私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

牧師室より7

牧師室より7

2026年5月21日(木)

おはようございます。

ホセア書7:9 他国の人々が彼の力を食い尽くしても/彼はそれに気づかない。白髪が多くなっても/彼はそれに気づかない。7:10 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず/これらすべてのことがあっても/主を尋ね求めようとしない。

イスラエルの人たちは、何でも自分たちの力で進めようとし、神さまに依り頼もうとはしませんでした。

何でも自分でする、何でもできると、傲慢になり、神さまから離れてしまったのです。

その結果、頼みにしていた自分の力があてにならなくなっても、それに気付きません。

それでも、神さまに帰ろうとも、尋ね求めようともしなかったのです。

わたしたちは、謙虚になり、自分なりに努力はしつつも、つねに、神さまに祈り求め、神さまにお願いし、神さまにこそ、依り頼もうではありませんか。

白髪(はくはつ)と 弱まる手足に 誘われて 尋ねよ求めよ 神に帰らん

2026年5月20日(水)

おはようございます。

ホセア書7:8 エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ/エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。

エフライムとは北のイスラエル王国のことで、「諸国民の中に混ぜ合わされ」とは、アッシリアに頼ったり、エジプトと同盟したり、周囲の異教文化や偶像礼拝を取り入れたりしたことのようです。

神さまを根本的な頼みとせず、国は大国の軍事力に頼ったり、民は目に見えるものに頼ったりしたことを言っているのではないでしょうか。

「裏返さずに焼かれた菓子」とは、片面はこんがりと焼けていても、もう一面は粉のままのことで、見かけや外側は神さまを礼拝するように装っても、内面ではそうでないことを言うのでしょう。

わたしたちは、ある程度の経済力や人間関係、自分の力を大事にしても、根本の支えは、目に見えない神さまであることをつねに思い出しましょう。

目に見える世界でいろいろなことがあっても、根本では、神さまがわたしたちを支えていてくださいます。

神さまも お菓子を焼くのか わが罪を 裁かれながらも ほほえみこらえず

2026年5月19日(火)

おはようございます。

ホセア書6:6 わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。

神さまは「愛」を喜ばれると言われます。

これは、神さまへの愛のことでしょうか。

それとも隣人を愛することでしょうか。

むろん、両方であって良いと思いますが、

「愛であって」と「神を知ることであって」が並行していますので、「神さまへの愛」の意味が強く感じられます。

この並行によって、同時に、「神を知る」とは「神を愛する」ことなのだと教えられます。

心のこもらない礼拝や献げものではなく、神さまを何よりも大切に思い、慕い求めることを、神さまはお喜びになるのです。

喜びは 金(きん)にはあらず 愛をこそ 切に望むと わが主の御言葉 

2026年5月18日(月)

おはようございます。

ホセア書6:3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。

「主を知ることを追い求めよう」という言葉には、「主を知ることを切に追い求めよう」ということと同時に「主を完全に知ることはできないけれども、知りたいと願い、知る努力をし続けよう」という響きを感じます。そのようなわたしたち人間の側の不確実性とそれゆえの切望が表現されているのではないでしょうか。

それに対して、神さまのお答えは確実です。

「主は曙の光のように必ず現れる」、朝日が昇らなかったことがないように、明日も朝日は必ず昇るように、神さまは必ずわたしたちの上に昇ってくださいます。

「降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように」、雨が空から降るように、朝日も空に昇るように、神さまは天からの恵みとしてわたしたちを訪れてくださいます。

春雨も 曙の陽(ひ)も 主の恵み 土を潤し 闇路を照らす

2026年5月17日(日)

おはようございます。

ホセア書6:1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。6:2二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。

わたしたちの人生には、倒れてしまうこともあります。

引き裂かれるような思いをすることも、打ちのめされることもあります。神さまが試練を与えておられるように思えるときもあります。

いずれにせよ、神さまは、いやし、傷を包んでくださる、我々を生かし、立ち上がらせてくださる、とホセア書は言います。

打たれても 傷は包まれ 裂かれても お癒しくださる 主に生かされる

2026年5月16日(土)

おはようございます。

ホセア書5:14 わたしはエフライムに対して獅子となり/ユダの家には、若獅子となる。わたしは引き裂いて過ぎ行き/さらって行くが、救い出す者はいない。5:15 わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。

神さまから離れてしまったイスラエルに対する神さまの裁きは厳しく、獅子のようだと、ホセア書は言います。イスラエルを救い出す者はいない、と。

けれども、イスラエルみずからが罪を認めて、探し求めるなら、あるいは、神さまを見いだすことができるかもしれない、とも言っています。

さらには、神さまはホセアに「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と命じ、ホセアは出かけて行ってその妻を買い取ったように、イスラエルの民を、神さまから探し求める、と言われるのです。

神さまに対するわたしたちの罪は、神さまに導かれ自分を省みればみるほど、どこまでも深いのですが、神さまはそのわたしたちを探し求め、赦し、受け入れてくださいます。

この坂を 上り詰めれば もう我が家 いや とうさんが 駆けおりてくる

2026年5月15日(金)

おはようございます。

ホセア書5:12 わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり/ユダの家には、骨の腐れとなる。5:13 エフライムが自分の病を見/ユダが自分のただれを見たとき/エフライムはアッシリアに行き/ユダは大王に使者を送った。しかし、彼はお前たちをいやしえず/ただれを取り去ることもできない。

神さまの厳しい裁きの言葉が続きます。

わたしたちは、どうしても自分中心で、どこまでも自分に固執します。

わたしたちがいくら「本当にその人のことを思って」と思っても、神さまはわたしたちの心の奥底にある「じつは自分のために」という思いを見抜かれます。

わたしたちがいくら「神さまを信頼している」と言っても、骨の髄にある「自分が自分が」という声を聞き逃されません。

わたしたちは、神ならぬ神、つまり、お金、財産、人間関係、自分の確信を根本の頼みにしようとします。しかし、それらのものは、わたしたちを根本から救うことはできないのです。

わたしたちの不安、孤独、飢え渇きを根本から癒やすことができるのは、神さまとその御言葉だけなのです。

インマヌエル この五文字こそ わが救い 主がともにいる 七音(ななおん)の幸(さち)

2026年5月14日(木)

おはようございます。

ホセア書5:10 ユダの将軍たちは国境を移す者となった。わたしは彼らに、水のように憤りを注ぐ。

イスラエルが北イスラエルと南ユダに分裂して以来、北から南への、また、南から北への武力攻撃は何度かあったようです。

また、それによって相手の領土を奪おうとしたこともあったようです。

神さまはそのことに対して、「水のように憤りを注ぐ」とホセア書は言います。

神さまはそのような行為を禁じておられるのです。

申命記27:17 「隣人との地境を動かす者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。

出エジプト記20:13 殺してはならない。

世界中の戦争が終わり、日本が戦争の加害者にも被害者にもならないように、平和を求める祈りを日々深めましょう。

剣をば 鍬(くわ)に持ち替え 槍をこそ 鋤(すき)に打ち替え シャロームを祈る

2026年5月13日(水)

おはようございます。

ホセア書5:6 彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが/見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。

神ならぬ神、偶像、お金、財産、地位、自分の思いをあたかも神であるからのように根本の頼みとする者が、形だけは、羊と牛を神殿に捧げて、神さまを礼拝しているようなことをしても、そこには、まことの神さまを見いだすことはできません。

「主は彼らを離れ去られた」とは、とても厳しい言葉ですが、わたしたちも、神さまを信じていると思っても、じっさいにはお金や地位や自分を信じているだけのことではないか、吟味する勇気があってもよいでしょう。その勇気のある人は、以下のイエスさまの言葉からじつに大きな救いを得ることでしょう。

ルカ15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

いつわりの 道を行きて 迷う身を この世の果てまで 主は追い求める

2026年5月12日(火)

おはようございます。

ホセア書5:3 わたしはエフライムを知り尽くしている。イスラエルがわたしから隠れることはできない。まことに、エフライムは淫行にふけり/イスラエルは身を汚している。5:4 彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。淫行の霊が彼らの中にあり/主を知りえないからだ。5:5 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。イスラエルとエフライムは/不義によってつまずき/ユダも共につまずく。

神さまは愛に満ちたお方です。けれども、わたしたちは、神さまのこのような厳しい言葉にも耳を傾けます。

神さまはわたしたちを知り尽くしておられます。わたしたちは神さまから隠れることはできません。わたしたちの「淫行」すなわち「偶像礼拝」、つまり、神さまではないものを神さまのようにしてしまっていることを見抜かれます。

わたしたちは、わたしたちの力では神さまのもとに帰ることができません。わたしたちの中には「淫行の霊」、パウロの言葉で言えば「肉の欲望」(ガラテヤ書5:16)が強いからです。これは、色欲、食欲、権力欲、名誉欲、所有欲だけのことではなく、なによりも我欲のことです。わたしたちの中で、我欲でないものなど何もありません。

ホセア書は、北イスラエルだけでなく南ユダも同じだと言います。

つまり、わたしには罪がない、わたしが信じているものは偶像ではない、などとは誰も言えないのです。

それにも関わらず、神さまはわたしたちを探し求めてくださいます。わたしたちは神さまによる罪の指摘から「隠れることはできない」(ホセア5:3)ですが、どこまでも探し求めてくださる神さまから「隠れることもできない」のです。

神さまはわたしたちの罪を「知り尽くして」(ホセア5:3)おられますが、わたしたちの苦しみも痛みも孤独も不安も「知り尽くして」おられ、どこまでも探し求めてくださいます。

わが罪を どこまでも知り わが魂(たま)を どこまでも追う わが神の愛

2026年5月11日(月)

おはようございます。

ホセア書4:16 まことにイスラエルは/強情な雌牛のように強情だ。どうして主は、彼らを小羊のように/広い野で養われるだろうか。4:17 エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい。4:18 彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね/恥知らずなふるまいに身をゆだねている。

イスラエルの民が偶像を崇拝する姿は、強情であり、小羊のように広い野で羊飼いに養われることはない、とホセア書は告げています。

偶像のとりこになっていると。しかも、酔いしれていて、それに気付かず、偶像崇拝を続けると。

わたしたちはどうでしょうか。たしかに、神さまを信じています。それは、嘘偽りのないこと、とうといことです。

しかし、そこに、お金、地位、自分を過度に信じてしまう罠が潜んでいないでしょうか。

わたしたちはそれになかなか気付かないのです。

偽物を わが心から 去らせたまえ わがこだわりを 打ち砕きたまえ

2026年5月10日(主)

おはようございます。

ホセア書4:12 わが民は木に託宣を求め/その枝に指示を受ける。淫行の霊に惑わされ/神のもとを離れて淫行にふけり 4:13 山々の頂でいけにえをささげ/丘の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。お前たちの娘は淫行にふけり/嫁も姦淫を行う。

自分で決断することには、ふたつの道があるのではないでしょうか。

ひとつは、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ」をともなう「肉の業」(ガラテヤ5:20)です。「利己心」に似ていますが、ここに「我執」も加えるとよいと思います。パウロはこれらをまとめて「偶像礼拝」(5:20)と呼んでいます。ホセア書で神さまが問題にしている偶像礼拝です。「肉の業」とは、「自分への執着」と言ってもよいでしょう。あるいは、自分に執着するための神ならぬ神への執着と言ってもよいでしょう。

もうひとつは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」をともなう「霊の結ぶ実」(5:22-23)です。ここに「譲歩」「謙遜」「敬意」「他者尊重」などを並べても、不自然ではありません。「霊の結ぶ実」とは「まことの神さまへの明け渡し」と言ってもよいでしょう。

上に挙げたホセア書の中にある「木に託宣を求める」「その枝に指示を受ける」「淫行の霊に惑わされる」「淫行にふける」「姦淫を行なう」とは「肉の業」「自分への執着」「自分に執着するための神ならぬ神への執着」と言い換えることができるでしょう。

わたしたちは、これから離れ、厳密な意味でこれから離れることを祈り求め、自分を調べ、自分の中心を神さまにお譲りいたしましょう。

この体 敵意争い 追い出して 愛と喜び お迎えします 

2026年5月9日(土)

おはようございます。

ホセア書4:10 彼らは食べても飽き足りることなく/淫行にふけっても/子孫を増やすことができない。彼らは淫行を続け/主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ。4:11 ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。

お金や財産や名誉や人脈や自分の知識や能力や満足感を、神さまの代わりに、自分の根本の支えとしようとしても、わたしたちは満たされることはありません。

お金も誉れも、得れば得るほど、もっと欲しくなるからです。

それらは、わたしたちの心を奪い、神さまから引き離してしまいます。

しかし、神さまとその御言葉は、わたしたちを満たしてくださいます。

マルコ6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。6:42 すべての人が食べて満腹した。

わたしたちの心の飢えを、ほんとうに満たしてくださるのは、神さまとイエスさまの愛とその御言葉です。

食べ放題 増えるは目方と 後悔のみ 主の歌こそは 我をも満たす

2026年5月8日(金)

おはようございます。

ホセア書4:6 わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので/わたしもお前を退けて/もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので/わたしもお前の子らを忘れる。

預言者ホセアは神さまの厳しい言葉を伝えます。

わたしたちは神さまのことを知りたいと願っていますが、つねにあらたな気持ちで知ろうとしているでしょうか。慣れ親しんだ言葉であれば、これまでと同じように受け取るだけで、そこから新しいものを聞こうとしているでしょうか。

自分が正しいと思う読み方を確認するだけで、気付かなかった読み方、気付かなかった神さまの恵みをそこに聞き取ろうとしているでしょうか。

神さまを知る、神さまの言葉を聞くということは、情報を得るということではなく、味わうということです。

一度味わった御言葉を、この味はもう知っていると思い込むのではなく、今度はより深く味わう、あらたな味わいを見いだす、そのような味わい方が大切でしょう。

風は澄み 新しい音 聞こえ来る いくたび奏でた この五線譜から

 

2026年5月7日(木)

おはようございます。

ホセア書4:1 主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも/神を知ることもないからだ。4:2 呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり/流血に流血が続いている。4:3 それゆえ、この地は渇き/そこに住む者は皆、衰え果て/野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。

この言葉は、2800年前のイスラエルの人々だけでなく、現代世界の諸国家と国民に、神さまが、熱いお心で語りかけておられるのではないでしょうか。

さらには、キリスト教会も神さまのこの言葉をしっかり聞く必要があるでしょう。なぜなら、わたしたちが隣人や家族に向ける誠実さは慈しみはとても美しいものでありながら、とても自己中心的なものであるからです。なぜなら、わたしたちは「神を知る」ようで、そこにはわたしたちの思い込みや願望を忍び込ませているからです。

わたしたちは、悲観的にも自虐的にもなるべきではありませんが、神さまの前で、神さまがわたしたちの偽りを教えてくださることにおゆだねしたいと思います。

けれども、さらに大事なことは、神さまはわたしたちを裁き捨てるのではなく、むしろ、わたしたちをどこまでも愛し、追いかけ、赦し、深く憐れんでくださるということです。

わが嘘を わが偽りを 露わにし さらの浴衣を 主は着せたもう

 

2026年5月6日(水)

おはようございます。

ホセア書3:3 わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」3:4 イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす。3:5 その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。

神ならぬ神、偶像を崇拝していたイスラエルの民は、それをやめ、ただ、まことの神、自分が造りだしたのではない神、自分の考えによるのではない神、愛の神に仕えるように促されます。

そして、神さまも、いや、まことの神さまこそが、わたしたちの手を取り、けっして離さない、と言われるのです。

バビロン捕囚での生活は厳しいものでしたが、そこは、まことの神さまのことだけを思い、まことの神さまに立ち返る期間でもありました。

イスラエルの民は、やがて、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還して、自分たちを捨てないまことの神に仕え、まことのメシアの到来を求めるようになりました。

そして、御国を来たらせたまえと、神さまの救いが完成する日を希望をもって祈り求め、どこまでもわたしたちを愛してくださるという、神さまのまことの恵みを、深い畏れをもって、この手にいただくのです。

主の許(もと)に とどまりつづけよ 汝(な)が手をば つかみて離さぬ まことの主なれば

2026年5月5日(火)

おはようございます。

ホセア書3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

あなたの誠実さを裏切って、つれあいが不実を働いても、つれあいへの誠実さを貫け、と神さまは言われます。

それは、神さまご自身がそうなさるからです。

すなわち、イエスラエルの民は、神さまに背を向けて、神さまでないもの(お金、力、人脈、自分の思考)を根本の支えとしてしまうけれども、神さまはそれでもイスラエルの民を愛し抜かれるからです。

同じように、わたしたちも、主よ、主よ、と言いながら、ほんとうは神さまでないものを神さまのように頼ってしまっていますが、それでも、神さまはわたしたちを愛し抜いてくださるのです。

不実なる 我が身なれども どこまでも 誠実な主に 愛し貫かれる

2026年5月4日(月)

おはようございます。

ホセア書2:23 その日が来れば、わたしはこたえると/主は言われる。わたしは天にこたえ/天は地にこたえる。2:24 地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ/それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。2:25 わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。

「あなたを憐れむ」「あなたを愛する」「あなたを見捨てない」という神さまの声が宙に響きます。

宙はその声を大地にこだまさせます。

大地はその声を、穀物、酒、オリーブ油、花、草に響かせます。

地の産物は、「神さまが種をまいてくださった」と合唱します。

かつて「ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)」と呼ばれた者を、神さまは憐れみます。愛します。

かつて「ロ・アンミ(わが民でない者)」と呼ばれた者を、神さまは、いまや、「わが民」と呼びます。

その民は、神さまに「わが神よ」とこたえます。

かくして、神さまの愛の声と、それへの感謝、賛美が天と地と人に響き渡ります。

「わが民」「わが神」という声が世界に響きます。

あなたこそ わが愛し子と 声響く 主をたたえよと 賛美は満ちる

2026年5月3日(日)

おはようございます。

ホセア書2:21 わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び/正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。2:22 わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。

神さまは、ご自分から離れたイエスラエルの民ととこしえの契りを結ばれました。

それは、神さまはイスラエルに、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ、という約束です。

しかも、これは、神さまの以下の言葉にあるように、神さまの一方的な愛による約束です。

「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」(3:1)

この神さまの一方的な愛は、この時のイスラエルの民だけに向けられたものではなく、神さまに背き、神さまを信頼しきれない、わたしたちすべての人間への神さまの愛ではないか、とわたしは考えます。

神さまはすべての人を無条件に愛しておられる、とわたしは思います。

いさおなき われをも愛す 慈しみ とわの憐れみ そのかたじけなさ

2026年5月2日(土)

おはようございます。

ホセア書2:19 わたしは、どのバアルの名をも/彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない。2:20 その日には、わたしは彼らのために/野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち/彼らを安らかに憩わせる。

バアルとは物質的富への願望と結びついた偶像のことで、イスラエルの民は神さまを離れてこちらになびきがちでしたが、神さまはそのような偶像崇拝から民を救い出すと言われます。

物質的富への欲望はときに戦争を招きますが、まことの神さまを信頼するのであれば、「弓や剣や戦い」もなくなります。

また、「野の獣、空の鳥、土を這うもの」といった自然界の生物との間にも平和が生まれます。

以下のような聖句も思い出されます。

イザヤ書11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。

マルコ1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

いつわりの 神の名はなく 剣(つるぎ)なく 獅子は草食み(くさはみ) 平和みなぎる

 

2026年5月1日(金)

おはようございます。

ホセア書2:18 その日が来ればと/主は言われる。あなたはわたしを、「わが夫」と呼び/もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしたちは、神さまのことを「わが主」(ヘブライ語でアドーナイ)と呼びます。「わが」をつけずに「主」だけですと、「アードーン」です。

これに対し、上の「わが主人」の主人は「バアル」です。

アドーナイはヤハウェの神さま、アブラハム・イサク・ヤコブ、モーセ、ダビデらを導いた神さま、そして、イスラエルの民を導いた神さまですが、バアルは富や利益崇拝とつながる偶像の名前です。

つまり、「あなたはわたしを、「わが夫」と呼び、もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない」とは、偶像崇拝から離れ、ただ神さまにお仕えする、ことを意味します。

バアルは「主人」として人間を「奴隷」にして支配する偶像ですが、まことの神さまは「わが夫」つまり家族としてともに歩んでくださるお方であることがここでは強調されています。

ファラオにも ネロにもあらず わがエスの その頭(こうべ)には 荊(いばら)の冠(かんむり)

2026年4月30日(木)

おはようございます。

ホセア書2:16 それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう。2:17 そのところで、わたしはぶどう園を与え/アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき/エジプトの地から上ってきた日のように。

神さまはご自分から離れたイスラエルの民を荒れ野に導き、その心に語りかけます。民が神さまに立ち返るためです。

ホセアより何百年も前、エジプトでファラオに支配されていた民を神さまは導き出しますが、ただちに約束の地に連れて行くのではなく、民は40年荒れ野を旅することになります。民の神さまへの信頼は十分ではなく、40年はそれが養われる期間でもあったのです。

わたしたちも、人生において、試練に遭う時があります。それは、かならずしも、神さまへの背き故のことではありません。十分に神さまに信頼して生きてきても、試練は訪れます。イエスさまの荒れ野の経験も、神さまへの背き故のことではありませんでした。試練は、神さまへの信頼がさらに増し加えられる時でもあるのです。

突然の 荒野の道に とまどえど ひとりではない イエスと歩む

2026年4月29日(水)

おはようございます。

ホセア書2:8 それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ/石垣で遮り/道を見いだせないようにする。2:9 彼女は愛人の後を追っても追いつけず/尋ね求めても見いだせない。そのとき、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろう/あのときは、今よりも幸せだった」と。

イスラエルの民は、神さまではないものを追い求めますが、結局は、それに到達することはできません。

神さまが守ってくださるからです。

そして、まことの神さまのところに帰る、という思いを神さまから与えられます。

イエスさまの放蕩息子のたとえでも、息子はお金やぜいたくな生活に満足を求めますが、そこには救いはなく、父の元に帰ろう、という思いを与えられます。

わたしたちも、神さまを根本の頼みにしているようで、じつは、それ以外のものに強く依存していないか、じつは、自分の思いにしがみついていないか、つねに自分を点検し、つねに、神さまご自身のお言葉、御心に立ち返りたいと願います。そうすれば、神さまの方から駆け寄ってきてくださいます。

風が吹く 声が聞こえる 帰るんだ 百合咲く丘の なつかし家に

2026年4月28日(火)

おはようございます。

ホセア書2:7 その母は淫行にふけり/彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。彼女は言う。「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻/オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

イスラエルの民は、神さまではないものに全面的に頼ってしまったり、権力や経済力によって弱者を虐げたり、エジプトやアッシリアといった大国に頼ったりして、神さまから離れてしまいました。

ホセアはこれを「淫行」「恥ずべきこと」と言い、神さまでないもの、権力や経済力、大国を「愛人」と言い表しています。

わたしたちは、どうでしょうか。口では、神さま、神さま、と言いながら、自分でも気付かないような心の奥底では、お金や地位、自分の考え、この世的に価値があるとされるものに、いちばん頼ってしまっていないでしょうか。自分で作り上げた偶像にこそ頼ってしまっていないでしょうか。

けれども、わたしたちの根本の頼みは、偶像ではなく、神さまです。わたしたちのまわりやわたしたちの中にあるあらゆる偶像から離れ、聖書とイエス・キリストにおいてご自身をお示しになった神さまに繰り返し立ち返りましょう。

我が我を 打ち壊したまえ 我が神よ 建て直したまえ ただあなただけを

2026年4月27日(月)

おはようございます。

ホセア書2:4 告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなく/わたしは彼女の夫ではない。彼女の顔から淫行を/乳房の間から姦淫を取り除かせよ。2:5 さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし/生まれた日の姿にして、さらしものにする。また、彼女を荒れ野のように/乾いた地のように干上がらせ/彼女を渇きで死なせる。

ここでは、神さまに背くイスラエルの民の様(さま)が、「淫行」「姦淫」という言葉で言い表されています。

妻に対して不実を働く夫ではなく、夫に対して不実を働く妻が、神さまに背くイスラエルのたとえに用いられていることには、この時代の男性やホセアの持つ女性観、そして、現代の男性を含むわたしたち人間の言語や思考の限界を示しているのではないでしょうか。

けれども、ホセア書で、イスラエルの民が(そして、わたしたちが)神さまに根本の信頼を置かず、神さまでないこの世的なものに必死にすがろうとする姿が指摘されていること、そして、それにもかかわらず、神さまはわたしたちを見捨てず、呼び求めてくださることが、あきらかに示されていることは、きわめて大切です。これは、イエス・キリストによって、頂点に達します。

不誠実 隠しきれない 我なれど 主は赦したもう 駆け寄りたもう

2026年4月26日(主)

おはようございます。

ホセア書1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子を/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず/彼らを決して赦さないからだ。

1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。
1:9 主は言われた。「その子を/ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく/わたしはあなたたちの神ではないからだ。」

ホセアはゴメルと結婚し、子が与えられます。

神さまはその2番目の子にロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、3番目の子にロ・アンミ(わが民でない者)と名付けるように言います。この名前は、イスラエルの民が神さまから離れてしまったことを象徴しているようです。

しかし、神さまはやがてイスラエルの民を赦し、次のように言われます。

2:3 あなたたちは兄弟に向かって/「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって/「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。

わたしたちは、自分が否定されているように、神さまに愛されていないように思ってしまうことがありますが、神さまは、じつは、わたしたちを否定せず、愛しておられるのです。

だめ印 一枚一枚 はがしては その傷口に 星印貼る

2026年4月25日(土)

おはようございます。

ホセア書1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

紀元前1000年頃、ダビデの王国が栄えますが、紀元前930年頃、それは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。そして、ホセアはその200年後の北イスラエル王国の預言者です。

神さまはホセアに、不誠実な妻を受け入れよ、と言います。

不誠実な妻の姿は、神さまから離れてしまった北イスラエル王国の指導者や民の姿と重なります。

つまり、神さまはそのような神さまに背くイスラエルの民を見捨てず迎え入れる、と言われるのです。

これは、不誠実などどうでもいい、構わない、ということではありません。

それは、厳しく暴かれ、指摘され、問われます。

それにもかかわらず、神さまはわたしたちを裁き捨てず、見捨てず、ともに歩んでくださる、というのです。

放蕩の 子どもを迎え 淫行の 人をも捨てぬ 神はとことん

2026年4月24日(金)

おはようございます。

イザヤ書66:22 わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。

神さまは、大地と海、空、つまり、わたしたちが生きる世界を創造してくださいました。

また、そこに生きるわたしたちと先祖、そして、子孫を創造してくださいます。

しかし、世界は、ときに、破滅的な状態に陥ったり、自ら悪に染まっていったりしてしまいます。

わたしたちも、また、ときに、打ちのめされたり、自ら神さまから離れたり人を憎んだりしてしまいます。

けれども、神さまは、わたしたちの世界を新しく創り直してくださいます。

わたしたち自身を、再び起き上がらせ、新しく創り変えてくださいます。

神さまは、古いわたしたちと古い世界を、新しく創造してくださいます。

冬枯れの 野に一面の 百合は咲き うつむいたあの 子は起き上がる

2026年4月23日(金)

おはようございます。

イザヤ書66:12 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。66:13 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

聖書では、神さまは「父」と呼ばれることが多いのですが、ここでは、神さまの慰めが「母」の慰めにたとえられています。

バビロニアで捕囚とされていたユダの民はエルサレムに帰還し、町と神殿の再建が始まります。

平和でなければ、それはできません。

民の心に平安が宿ります。

平和も平安も、神さまのシャロームです。

神さまのシャロームは、子どもが母の胸に抱かれ、膝の上であやされる平安にたとえられます。

母の胸 ねむりてねむり シャロームの なみなみと満つ おおかわのごと

 

2026年4月22日(水)

おはようございます。

イザヤ書66:10 エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。

バビロニアに捕らわれていた民は解放され、バビロニアに滅ぼされたエルサレムの都は、いまや、回復されます。

喪の悲しみは、婚姻の喜びへと変えられます。

この喜びは、新約聖書に引き継がれます。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21:3-4)。

神さまは、わたしたちの悲しみを主にある喜びに、喪を祝宴に変えてくださいます。

その日を信じて、希望を持って、待ちましょう。

その日の喜びを、御言葉と祈りによって、今日、ここに、先取りさせていただきましょう。

喜怒哀楽 私の怒と哀 包むのは 天の喜び 賛美の楽の音(ね) 

2026年4月21日(火)

おはようございます。

イザヤ書66:1 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。66:2 これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。

神さまは、人間の建てた神殿や教会の建物におられるだけでなく、天を椅子とし、地に足を置かれます。

宇宙レベルのこの大きな大きなお方が、苦しみ、心が張り裂け、ただ御言葉の前で静まる、小さなちいさなわたしたちを顧みてくださいます。

何億光年 サイズの宙(そら)に わたる主は 隅にうつむく われを喜ぶ

2026年4月20日(月)

おはようございます。

イザヤ書65:19 わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。65:20 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。

バビロニア帝国に国を滅ぼされ捕囚の身となったユダの民は、神から見捨てられたのだと非難を受けたり、神さまから罰を受けているのだと反省をしたりしたようですが、神さまは、いま、その民を「喜び」と「楽しみ」とすると言われます。

民の泣き声、叫び声は、いまや、喜びと感謝の歌声と変えられます。

戦争や暴虐によって早く死んでしまう人もいなくなるでしょう。

誰もが神さまから与えられた生を祝福のうちに生き抜くことができるでしょう。

挫折をも 再起と変える 主の復活 哀しい歌は うるわしの賛美に

2026年4月19日(日)

おはようございます。

イザヤ書65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。

神さまは新しい天と新しい地を、そして、新しい民を創造すると約束してくださいました。

これは、新しい世界、新しい人類が別に創られる、ということではなく、わたしたちとわたしたちが生きているこの世界がまったく新しく創り変えられるということです。

たとえ、今わたしたちが苦しんでいても、わたしたちのまわりに様々な問題があっても、神さまは、わたしたちとわたしたちのまわり=世界をまったく新しくしてくださるのです。

苦しかったこれまでとはまったく違う新しい生き方を神さまは用意してくださるのです。

古き世を 新しき世に 変えたもう 主はわたしをも ふたたび起こす

2026年4月18日(土)

おはようございます。

イザヤ書62:11 見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。62:12 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。

娘シオンとはエルサレムの都のことで、また、ここでは、そこの民をも指すのでしょう。

バビロニアに滅ぼされたエルサレムの都は荒廃します。

しかし、いまや、今度はバビロニアが滅ぼされ、エルサレムからバビロニアに連れ去られた民の子孫は解放され、それに伴い、エルサレムが神の都として復興すると、イザヤは預言するのです。

民は、もはや、「捨てられた民」ではなく、むしろ、神さまはこの民を「尋ね求め」「贖って」くださるというのです。

わたしたちも、神さまから見捨てられたのではないかと思うくらいに苦しいことがありますが、神さまはわたしたちを見捨てられたのではなく、むしろ、苦しむわたしたちを「尋ね求め」「贖って」(救い出して)くださるのです。

見捨てない 地の果てまでも 探し出す 牧者は我の 一推(いちお)しなれり

2026年4月17日(金)

おはようございます。

イザヤ書62:8 主は、御自分の右の手にかけて/力ある御腕にかけて、誓われた。わたしは再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず/あなたの労苦による新しい酒を/異邦人に飲ませることも決してない。62:9 穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美し/ぶどうを取り入れた者は/聖所の庭でそれを飲む。

わたしたちの収入は、結局は神さまからいただいたものです。わたしたちはこれの大部分を自分たちの生活のために用い、また、神さまにおささげし、あるいは、隣人とわかちあいます。

けれども、これが誰かから力尽くで奪われるようなことがあってはなりません。

イザヤによれば、バビロンで捕囚の身となったユダの民は、そこから解放され、エルサレムに帰還します。

もはや、神さまからいただいたものを、バビロニアの支配者から奪われることなく、これからは、それを賛美とともに神さまにおささげし、隣人とわかちあい、自分の糧とすることができるのです。

主からの恵みを、感謝とともに主におささげし、感謝をもって毎日の衣食住に用い、感謝しながら隣人とわかちあうことが、わたしたちにも許されています。

感謝します 日々の糧とし わかちあい 主にお返しする 天よりの恵み

2026年4月16日(木)

おはようございます。

イザヤ書62:6 エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ/決して沈黙してはならない。62:7 また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。

祈りは、わたしたちが語り、神さまに聞いていただく、と同時に、神さまが語ってくださり、わたしたちが聞くことです。

御言葉においても、それは、神さまが語ってくださり、わたしたちが聞く、と同時に、わたしたちが語り、神さまに聞いていただくことでもあります。

神さまの恵み、救いは、神さまからの一方通行ですが、祈りや御言葉は双方向であり、そこには、コミュニケーションがあります。

預言者イザヤは、わたしたちは沈黙してはならないし、神さまも沈黙なさらない、と言います。

この場合の「沈黙」は「言葉がない」ということよりも「交わりがない」ということでしょう。

神さまとの双方向の交わり、コミュニケーションは、呼吸のようでもあります。

神さまが息を送ってくださり、わたしたちはそれを吸います。

わたしたちは、息を吐き、神さまはそれを受け止めてくださいます。

ここには「沈黙」「断絶」ではなく、息が通い合っています。

吸えば吐き 吐けば吸うたび 深まりぬ 神の御言葉 静けき祈り

2026年4月15日(水)

おはようございます。

イザヤ書62:5 若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。

聖書全体を見渡しますと、親が子を待つ、羊飼いが羊を探す、友のために命を捨てる、一番最後に雇った者から賃金を払う、というような表現も見られますが、ここでは、「若者がおとめをめとる」という比喩が用いられています。

そして、これが言い表していることは、「あなたを喜びとする」、あなたを大切にする、ということです。

神さまはわたしたちをご自分の喜びとしてくださるのです。

神さまの楽しみは何かと言えば、わたしたちなのです。

そして、その神さまは、わたしたちを「再建」してくださいます。

わたしたちが、倒れても、また倒れても、その都度、神さまは建て直してくださいます。

神さまは、「あなたはわたしの喜び」と言いながら、いくどでも、いくどでも、わたしたちを起き上がらせてくださいます。

七転び しようと七度 起こされる わが喜びよ との声がする

2026年4月14日(火)

おはようございます。

イザヤ書62:3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。62:4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。

ユダの民はバビロンで捕囚の身になりましたが、人生には、そのように「神さまから見捨てられた」と言いたくなるような苦しいことが起こります。イエスさまも十字架上で「わが神、なにゆえ我を見捨てたもう」と叫ばれました。

あるいは、自分の人生は荒廃している、荒れ果てている、と思ってしまうようなことも起こります。

しかし、神さまはかならずそこから救い出してくださいます。

わたしたちは、捨てられたのでもなければ、荒廃しているのでもありません。

神さまはわたしたちを「望ましい」者、愛しい者と思ってくださり、わたしたちを捨てず、むしろ、どこまでもいっしょにいらしてくださるのです。

神さまはわたしたちを御手の中においてくださり、宝石のように大切にしてくださいます。

十字架の エリエリレマの 絶望に インマヌエルの ファイナルアンサー

2026年4月13日(月)

おはようございます。

イザヤ書61:10 わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。61:11 大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

わたしたちは、喜びや楽しみを神さま以外のものに求めてしまいがちですが、わたしたちの根本の喜び、根本の楽しみは、神さまから与えられるものです。わたしたちは、喜びや楽しみの根本を神さまに求めましょう。

神さまはわたしたちの求めに答えてくださり、いや、わたしたちが求める前から、喜びと楽しみを備えてくださいます。

神さまはインマヌエル(「神さまがわたしたちとともにおられる」)の衣をわたしたちに着せてくださり、アガペー(「わたしはあなたを無条件で愛する」)の冠をかぶせてくださいます。

春。いま、目の前の原には緑の草が波打ち、向こうの丘は緑の木立を膨らませています。

それと同じように、「すべての民」に神さまは「恵みと栄誉を芽生え」させてくださいます。

全地には 草の芽萌えて 頭(こうべ)には 輝く冠 すべての民に

 

2026年4月12日(主)

おはようございます。

イザヤ書61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

神さまは、わたしたちの嘆きを喜びに、暗い心を賛美に変えてくださいます。

そして、わたしたちは、廃墟を建て直し、荒廃したものを再興するために用いられます。

つまり、神さまは、わたしたちを、闇から光へと導き出してくださいますから、今度は、わたしたちが、神さまの器として、神さまの光を反射して、闇を照らすように用いられるのです。

泣き声は 歌声になる イースター 夜明けの星の バックコーラス

2026年4月11日(土)

おはようございます。

イザヤ書61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。

「捕らわれ人には自由を」「つながれている人には解放を」とありますので、バビロンで捕囚の身とされている人びとに、預言者が、神さまがそこから解放してくださるという「良い知らせ」を告げる場面が想像されます。

この何百年かのち、イエスさまはナザレの会堂でイザヤ書を読んだ、とルカ福音書は報告しています。

4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

イエスさまも、また神さまの霊に導かれて、貧しい人、捕らわれている人、障がいを抱える人、抑圧されている人に、神さまの救いと恵み、喜びの知らせ(福音)を伝えました。

イエスさまは、苦しんでいるわたしたちやわたしたちの家族にも、福音、苦しみからの解放をもたらしてくださることでしょう。

降り続く 雨も止むよと イェスの声 レイニーブルーは スカイブルーに

2026年4月10日(金)

おはようございます。

イザヤ書60:21 あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ/わたしの植えた若木、わたしの手の業として/輝きに包まれる。60:22 最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。

「とこしえに地を継ぐ」とありますが、これは「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)というイエスさまの言葉を思わせます。

この「柔和な」は「へりくだった」とも訳され、「心の貧しい」(マタイ5:3)や「悲しむ」(マタイ5:4)とともに、イザヤ60:22の「最も小さいもの」「最も弱いもの」と響き合っているように思われます。

つまり、イザヤ60:21ー22は、バビロンで捕囚となった民がいまや解放されエルサレムに帰ってくることを示しているように考えられますが、同時に、神さまは、小さな人々、弱い人々、苦しむ人々を顧みられるという旧約、新約を貫くテーマに即しているのではないでしょうか。

神さまは、この世的には高い立場になく、人の目には優れているとは見られず、自分でもなんと情けないと思うわたしたちをこそ、とうとい、値高い、と愛してくださるのです。

聖書の神さまは、優秀な者を大事にする神さまではなく、罪人を愛してくださる神さまです。

一番なら 一番下か 最後が良い イエスはそこに いつもおられる

2026年4月9日(木)

おはようございます。

イザヤ書60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。60:20 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。

太陽は沈み、月は欠け、人は時に去りますが、神さまという光は、沈むことも、欠けることもありません。

永遠に輝き、いつもわたしたちを照らしてくださいます。

神さまこそが、わたしたちのまことの太陽であり、まことの月、まことの光なのです。

わたしたちは嘆く必要はありません。

わたしたちには、光があり、希望があり、喜びがあるのです。

日は沈み 月は欠けても とこしえの 光なる主が あなたを照らす

2026年4月8日(水)

おはようございます。

イザヤ書60:17 わたしは青銅の代わりに金を/鉄の代わりに銀をもたらし/木の代わりに青銅を/石の代わりに鉄をもたらす。わたしがあなたに与える命令は平和/あなたを支配するものは恵みの業。60:18 あなたの地は再び不法を耳にすることなく/破壊と崩壊は領土のうちから絶える。あなたの城壁は「救い」と/城門は「栄誉」と呼ばれる。

青銅ではなく金、鉄ではなく銀、木ではなく青銅、石ではなく鉄とは、バビロニア帝国による不法な支配ではなく神さまによる平和を、帝国による破壊ではなく神さまによる恵みの業を、軍隊による城壁や城門の崩壊ではなく神さまによる「救い」と「栄誉」を、ということではないでしょうか。

わたしたちの上にも同じことが起こるでしょう。

挫折から再起、絶望から希望、怒りから平安、攻撃から和解、裁きから赦し、戦争ではなく平和、差別ではなく共生、永久の死ではなく永遠のいのち、滅びではなく救いを、イエス・キリストがもたらしてくださることでしょう。

爆音は 歌声となる 春の朝 枯れ木に花咲き 伏せ人(びと)は起きる

2026年4月7日(火)

おはようございます。

イザヤ書60:15 かつてあなたは捨てられ、憎まれ/通り過ぎる者もなかったが/今、わたしはあなたをとこしえの誇り/代々の楽しみとする。

「かつて」と「今」の違いは、「捨てられ、憎まれ」と「誇り」「楽しみとする」との違いだけにあるのではなく、誰がそうするのか、という点もとても重要です。

つまり、「かつて」あなたは「人々に」捨てられ、憎まれたが、「今」あなたは「神さまに」誇りとされ、楽しみとされる、と言うのです。

これまでは、人々がわたしたちに向ける視線、人々がわたしたちに向ける言葉ばかりを気にし、それに傷つけられていたが、これからは、神さまがわたしたちを愛し大切に思ってくださることに気付いて、神さまのまなざしと御言葉に支えられて生きていきなさい、と言うのです。

人々に 数えられない 者なれど 主の目にわれは 喜びとなる

2026年4月6日(月)

おはようございます。

イザヤ書60:3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。60:4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。60:5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。60:6 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

「黄金と乳香」という言葉は、イザヤの数百年後のイエス・キリストの誕生を連想させます。

諸々の国々の民が宝や富を携えて、エルサレムに集まってきて、「主の栄誉」が宣べ伝えられるとは、神さまこそが世界の王であることの宣言であり、これも、イエス・キリストの「神の国は近づいた」という宣言を想い起こさせます。「神の国」とは「神さまが王である国」「神さまが王としてお治めになる」ということです。

世界は王や大統領や総理大臣や政治家や富豪、権力者によって治められているように見え、そこには、戦争があり、貧富の格差があり、差別があり、生きている人びとの苦しみがありますが、そのような世界の中で、聖書は、神さまこそがこの世界を治めておられる、神さまこそがすべての人の王である、と教えてくださいます。

この世の苦しみ、不条理にあっても、この世界を本当に治めておられるのは神さまだ、神さまは力ではなく愛で治めてくださる、神さまの愛は世界中のすべての人びとに注がれている、わたしたちも神さまに愛されている、わたしたちの知らない人びとも神さまに愛されている、と信じて、この世界で与えられた命を精一杯生き抜きましょう。

そして、この世界の旅を終えたときは、世界のまことの王である神さまが、わたしたちを永遠のいのちの内に受け止めてくださることを信じましょう。

王の王 王ならぬ王 愛の王 死を乗り越える いのちの王なり

2026年4月5日(主)

主の復活、おめでとうございます。

イザヤ書60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。60:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。

世界では戦争や災害が続き、人びとの命と生活が損なわれています。

わたしたちも、家族、健康、仕事、人間関係など、なかなか解決しない苦しみを負っています。

まさに、「闇に覆われ」「暗黒に包まれて」います。

けれども、ここに光が輝き出ます。

神さまです。

イエス・キリストは、十字架で死に、暗い墓に放り込まれていました。

けれども、光が昇り、闇に差し込み、キリストは復活なさいました。

主がキリストを暗闇から導き出してくださいました。

これは、世界とわたしたちもこの闇から救い出される希望です。

神さまは墓に横たわっていたイエス・キリストを起き上がらせてくださいました。

神さまは、世界とわたしたちも起き上がらせてくださいます。

長い夜に 終わりをつげし 光あり イェス起き上がり ガリラヤに行く

2026年4月4日(土)

おはようございます。

イザヤ書58:9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら 58:10 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。

神さまはわたしたちの光です。

わたしたちが「神さま」と呼べば、神さまは「わたしはここにいる」とお答えくださいます。

わたしたちが、人を縛り付けたり、指を指したり、悪口を言ったりするのをやめて、飢えている人に心を配り、苦しめられている人と祈りをともにするなら、神さまは、闇の中で光となり、闇を光に変えてくださいます。

明日の朝は、イースター、イエス・キリストは闇から光へと復活してくださいます。神さまは闇を光と変えてくださいます。

十字架につけられた直後の闇、金曜日の闇、夕べの闇は、イエス・キリストがわたしたちの闇まで降りてきてくださる闇でした。

そして、今夜の闇、土曜日の闇は、日曜日の朝の復活に続く闇なのです。

いつまでも 終わらないのか この闇は いや友よ見よ 夜明けは近い

 

2026年4月3日(金)

おはようございます。

イザヤ書58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。

聖書において、断食には、悔い改め、嘆きと悲しみの表現、神への切実な祈り、自己否定とへりくだり、というような意味があると考えられます。

2026年においては、今日(4月3日)は、イエス・キリストの十字架にわたしたちの心を寄せる金曜日であり、わたしたちの罪を悔い改め、わたしたちの罪の故に神さまを悲しませ、人びとを傷つけていることを告白し、心を痛め、自らを何か正しい者であるかのようなおごりを捨て去る日です。今日だけではありません。

神さまは、それには、悪によって苦しめられている人びとを救い出し、空腹の人びとと食をわかちあい、住まいのない人に宿を提供し、着るもののない人に衣を贈り、このように、隣人への助けを惜しまない生き方が、とうぜん、伴うと言われます。

マタイの「25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」という御言葉が思い出されます。

わたしたちはこのようなことはほとんどしていませんし、できませんが、それをすなおに認め、自分のことだけでなく、自分以外の人に衣食住が足りる平和な生活がありますようにと、心から祈り求めることが大切なのではないでしょうか。このようなことは政治の問題であって信仰とは関係がないとしてしまえば、このイザヤ書やマタイの御言葉から遠く離れてしまうことでしょう。

イエス・キリストが十字架で苦しんでおられます。

隣人が衣食住の不足、病気、怪我、戦争で苦しんでいます。

今日、わたしたちは何を祈りますか。

十字架で うめくイエスの ともだちの なみだ乾かぬ 世界の片隅

2026年4月2日(木)

おはようございます。

イザヤ書57:17 貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。57:18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために 57:19 わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。

わたしたちは神さまに背き、神さまの御心ではなく、自分の心の情念によって行動したり言葉を発したりしてしまいます。神さまは、そのようなわたしたちをごらんになっておられます。

けれども、神さまはわたしたちを癒やし、休ませ、慰め、回復させてくださいます。

神さまのシャロームは、神さまの近くにいる人だけでなく、遠く離れている人にも届けられるのです。

離れても 離れてもなお 離れない アイ・アムの声 シャロームの声

 

2026年4月1日(水)

おはようございます。

イザヤ書57:16 わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。

わたしたちが今直面している苦しみは神さまからの罰である、と言うことはできません。

この苦しみは永遠のものでもありません。

神さまは、ご自分がお創りくださった命、つまり、わたしたちの霊、つまり、神さまとわたしたちのつながりが弱り果て、消えてしまうことのないように、やがて、その苦しみを取り除いてくださいます。

神さまは、神さまとのつながりにおいて、わたしたちを生かし続けようとしてくださるのです。

イエス・キリストも十字架の上で死に、陰府にくだり、神さまとのつながりがすべて切れてしまったかのようでしたが、神さまはキリストを三日目に死の床より起き上がらせました。それが復活です。

三日目に 動かぬ石は 転がされ エンドレスレインは おおブルースカイ

2026年3月31日(火)

おはようございます。

イザヤ書57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。

神さまは高いところにおられます。

けれども、わたしたちが神さまに近づくには、わたしたちがたかくあがろうとしてはならないのです。

むしろ、わたしたちは低くくだるのです。へりくだるのです。

さらには、神さまご自身がくだってきてくださいます。

高いところにおられる神さまがわたしたちとともにいらしてくださる。

それは、神さまが低いところにくだってきてくださり、わたしたちもへりくだることによってなのです。

空高く いますお方は へりくだり われらもならい さらに低きに

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