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2015年10月11日「神が私に願われていること」

2015年10月11日「神が私に願われていること」

【聖 書】ルカによる福音書5章12節~16節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】 そこには、全身が重い皮膚病に冒された、一人の人物がいました。重い皮膚病が、どれだけその人を苦しめてきたことでしょう。身体的な痛さとかゆみに耐えながら、この人は毎日の生活を歩んできたことでしょう。しかし、それだけではありませんでした。
 旧約聖書における律法の決まりでは、皮膚病を負った者を「汚れの対象」として見なしました。それはすなわち、この重い皮膚病を負った人が、社会的にも、経済的にも、普通に生きていくことが困難であったことを示しています。人間の健康を示す様々な要素(身体的・精神的・社会的側面)が、病によって奪われていたのです。
 そこに、イエスが現われます。そして、イエスに対して、この人物は、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(5:12)と、訴えます。この訴えは、彼の信仰の告白に他なりませんでした。主の御心、つまり、神の願われていることは、人間に苦痛を与えることではなく、生きる幸せを与えることである。その信仰告白は、さまざまな苦痛による経験に裏打ちされた、彼の訴えでした。
 その訴えをイエスは聞き入れ、彼の皮膚病を癒しました。しかし、ここでイエスは、重い皮膚病が癒された人に、大切なことを告げられました。それこそが、主の御心である、つまり、「神が私に願われていること」の真髄である、と言えます。それは何でしょうか?
 神は私たちに対して、生きる喜びを味わうことを願っておられます。それは紛れもない事実です。しかし、そのためには、大前提となることあります。それは、全てを幸福へと導いてくださる方は神であり、私たちは、神とともに生きる喜びを、感謝の心で応答する生活が営まれることこそ、主の御心である、ということを忘れてはいけません。
 イエスは、病が癒されたこの人に対して、律法の決まりに沿って、清めの儀式を行えと命じられました。それをすることなしに、病が癒されたことが独り歩きするべきではない、ということを警告されました。私たちにとって大切なのは、私たちを清くするのは主であるという一点のみです。この本質が重んじられなくなるならば、主の御心が私たちの中心に立つことはありません。
 私たちを健康にする大切な要素のひとつに「霊的側面」というものがあることを、私たちは心の柱としてまいりましょう。霊的とは、神とともに歩むことを可能とする、聖霊様のお働きによってです。聖霊様が私たちに注がれることに感謝する生活。これこそが、神の御心なのです。

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