私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年9月6日 「神の子孫」

2015年9月6日 「神の子孫」

【聖 書】ルカによる福音書3章21節~38節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 福音書記者のルカは、イエス・キリストの物語を正しく伝えるために、「歴史」の視点から福音書を記しました。イエス・キリストに至る歴史を語るうえで、イエスという人物がどのような系譜をたどるかについて、系図のかたちを通して記すことは、大変重要であったと言えるでしょう。
 しかし、ルカは単に歴史を伝えたいという意図だけで、この福音書を書き記した訳ではありませんでした。ルカが真に伝えたかったのは、私たちへの救いの歴史は、神の介入なしにはあり得ないという事実を明確にすることでした。そのルカの思いは、系譜の祖に「そして神に至る(3:38)」という言葉で締めくくることにより、神を中心に立てて、私たち人間社会を示そうとしたのです。
 さて、イエスから神に至る系図の前には、イエスがバプテスマをお受けになられた記事が掲載されています。一見すると、イエスのバプテスマと系図は関係ない記述に見えるかもしれません。しかし、この2つの記述は、抜き差しならぬつながりがあることを、私たちは神の言葉として受け取るのです。
 それまで、洗礼者ヨハネによってイスラエル人に授けられたバプテスマは、「罪の悔い改めと赦し」のしるしとして宣べ伝えられ、実行されたものでした。ここには、イスラエル人は「神を必要としない」という罪を負った民であることを前提に、バプテスマの意味付けがなされたのです。
 しかし、イエスの受けたバプテスマは、バプテスマの与える前述の意味に、新たな意味づけを加えました。それは、①聖霊様が降るという事実、②神により「わたしの子、私の心に適う者」という神の宣言と保証が、バプテスマによって明らかにされるということでした。
 イスラエル人が回心をし、神と共に歩む人生を営もうとした際、それは「神が共にいてくださる」という信仰に基づいてなされるのは、自明のことでした。そして、神がともなってくださるという保証は、聖霊様の注ぎと、バプテスマを受けた私たちを含む民を「わが子」としてくださる、神の深い愛情によるものであることを、私たちは安心と感謝のうちに受け取ることができるのです。
 私たちは、神に至る自分の系譜を持っています。それすなわち、私たちが神の子であるということを疑わない根拠があるということなのです。その神に、私たちは従い、共に歩むものとして召し出されて、バプテスマを受けたのです。この原体験に常に帰る者であるのです。

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