私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年1月17日 「ゴメンナサイと言えない世界」

2016年1月17日 「ゴメンナサイと言えない世界」

【聖 書】ルカによる福音書7章18節~35節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 私たち日本人は、「ゴメンナサイ」という言葉を多用する人々であると、しばしば言われることがあります。私も欧州で生活をして実感したことは、ゴメンナサイという謝罪の言葉は非常に重々しいものである、ということでした。ある方から、「日本人は人に向き、欧米人は神に向く」ということを聞いたことがあります。これは明らかに文化の違いであると言えるのですが、キリスト教文化が根付いた欧米社会において、人に謝罪する前に、まず神に謝罪するというのです。とても興味深いことと言えます。 
 洗礼(バプテスマ)という出来事を行うようになった、洗礼者ヨハネの目的は一体何だったでしょうか?「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼(ルカ3:3)」とあります。私たちの生活における、あらゆる「ゆがみ」は、神との関係性のゆがみであると聖書はとらえています。人間は神の下に生かされ、神との揺るぎないつながりをもって、平和に生きることができるというのが、聖書の基本的な考えです。しかし、旧約時代の預言者であるイザヤが言葉を取り次いだように、主への道がまっすぐに築かれず、谷があり、様々な障害があり、歩きにくいというのが、神と私たちの現実の関係であると言うのです。このゆがみを矯正するために、洗礼者ヨハネが用いられて、洗礼が行われるようになったのです。
 そして、神と人間のゆがみが正された時に、救い主を迎えるための整えがなされました。今や、イエスという御方が、関係性の回復へと動き始めています。では、この動きに私たちが「気づく」ことができるか?ということなのです。イエス様の言葉は、人間がいくら証拠を見せられても、それを認めることができない人間のかたくなさについて触れられています。まさに「笛を吹いても踊らない(7:32) 」のです。それどころか、自分にとって受け入れられないことがあれば、いとも簡単に、認められない対象を攻撃します。ここまでくると、人間の心は柔らかくさせられることがありません。救いや平和のチャンスを目の前にして、何と残念なことでしょう!
 だからこそ、私たちは「神の正しさ(7:29)」によって生きるのです。私たちが日々を生きるための知恵となることを、私たちはアンテナを確かなものとして、心を柔らかくして歩みましょう。主の道を歩むということは、本当に豊かなものなのです。


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