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2016年5月8日 「偉くなりたい感情」

2016年5月8日 「偉くなりたい感情」

【聖 書】ルカによる福音書9章46節~48節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要旨】

 主イエスはご自分の将来について、徐々に核心を語り始めていた時、弟子たちの関心は「自分たちの中で、誰が一番偉いか?」というものでした。これは、イエスが弟子たちに語っていた意図を全くと言ってよいほど理解していないものでした。
 ここで、弟子たちは「偉い・偉くない」という上下の視点から人間関係を定めようとしていました。この考えは、私たちの生きる社会では当たり前のように受け止められているものです。その考えが何の疑いもなく、弟子たちの間にもあるということなのです。しかし、それは神の望まれていることかと言えば、決してそうではありません。
 「偉い」と日本語に訳されている原語は「メガ」というものです。ただ大きいだけではなく、特別に大きいという意味です。弟子たちの心の中は、主によって同等の存在として選ばれた中で、自分をさらに大きくみせようとする、自己顕示欲のようなものがはびこっているのです。
 主イエスは、そのような弟子たちに向かって、子どもを引き合いに出されて語られました。子どもの存在は、当時の社会では数えてももらえない存在でした。取るに足らない、風で簡単に吹き飛んでしまうような子どもに対する見方に、新しい視座を加えたのが主イエスだったのです。「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(48節)
 ここで語られている「小さい」は、「ミクロ」という言葉が使われています。ただ小さいだけではなく、特別に小さいという意味です。つまり、特別に大きく見せたい弟子たちに対して、特別に小さくされた者に与えられる神の祝福を、イエスは語ろうとされたのです。
 私たちが自分の限界以上に大きく見せる必要はひとつもないのです。小さいことを誇るのです。そこに神の力が働かれるからこそ、私たちは大きくされるのです。主イエスは最も小さくされたところから、十字架の贖い主になられ、主の恵みによって偉大なる復活の主にさせられました。このモデルを私たちは聖書を通して与えられました。自分自身に過信するのではなく、主の力が私たちを活かすのですから。

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