私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年3月27日 「最高のプレゼント」

2016年3月27日 「最高のプレゼント」

【聖 書】コリント人への手紙15章3~6節、19節

【説 教】田代孝一スタッフ

【説教要旨】
私たち人間は、根本的に疑い深い性質をもっています。
イエス様が復活されて、弟子たちにその姿を現された時も、その場にいなかった弟子のトマスは、『私は、イエス様の手にくぎあとを見、その脇腹にあるやりのさしあとに手を差し入れてみなければ、決して信じない』と言いました。しかし、これはトマスだけのことではありません。これが私たち人間の実態でもあります。
このような私たちに、聖書はどのように問いかけているでしょうか。へブル人への手紙11章1節に、次のように記されています。『さて信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである』と。私たち信仰者にとって、この御言葉は日々に問われることです。
「ちいろば先生」として三浦綾子さんの小説に取り上げられ、世に知られるようになられた榎本保郎牧師の「旧約聖書一日一章」の著書の中に、このような言葉があります。「聖書を語るためのもの、学ぶためのものとしてはならない。それは聖書の非聖書化である。それではどんなに聖書を深く研究しても、所詮聖書読みの聖書知らずである。聖書の素晴らしさは、その内容にあるのではない。聖書の素晴らしさは、神がともに働いて、その確かなことをお示しになるところにある」と。なんと含蓄に富んだ言葉でしょうか。私たちの信仰は、聖書の御言葉に従う時、その確かなことを知らされるのです。これは牧師だからできる、信仰生活が長いからできるというたぐいのものではありません。どんな人であっても、御言葉に聞き従うならば、神はその確かなことを示してくださるということです。
本日のイースター記念礼拝は、私たちにとって最も喜ばしい時です。イエス様の復活の事実を、本日の聖書の箇所で次のように記しています。『ケパに現れ、次に、12人に現れたことである。そののち、500人以上の兄弟たちに同時に現れた。・・・そののちヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば月足らずに生まれたような私にも現れたのである』(5~8節)とパウロは記しています。神の教会の迫害者であり、敵対者であったパウロにとって、復活されたイエス様との出会いは何事にも代えがたい恵みであり体験でした。死人の復活などないという人々に対して、パウロは、『もし私たちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、私たちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる』(19節)と記し、イエス・キリストの復活が単なる望みではなく、事実であることをくり返し伝えました。
『よみがえった』という言葉は、ギリシャ語で受動態現在完了形を表すということです。それは、イエス様のよみがえりの事実は、一回的な歴史的事実だけではなく、その事実は現在に至っているということです。
私たちは毎日重い荷物をかかえて生きています。あきらめきれずに悩み苦しみ、目の前にある問題を乗り越えられず、いつも敗北感を味わっています。時には自分の無力さに打ちひしがれて、もうこんな人生やめてしまおうとさえ思うこともあります。しかし、主なる神はその重く大きな石を取りのけ、死という絶望の中からイエス様をよみがえらせ、今も私たちとともに生き動き働いてくださっているのです。
このイースターの時、イエス様の復活という最高のプレゼントが与えられたことに深く感謝し、もうひとたび主の御言葉に従って、イエス様とともに力強く新しい一歩を踏み出しましょう。

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