私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年12月6日 「自分の心を許してあげよう」

2015年12月6日 「自分の心を許してあげよう」

【聖 書】ルカによる福音書6章37節~42節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 人を裁きたくなる欲求。皆さんにはありませんか?
 私たちは、誰もが自分が正しいと思いたいと願います。そのために、自分と相容れない対象を見つければ、自分の持つ正しさという基準に照らし合わせて、人を判断し、時には人を裁くという行動へと、自分を駆り立てるのです。このような行動を、私たちは自分自身の問題として、どのように見つめることができるのでしょうか?
 まず、聖書には、裁きの主権者は誰であるかという、基本的な問いに私たちの注意を、イエス様は向けてくださいました。裁きの主権者は、間違いなく「神」ご自身である、ということです。イエス様は、裁きという言葉を、「罪」という言葉と重ね合わせながら語っておられることに私たちは注目しましょう。罪とは、神様と私たちの「関係概念」のゆがみを指します。つまり、裁きの主権者が神であるという基本的なルールは、私たちが「神様ならば、このことをどのようにお考えだろう」というイメージを高めるものになります。このイメージが、神様の思いや願い(御心とも言います)と近ければ近いほど、私たちは健全な裁きというものを考えることができるし、御心から離れれば離れるほど、私たちは、自分の正しさに従った、人への裁きを行うことになるでしょう。だから、自分自身のあり方というものを、私たちはじっくりと内観していきたいのです。
 そのうえで、イエス様は自分自身の目の中にある丸太を、取り除いてあげよう。そのように私たちに勧めます。私たちの目の前に、丸太が置かれたとしたら、私たちは何も見ることができません。何も見ることができないということは、自分自身の中だけで、物事を判断し、決定するということを意味します。そこには、神様が入るスペースなど存在しなくなります。この視野の狭さが、自分自身の世界が第一になってしまうということを意味するのです。そのような丸太を、私たちは誰でも自分の目に持っているのです。それは、自分自身のこだわり、傷、痛み、苦しさであったりもするのです。だから、自分の目から丸太を取り除くというのは、それすなわち、自分自身の中に凝り固まっているものを主の力によって解放されるということを意味します。それは、まず、自分の心を許してあげましょう。ここに、主の御心に参加し、共に生きるという思いが与えられるのです。

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