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2015年8月9日 「本当の父親は何処に」

2015年8月9日 「本当の父親は何処に?」

【聖 書】ルカによる福音書2章41~52節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 主イエスの生涯について収録された福音書の中でも、少年時代について言及されているのは、ただ一か所、ルカによる福音書2章41節~52節だけです。そこで語られているエピソードとは、イエスが12歳の時に、両親と共にエルサレム神殿を訪問した際に起きた出来事であり、少年イエスが両親の帰路に伴わないで神殿に残り、教師たちと問答していたというものです。のちに救い主となるイエスならではの出来事とも言えますが、聖書の物語は、少年イエスと母親マリアのやりとりを中心に記述しています。
 母親の息子に対する思いは、至極真っ当なものでありました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです(2:48)」と、マリアはイエスに告げます。探し当てるのに数十キロと歩き回り、3日間かけてイエスにたどり着いた親の気持ちとしては、当然出る言葉でしょう。
 しかし、息子であるイエスの反応は、意外なものでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか(2:49)」と、イエスはマリアに答えました。親の心配など意にも介さないように見える、少年イエスの言葉に、意外性を感じる方も、少なくないと思います。
 私たちは、特に信仰者として読むときに、すでにこの時に神の子としての啓示を受けていた少年イエスだからこそ、神が自分の父と認識していたゆえの回答では?と思われるかもしれません。それも一理あるかもしれません。しかし、それ以上に語らなければならないのは、イエスの賢人的な一面や、神秘的な一面ではなく、「父と子の関係性」であり、それは、私たち一人ひとりにも十分にあてはまる、ということなのです。
 ヨセフとマリアという両親が、現実的に少年イエスに向けられた心配がありました。この現実的な心配事は、日々の生活に生じるあらゆる心配に共通するものです。私たちもまた、心配し、案ずることはしばしば起こりうることです。しかし、私たちは父なる神の家に守られている者なのです。主イエスが、両親に語られた言葉には、人が神の家にいる以上、つまり神とつながっている以上、思い煩うことは無いということを、人ひとりひとりに示されているのです。
 この父と子の関係性に、私たちもまた、それを喜び、また受け取るものでありたいと願います。バプテスマや聖餐の出来事とは、まさに、そのような喜びと関係性を思い起こす、大切な機会です。これらの出来事も、是非大切にし続けることにいたしましょう。

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