私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年1月31日 「女子ーズ」

2016年1月31日 「女子ーズ」

【聖 書】ルカによる福音書8章1~3節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要旨】

私たちは、「性別(男性であること・女性であること)」によって、「常識」と思っていることが意外に多くあることに気づかされます。現代では、社会的・文化的に作り上げられてきた性について考える時に、「ジェンダー」という言葉が用いられるようになりました。その背景には、私たちが考えるジェンダーというものは、しばしば「女性」の存在が、男性に劣るものとして人々の眼に映ってきた歴史があったからとも言えるでしょう。男女同権が叫ばれるようになったこの世の中ですから、歴史が生んだ「ゆがみ」についての関心度は、ますます高まっていると言えます。
主イエスの時代、つまり今から2000年前のユダヤ地方において、女性の存在は現代のそれとは、かなり違いのあるものでした。簡単に言えば「男尊女卑」の世界でした。女性は男性のパートナー(どちらも欠かせない存在)として創造されたにもかかわらず、罪の根源を作った者であり、モーセ律法においては「けがれた者」として、女性の社会的地位が形成されてきました。罪深い者と言われた一人の女性が、イエス様に最高のもてなしをしたのに、周囲の人々にその出来事が評価されることはありませんでした。女性だからと見下げられる風潮がありました。
主イエスの思い、もとより神の思いは、男性と女性の間における差別の根拠は何ひとつ存在しません。神の眼から見れば、女性であろうと男性であろうと、人間は愛された被造物です。ルカ福音書の執筆者であるルカが、主イエスの宣教の働きに、多くの女性の存在を描き出そうとしたのは、まさに、神の視点に基づくものであったのです。それらの多くの女性たちが「悪霊を追い出され、癒された者」であったことも、大変興味深い記述です。つまり、自分自身を縛り付けるさまざまなしがらみから解放されて、一人の人間として神と共に歩む者とさせられたのです。
ルカによる記述は、当時の世の中では画期的なものでした。女性の活躍が描かれているからです。しかし、これこそが、主イエスが宣べ伝えた「神の国」の価値観であり、文化なのです。この価値観と文化を、教会はこの世の中の常識と一線を画すものとして愛し、それを実践するよう主は私たちを促します。聖書に基づいてこの価値観を私たちが実践する時、はじめて「キリストの愛が満ち、福音宣教に生きる教会」として祝福されるのを実感できるでしょう!



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