私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年3月20日 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

2016年3月20日 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

【聖 書】ルカによる福音書27章32節~50節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要旨】

 神を信じる人生を終え、神の御許で安らうことを望んだ多くの先達たちを前に、私たちは集い、礼拝のひと時を過ごしています。私たちが愛する者、そして人間が必ず経験することになる「死」を想いに抱くとき、私たちはどのようなことを考えるでしょうか。どんなに天寿を全うしたとしても、多くの人たちに看取られて生涯を終えたとしても、命終える者は死をどこかで恐れ、それを見守る者たちも、愛する者との別れに悲しみを抱くのは極めて自然なことなのです。どんなに文明が発達したとしても、死に対する私たち人間の基本的なイメージは「分かたれること・引き裂かれること」の一言であるともいえるでしょう。
 イエスが十字架につけられ、釘打たれて、血を流すという痛みと苦しみは、まさにこの世の中との「引き裂かれた状態」に他ならないでしょう。人々からあざけられる姿は、まさに孤独を象徴する出来事であったに違いありません。そのような中で、イエスは死の直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びます。「私のお父さん、私のお父さん、どうしてこの私をお見捨てになられるのですか!」という叫びは、まさに神にも見放されたような状況を物語るものでした。イエスは孤独の中に御自身の身を置かれたのでした。
 しかし、このイエスの叫びは自分自身の孤独を嘆いて語ったものではなかったのです。十字架上でイエスが苦しんだ経験は、人間が長い歴史の中で神との隔絶を経験したゆえの痛み苦しみそのものであり、イエスは十字架でその歴史を代弁した。この世の中のゆがみをもとの状態へと戻すことを、ご自分の命をもって代理されたのです。人間の痛み苦しみ、悲しみや嘆きという叫びとゆがみは、イエスの経験された孤独をもってすべて終えようとしています。
 同じく十字架に掛けられた犯罪者が、イエスをののしります。お前が救い主ならば救ってみせろと。しかし、ほかの聖書箇所では一方の犯罪者はイエスに救いの望みを託します。その時にイエスが語られた言葉は、「あなたは今、私とともに楽園にいる」というものでした(ルカ23:43)。神によって創られた永遠の命が楽しめる場所こそが楽園であったと考えるならば、死の直前にイエスが語られた楽園とは、苦しみの極みにあっても、なおも希望があることを約束する言葉であったに他なりません。イエスは決して孤独などではなかったのです。神が与えた希望から決して引き裂かれることなどなかったのです。この希望こそが復活の喜び、イースターを祝う最大の理由なのです。

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