私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年10月18日 「陰口の真相」

2015年10月18日 「陰口の真相」

【聖 書】ルカによる福音書5章17~26節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 説教題をつけるというのは、なかなか上手くいかない時があります。あることを説教のテーマにしようとして聖書を読み込んでいたら、そんなことよりももっと取り次がなければならないことに気づかされることがあります。しかし、タイトルが出た後ではすでに時遅し。そういう時は、冒頭で「スミマセン」とお断りしてから、神様の言葉をたっぷりと味わうようにします。
 神の言葉を、人間が取り扱おうという、実に恐れ多い行動をしているのですから、失敗があって当然なのだと思います。それを聖霊様が助け、導き、知恵や力を十分に注ぎながら、説教が神の言葉として変えられていく時、そのこと自体が感謝なことなのです。
 今回、「陰口の真相」より大切なこと。それは、「人よ、あなたの罪は赦された」(5章20節)の一言に尽きます。これは、長年中風で苦しんでいた人に対し、イエス様がお語りになられた言葉です。この一言に、私たちは「罪が赦される」とはどういうことか、さらに言えば、そもそも「罪」とは何か?というテーマについて、深く考えさせられることを体験できるのです。
 罪という言葉が日本語で表現されるときには、私たちは「一般的な犯罪」と切り離された、聖書が告げようとしている罪の本質について考える必要があります。「罪」と日本語に訳された新約聖書の言葉(ギリシャ語)は、「的外れ」という本来の意味があります。矢が的にあたらない。矢は人間であり、的は神様として考えることができます。つまり、人間が神様と手がつなげない。神様と共に歩めない。神様を必要としない人間の思いと生活が、聖書で言う「罪」の本質です。この本質が根底にあって、一般的犯罪に至ります。
 中風で苦しんでいた人が、イエス様を通して神様につながりたい。病が癒されることを通して、神の祝福を知りたい。それを望みたい。そう思うだけで、この人の罪が赦されたのは当然のことと言えます。つまり、神と共に歩む生活を望むだけで、罪の本質は解消され、解放されたのです。イエスは、神の御心の代弁者であり、この地上でそのことを公言する権威が与えられていたのです。
 大切なのは、行動先にありきではありません。私たちの神に向かう気持ちです。神様と手をつなぎたいと願えば、あとは聖霊様がそのことを支え、導き、祝してくださるのです。そして、罪が赦されるという幸福を、心から味わい、新しい人生を歩むことができるのです!

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