隣人を大事にする言動をこころがけましょう。

2025年10月3日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

ここでは、神さまは光であるから、あるいは、神さまは光の中におられるから、わたしたちも光の中を歩みましょう、ということが言われています。

ヨハネのこの言葉は、イエスさまの次の言葉とまったく同じ意味です。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)。

ヨハネもイエスさまのこの教えをこの手紙で繰り返しています。

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(ヨハネの手紙一4:11)。

これがこの手紙の中心メッセージです。

2025年10月2日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

「わたしたち」つまりヨハネたちは、天に昇られる前のイエス・キリストを直接知っているのでしょう。

「わたしたち」は、このイエス・キリストと出会った喜びを、地上で生きられた時のイエス・キリストを知らない人びとに伝えるためにこの手紙を書いている、と言うのです。

しかし、それは、地上のイエス・キリストの言動を具体的に記すのではなく、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の喜びを伝えたい、と言います。

つまり、御父と御子イエス・キリスト、そして、ヨハネたちと手紙の読者を貫く愛の交わりを伝えたい、と言います。

この愛の交わりを通して、イエス・キリストの愛、神さまの愛が伝わる、と言うのです。

2025年10月1日 水曜日

おはようございます。

今日から「ヨハネの手紙一」です。

1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――

「初めからあったもの」とはイエス・キリストのことです。

「命の言」「命」「永遠の命」もイエス・キリストのことです。

キリストは天の父なる神さまのところにおられましたが、地のわたしたち人間のところに現れてくださいました。

しかも、聞く、見る、触れるという、わたしたち人間の感覚で捉えられるイエスという人として現われてくださいました。

それゆえに、ある人びとは、「命の言」「命」「永遠の命」であるイエス・キリストと、聞く、見る、触れる、という交わりをすることが許されました。

そして、その人びとは、その経験がない人びとにも、キリストを証しし、伝えるのです。

現在のわたしたちの多くは、直接聞く、見る、触れるということはありませんが、それができた人びとの証しと、それを含む聖書の御言葉、聖霊の働き、賛美と祈りによって、イエス・キリストと出会い、ともに歩んでいただいているのです。

2025年9月30日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二3:17 愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。3:18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

ペトロはこの手紙で、信仰、徳、神さまを知る知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛(1:5-7)を持って生きることを勧めています。

しかし、わたしたちは、不信仰、不徳、神さまを無視すること、自分勝手、拙速、不信、憎しみ、争いの誘惑につねにさらされています。

けれども、わたしたちはこれに負けない「堅固な足場」があります。

それは、「救い主イエス・キリストの恵みと知識」です。

つまり、救い主イエス・キリストの恵みがある、ということをしっかりと知り、つねに思い起こせば、信仰、徳、神さまを知る知識、自制、忍耐、信心、愛、兄弟愛に生きることができるのです。

苦しい状況にあっても、キリストの恵みをつねに思い起こして、キリストに従って歩み続けましょう。

2025年9月29日 月曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二3:14 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。3:15 また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。

「このこと」とは「義の宿る新しい天と新しい地」(3:13)のことです。

神さまの救いが満ちる新しい世界を待ち望みつつ、キリストの御心に従って、「信仰、徳、キリストを知る知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛」(15:5-7)を持って生きることが大切です。

わたしたちは日々神さまの前で打ち砕かれていますが、「天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去る」(3:12)ことはまだ起こっていません(人間による自然破壊は深刻ですが)。

これは、神さまはわたしたちの悔い改めを忍耐強く待っていてくださるのであり、主の忍耐強さはわたしたちの「救い」だ、とペトロは言います。

そうであるならば、わたしたちは今「救い」の中にあることを深く知り、深く感謝し、感謝にふさわしい生活、神さまに信頼し、自制し、忍耐し、神さまと人を愛する生き方ができるようにと祈ります。

2025年9月28日 主日

おはようございます。

ペトロの手紙二3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

神の日、この世界に神さまの救いが完成する日を、わたしたちは待ち望んでいます。

この手紙でペトロが読者に求める信仰、徳、神さまを知ること、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛(1:5-7)をわたしたちが心がけることによって、その日が来るのは早まるのかもしれません。

いずれにせよ、神さまの前で、古い世界は終わり、わたしたちは裁かれ、古いわたしたちは終わります。

しかし、そこに、神さまの義がみなぎる「新しい天と新しい地」が現われることをわたしたちは待ち望んでいます。

神さまがそのように約束してくださったのです。

今は苦しいけれども、この世界には苦しみがあるけれども、神さまの前でわたしたちはまったく新しくされて、まったく新しい世界に生かされる日が来ることを待ち望みましょう。

そして、この日の喜びは、世界の救いの完成の日だけでなく、わたしたちの信仰生活においても、なんどでも、なんどでも、新しくされ、新しく生きることが許されている、という希望をももたらしてくれるのです。

2025年9月27日 土曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。3:11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。

主の日、イエス・キリストがふたたび地上にお越しになられわたしたちを裁いてくださる日は、いつ訪れるか、わかりません。

ですから、わたしたちは、いつでも、今この時も、ああ、イエスさまがここにおられる、わたしたちを見ておられる、という姿勢でいるのがよいのです。

イエスさまがここにおられるのなら、わたしたちは、人にひどい言葉をぶつけることができるでしょうか。

イエスさまの目の前で、わたしたちは、人を殺したり、ものを盗んだり、人を憎んだり、争ったりすることができるでしょうか。

罰を受けないために、ということ以上に、イエスさまの愛と平和と慈しみの眼差しの前で、わたしたちは人を傷つけたり神さまを信頼しなかったりすることは、できないのではないでしょうか。

そこにイエスさまがおられれば、わたしたちも、愛と平和と慈しみの心に満たされていくのではないでしょうか。

2025年9月26日 金曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

「主の約束」とは「主が来るという約束」(3:4)であり「神の日が来る」(3:12)という約束です。

それは、神さまの前で、わたしたちの心の奥底まですべて暴かれ(3:10)、裁かれ、滅ぼされる時ですが、同時に、「義の宿る新しい天と新しい地」が現われる時でもあります。

礼拝、祈り、御言葉を読むときにおいても、わたしたちの自分の思いは打ち砕かれ、神さまの御心によって新しい者に創り変えられます。

わたしたちの不信心、絶望、怒りは、神さまの御言葉によって滅ぼされ、信仰、希望、愛を宿す者へと、わたしたちは新しく創り変えられるのです。

神さま、わたしたちの内なる闇と争いを滅ぼしてください。

そして、あなたの光と平和で満たしてください。

いや、あなたがすでに満たしてくださった光と平和に目覚めさせてください。

2025年9月25日 木曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二3:1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。3:2 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。

「預言者たちがかつて語った言葉」そして「使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟」とは何でしょうか。

イエス・キリストは、聖書の教えを「あなたの神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」にまとめました。上の「言葉」と「掟」も、このふたつに集約されるのではないでしょうか。

ペトロの手紙の受取人たちの中には、このふたつを忘れた生活にふけってしまった者がいたようです。

わたしたちはどうでしょうか。生活は一見乱れていないように思えても、心は自分だけを愛し、じつは、神も人も愛していない、ということはないでしょうか。

神さまの無償の愛、おのれを無にする愛を想い、憧れながら、隣人を大切にできるように祈り求めます。

2025年9月24日 水曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。

「義の道」「聖なる掟」とは何でしょうか。

1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

この手紙の文脈では、「義の道」「聖なる掟」とは、「信仰」「徳」「知識」「自制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」のことでしょう。

これらは、どういうことでしょうか。神さまへの信頼、神さまへの愛、神さまを知ろうとすること、自分を抑えること、忍耐、人への信頼、人への愛のことでしょうか。

イエス・キリストからこれらを教えていただいておりながら、そこから離れてしまうなら、知らない方がよかった、とペトロは言います。

言い換えれば、これらをつねにあらたに思い起こしなさい、ということではないでしょうか。

2025年9月23日 火曜日

おはようございます。

ペトロの手紙二2:19 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。

偽教師は「キリストはわたしたちを罪から解き放ちてくださる」と言いながら、自分自身は罪の奴隷にとどまっています。

わたしたちも、キリストの救いを知りながら、罪の奴隷にとどまるなら、以前よりも悪いと言わざるを得ません。

神さまの愛を知りながら、かえって憎しみの奴隷になってしまうなら、神さまの平和を知りながら、かえって争いを好むのなら、キリストのへりくだりを知りながら、むしろ傲慢になるのなら、キリストを知りながら、むしろ自分自分と言い続けるのなら・・・

キリストは神さまの愛を教えてくださいましたから、わたしたちは愛に生きることを、つねに祈り求めましょう。

キリストは神さまの平和を教えてくださいましたから、わたしたちは争いではなく平和に生きることを、つねに祈り求めましょう。

キリストはご自身のへりくだりを教えてくださいましたから、わたしたちは傲慢にならないように、隣人を大事にし、自分はへりくだるように、つねに祈り求めましょう。

2025年9月22日 月曜日

おはようございます。

''ペトロの手紙二2:17 この者たちは、干上がった

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