私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年11月13日 「愛を受け取る」

2016年11月13日 「愛を受け取る」

【聖 書】ルカによる福音書15章11~32節

【説 教】齋藤 朗子牧師

【説教要約】
「放蕩息子のたとえ」に登場する兄と弟は、それぞれ、父親との関係性や人格形成面において歪みが生じています。

まず「兄」は、父親という権威の前で委縮し、従順ではあるものの、父から愛されていないと感じており、父に対して素直に愛情や「こうして欲しい」と思っていることを求められないため、父親に対して不信感や不満を募らせています。それに対して「弟」は、父親が権威であることは認めていながら、その権威に抑圧されていると感じ、自由と自立を求めています。兄と違って弟は権威を恐れてはいないので、自分の望み(財産の生前贈与)を堂々と要求することができます。

この2人は、生まれたままの自然な状態の人間の姿を現しています。人間は父なる神(このたとえ話の『父親』)に創造され、命が与えられています。その意味では、人間は生まれた時から父なる神の子供です。しかし、キリストへの信仰を通して父なる神と和解し、神と愛に溢れた信頼関係を結ばないならば、誤った父なる神像を抱き続け、それに対して恐怖を抱いたり、軽んじたりするのです。そして、この「誤った神像」は、自分の人格形成や生き方にも悪影響を及ぼします。

父なる神は、人間の主体性、自主性を尊重するお方です。そのため、息子が父親からの自由と自立を求めて旅立つのを止めません。その変わり、神はこの放蕩息子が、いつか自分の罪に気付き、自分のもとに帰ってくるのをひたすらに待ち続けます。片時も眠らずに、四方に目を配って息子の姿を探し求めながら待っていてくださるのです。

やがて、神からの自由と自立を目指した生活に行き詰まり、自らの罪に気が付いて戻ってきた弟を、父は当たり前のように赦し、その上、かつて彼が息子として当然のように暮らしてきたとき以上の恵みと慰めを与え、帰還を祝いました。弟は父から「ただ生きるため」以上の良きものと、新しい人生を与えられました。これが私たちの「父」、愛の神なのです。

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