私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年6月21日 「陰の立役者、ここにあり」

2015年6月21日 「陰の立役者、ここにあり」

【聖 書】ルカによる福音書1章67~80節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 こどもが与えられた父の喜びは、格別なものです。こどもを慈しむ父親を覚える行事として、アメリカのメソジスト教会から始まった「父の日」も、約100年の歴史を歩んでおりますが、私たちが「父親」を思うとき、そこには、文字通りの父親と、全世界、全時代の父である、私たちの神様を知る、大切な機会となるのではないか。そう思えてならないのです。
 人生の終わりの時期を迎えていた、祭司ザカリアが改めて「父親」となったときの心境を思います。父親として、わが子と過ごす時間が限られている中で、思い存分の愛情を注ぎたい。そう思うのが自然なことです。その深い愛情をザカリアが抱こうとするときに、おそらく彼は気付いたことでしょう。この父親の愛こそ、父なる神が自分自身に注ぎ続けていた「愛」であったのです。
 その気づきが、そのまま、彼の賛美に表れます。「ザカリアの賛歌(ラテン語でベネディクトゥス)」は、後代の教会が礼拝賛美として、大切に歌い続けてきたものですが、その賛美には、父親となったザカリアが、自分自身の父親でもある神様に対して、イスラエル国民の歴史を通じて、不変の愛を注ぎ続けてくださったことに感謝の思いが込められています。それどころか、救い主の誕生を神からの言葉として預かり、預言の言葉として歌いました。父なる神様の愛は、私たちの一人ひとりのために、救い主を与えるほどまでに、究極のものであったことを、私たちは忘れてはならないのです。
 そしてザカリアは、救い主が与えられるに先立って、その道を整え、人々を救い主に向けさせるための準備をするために、わが子が神様によって与えられたということを賛美します。暗闇に光を投じる役割を、後に「洗礼者ヨハネ」となるこの赤子が担うことになるのです。決して目立たない。しかし、キリストを引き立たせるために、ザカリアも、洗礼者ヨハネもまた、「陰の立役者」としての務めを果たすのです。キリストの栄光が輝くために、私たちもまた、それぞれの立場で用いられることに、感謝いたしましょう!そこに、キリストと共に歩む喜びが生まれるのですから。

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