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2016年2月14日 「元気があれば何でもできる?」

2016年2月14日 「元気があれば何でもできる?」



【聖 書】ルカによる福音書8章16~20節


【説 教】齋藤 篤牧師


【説教要旨】


元気があれば何でもできる。伝説のプロレスラーであり、現・国会議員のアントニオ猪木氏の言葉です。おそらく猪木さんは、この言葉を人生訓にして歩んでおられるのだと思います。そして、私たちもまた「元気」が欲しいと、誰もが願っているのではないでしょうか?元気があれば、私たちは文字通り、何でもできると思っている節がどこかにあります。この言葉を胸にして、元気に生きようとも思うでしょう。しかし、元気に生きたい希望と、自分の身を取り囲む現実が知らぬうちに随分かけ離れていることは、私たちの生活の中でいくらでもあることですし、希望と現実のズレに気づかないことすら、私たちの間ではあるのです。それは、私たちの心の内にある「思い込み」や「固定観念」というものが、そうさせてしまうのです。
 イエス様の語られたたとえ話に注目しましょう。イエス様がたとえ話を用いて語られたのは、父なる神のもつ「価値観」でした。その価値観は神の世界、つまり「神の国」の価値観でした。この価値観を、理解できる人は意味を悟り、耳と心を澄まさなければ理解することすらできないとして、イエス様はたとえ話を語られました。イエス様は、灯火を器で覆い隠したり、ベッドの下に置いて目立たなくさせることは絶対しないという「生活上の常識」を引き合いに出して、灯火という神の言葉に秘められた価値観というものを、「どのように」聞くことができるか、という問いを人々に示されました。
 では、私たちは、この言葉を「どのように」聞くことができるでしょうか?もし、このたとえ話を「当たり前の話、常識の話」として聞くならば、そこから先、このたとえ話を噛みしめることはないでしょう。つまり、当たり前であるとか、常識という言葉は、それを受け入れようとする私たちの心が「思考停止」になることを示しています。大切なのは、私たちが常識と思える言葉を、本当に常識通りに生きているだろうか?という問いかけをし続けるということです。そのために、私たちは「聞き方」に注意するのです。何べん聞いた話でも、初めて聞くような思いで、神の言葉に耳と心を傾け続けることが、神の価値観の中で生きるために、無くてはならない作業なのです。レント(受難節)とは、その作業を通して、自分自身を整える期節です。十字架と復活の喜びを心から味わうために。

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