私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年8月30日 「聖霊と火」

2015年8月30日 「聖霊と火」

【聖 書】ルカによる福音書3章15節~20節

【説 教】齋藤 朗子 牧師

【説教要旨】

 「裁きについて語られる御言葉を読むと、自分の救いについて不安になる」という話をしばしば耳にいたします。洗礼者ヨハネは「火」という言葉を用いて「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(9節)「殻を消えることのない火で焼き払われる」(17節)と、終末的裁きの厳しさを伝えました。しかし、洗礼者ヨハネが語った裁きは、横暴な権力者たちから不当な苦しみを受けてきたイスラエルの民への福音であり、悪を滅ぼし善政をしくメシアを民は切望していました。このメシアを迎える準備として、罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼を受けた民衆はヨハネこそがメシアではないかと考えましたが、ヨハネはそれを否定し、自分とは比べようもない「優れた方」が来られること、そして、その方は「聖霊と火」で洗礼を授けられることを預言しました。ヨハネは、自分が民衆に授けた洗礼と、来たるべきメシアによる洗礼が別のものであることを知っていたことになります。

 現在、私たちが授かる洗礼は、信仰を持って悔い改めた者が罪を赦され義とされて「キリストのもの」となった神の恵みのしるしであり、洗礼を授かると「父と子から出る聖霊」が与えられます。ですから、ヨハネの洗礼と教会での洗礼は同じではありません。ただし、「悔い改め」は私たちにとっても洗礼を受けるための大前提ですから、「優れた方(メシア)」の名による洗礼はヨハネの洗礼とは「全くの別物」ではなく、むしろ「より優れた洗礼」だと言えます。
 
 ヨハネ自身は「聖霊と火」による洗礼がいかなるものか具体的には語らず、「火」という言葉は裁きを象徴するに留まっています。しかし、私たちにとって洗礼は「火」のように燃える神の愛によって神の子とされたしるしです。聖霊が私たちを支え導いて下さっています。ですから、いたずらに裁きの「火」を恐れず、赦された確信と喜びを持って過ごしましょう。「罪人であれ、そして大胆に罪を犯せ。しかし、罪と死に勝利したキリストをさらに大胆に信じ、喜べ・・・我々が我々である限り、罪は犯されるに違いない(が)・・・雄々しく祈れ、君は断固たる罪人なのだから。」(マルティン・ルター)

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