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2015年4月26日「肉なる者は共に見る 」

2015年4月26日「肉なる者は共に見る 」

【聖 書】イザヤ40章3~11節

【説 教】齋藤 朗子 牧師

【説教要旨】

 預言者イザヤは、バビロニアで捕虜として暮らすイスラエル人に神の愛と赦しのみ業が働き、そこに神のご栄光が輝き、それを「見た」民に喜びが回復することを預言しました。

 イスラエル人にとって、異国バビロニアとの戦に負けたこということは、①神に裁かれ罪人として罰せられ、祝福の象徴であった土地も神との関係も失われた②他国との戦いはヤーウェと他の神々との戦いでしたから、イスラエル人の神がバビロニアの神々に負けた、ということでした。バビロニアで暮らす間に、民の心は神から離れて「荒野」のようにすさんでゆきました。

 しかし、神はなおもイスラエル人を「わたしの民」と呼び、エルサレムに連れ戻されました。イスラエル人がエルサレムへ帰ることとは、つまり、神に罪を赦され、祝福され、神との関係が再び結ばれるということでした。イスラエル人は、捕囚から解放されてエルサレムに戻った時に、神に対して罪を犯し、土地を失い、神がどんなお方なのかすら忘れてしまった、神がわからなくなってしまった、そんな自分たちのことを、なおも「私の民」と呼んでくださる神の愛と、一度は失った祝福をもう一度与えてくださった神の赦しを深く経験したのです。神の深い愛と赦しのみ業を通して、神の栄光を共に見たのです。

 神様のご栄光を私たちが見る、ということは、つまり、私たちが、神の愛の業、赦しの恵みを目の当たりにする、経験する、ということに他なりません。そして、神の愛と赦しを経験すること、愛と赦しに心が慰められ、平安を取り戻し、晴れやかになること、これこそが、神が人間に与えて下さる最高の「喜び」です。

 神が「あなたは私のもの」「愛する」「赦す」「慰める」と語りかけたなら、その言葉は永遠です。この世のもので永遠のものなど何もありませんが、神様の御言葉と愛と赦しだけは永遠に変わらないのです。私たちは、愛と赦しという神の栄光を「見る」民とさせていただいているのです。

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