私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年4月3日 「下着、少なすぎませんか?」

2016年4月3日 「下着、少なすぎませんか?」

【聖 書】ルカによる福音書9章1節~9節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教用要旨】

 主イエスは、ご自分の働きを弟子たちに具体的に授けられました。イエスは権威ある者として宣教しつつも、それを独占・集中はなさいませんでした。弟子たちをロボットのようにこき使うのではなく、弟子たちにご自身と同様の納涼句を与えられました。弟子たち一人ひとりに対して深い信頼を抱き、ご自分の仕事を惜しみなく託しました。弟子たちのそれぞれは、主イエスに十分に信頼されていたのです。 
 しかし、そのような信頼を受けて仕事を託されたとしても、最初からその務めを100%の自信をもって果たせるなどということは、まずありえないでしょう。緊張もしますし失敗しないかと心配もするでしょう。だから、あれこれと備えをします。弟子たちにイエスから求められていたのは、宣教旅行です。私たちが旅行をする際に、持ち物をいろいろと準備し、いざという時に自分の身を守るべく動くのと同様に、おそらく弟子たちも、自分の持ち物に関心を向けたに違いないのです。
 しかし、主イエスの弟子たちに対する指示は、とても意外なものでした。財布も袋も何も持ってはならない。そして、下着も2枚は持ってはならない、と弟子たちに主イエスはお命じになられます。下着2枚ですら少ないのでは、と思われる方は少なくないでしょう。ある意味最低限の携行品です。しかし、それをも差し止めようとする主イエスの意図はどこにあったのでしょうか?
 当時のイスラエルは、旅人をもてなし、必要な物を施すという基本的な生活習慣がありました。宣教する弟子たちが、そのようなもてなしや施しを受けることは、何も持たないで旅する根拠と十分になりえたでしょう。しかし、全ての人たちが彼らを歓迎してもてなすわけではありません。場合によっては、神の国の宣教を拒んで弟子たちをぞんざいに扱うことだって十分に予想できるのです。
 ここで、主イエスが弟子たちに語られた「何も持たない」ことへの理由が明らかにされます。それは、神がこの世に対して願われておられる「御心」のためにならば、神の御心に参加しようとする人々の必要は、全て備えてくださるのだという確信を、主イエスはご自分の力を授けることによって、弟子たち一人ひとりの心に注がれようとしたのです。私たちの不安を乗り越えてくださるのは、ただ神の力と助けによってのみであることを、弟子たちは心に刻み込んで、宣教者として歩むことができたのです。

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional