私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年4月5日「命の終わりは、命のはじめ」

2015年4月5日「命の終わりは、命のはじめ」

【聖 書】マルコによる福音書16章1節~8節
     コリントの信徒への手紙15章12節~19節・58節
【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要旨】
 イースター(キリストの復活祭)は、最近、ブームとなっていることを聞きました。クリスマスのように、ひとつのイベントとして、知名度が上がっているとのことです。キリストの復活を信じる者にとって、イースターが一人でも多くの方々に知っていただくのは、大変嬉しいことです。ただ、イースターは単なる教養や年間行事として知られる以上に、私たちの生活を根底から揺り動かす「生きる希望」そのものです。この希望が、キリスト教2000年の歴史を貫いて、信じられ、語られ続けてきました。
 主イエスの命のご復活は、聖書の最も重要なテーマのひとつです。しかし、死者が墓の中からよみがえるという話は、主イエスと共に生活を営んでいた人たちですら、受け入れがたい話であり、ありえない事でした。主イエスの弟子たちや支援者は、主イエスによって死者が復活したことを、事実として受け止めていたはずです。主イエスがご自身の言葉として、十字架で殺された後、3日後に復活することを3度も語られていたことを聞いていたはずです。にもかかわらず、弟子たちは主イエスのなさろうとする復活に対して、「恐れ」を示しました。この恐れは、人間が当たり前のものとして受け入れていた「死」に対する恐れに通じたのです。
 主イエスの御復活の朝、遺体をおさめた墓の扉石は開けられていました。遺体に塗油を施すために、墓を訪れた婦人たちはこの出来事に驚き、墓の中から語られる御使いの声に、おびえ、身震いし、もはや正気を失い、墓から逃げてしまったことを、福音書は伝えます。これが、復活を受容できない人間の姿であり、私たちが示すごく一般的な反応です。
 やがて復活の主イエスは、弟子たちをはじめとする人々にご自分の姿を現すことによって、主のご復活が人々の間に信じられた事実があります。しかし、なおも復活を信じることができない、私たちの姿が依然として残ります。死という現実に縛られている私たちは、キリストの復活は分かっていても、復活の意味する生きる希望が、私たちにも及ぶことになると信じることを拒もうとします。だからこそ、私たちはご復活を果たしてまで、私たちに迫られた主イエスの愛と憐れみを無駄にすることはできません。「命の終わり」は、そのままで終わることはありません。「命のはじめ」に結び合されていくのです。キリストの復活の力が、自分たちの現実を突き破って、新しい時代がスタートすることを信じる信仰、これこそが復活信仰であり、私たちの生きる希望です。
 主と結ばれていれば、つまり、復活信仰に生きるならば、苦労すら無駄ではなくなるのです。私たちの生活全体に、無駄と思えることから喜びへと私たちを動かし、共に生きてくださるキリストがおられることを喜び、新しい歴史の1ページを開いてまいりましょう。イースターおめでとうございます!

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