私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年6月14日 「伝統に縛られることなく」

2015年6月14日 「伝統に縛られることなく」

【聖 書】ルカによる福音書1章57~66節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 教会という場所が、ペンテコステの出来事から約2,000年の歴史を経て、現在に至っていることを振り返りましょう。そうすれば、私たちの信仰や教会のスタイルもまた、教会の歴史が織り成してきた「伝統」に支えられていることに、私たちは気付けるでしょう。私たちはキリスト教初期における、人々の信仰(初代教会の信仰)に帰ることによって、信仰の本質を知る助けとなるでしょう。しかし、1世紀から21世紀にいきなりジャンプするような信仰は、大変危険でもあります。それは、教会を保ち続けてきた聖霊さまの導きや存在をも、否定することになるからです。私たちにとって、歴史や伝統というものは、自分たちの今を支える、大変重要な要素と言えます。
 しかし、いわゆる「本質」を忘れて、歴史や伝統だけに固執することは、もっと危険な要素をはらんでいることに、私たちはさらなる注意を向けたいと思います。ここで言う本質とは、私たちの神さまが、私たちに何を思い、何を願われ、何を期待しておられるか、ということです。つまり、私たちは、神さまの思い願いを、自分たちの願望に勝って第一にするからこそ、ことに教会の歴史や伝統というものが活かされていくことに、私たちの関心を傾けてまいりたいと思います。本質の欠いた歴史や伝統を遵守することは、見た目には重厚で、すばらしいものに感じたとしても、中味の無い、形骸化した、空っぽの状態をさらけ出すことになります。まさに「枯れた教会」のモデルケースと言えるでしょう。
 洗礼者ヨハネが誕生したときに、周囲の人々は、父となった祭司ザカリアの跡を継ぐ者となることへの期待があったことでしょう。だから、その子の名前を、父親と同じく「ザカリア」と名付けようとします。しかし、両親となったザカリアとエリサベトの願いは、周囲の期待をよそに、神が与えた「ヨハネ」という名を、赤子に名づけようとするのです。もちろん反対がありました「前代未聞である」「今までそういった実例がない」などなど。当然です。彼らは本当に大切なことを、大切にしようとしたからです。これまでの慣習よりも、神の願いを中心に置くことこそ、彼らにとっての関心であり、大切にしなければならなかったことだったのです。
 私たちもまた、ザカリアとエリサベトの示した信仰にならう者となりましょう。命あふれる教会が建てられるために、私たちは、伝統に代表される、自分のこだわりと格闘しなければならないのです。その縛りから解放されたときに、私たちはザカリアと同様に、心からの賛美を味わい、楽しむことが可能となるのです!

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