私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年6月19日 「聖霊を観る眼力(めぢから)」

2016年6月19日 「聖霊を観る眼力(めぢから)」

【聖 書】ルカによる福音書10章21~24節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要旨】
 神様の救いを信じてバプテスマを受けたとき、水の冷たさとともに、聖霊様の熱さを感じて感動したことを思い出されることでしょう。その新鮮な体験は、私たちの信仰者としての人生の原点と言える出来事です。
 しかし、私たちは信仰者として意気揚々に船出をしていても、時に嵐に遭って難破する経験をもったり、綱を降ろしても魚が全く捕れない虚しさを感じたのではないのでしょうか。バプテスマを受けた時のあの感動が薄れ、どこかに飛び去ってしまったかのような感覚を、私たちは抱くのです。
 イエス様によって宣教の場に遣わされた72人の弟子たちは、主の御名と権威によって悪霊を追い出す力が与えられました。それは、宣教する力の源です。しかし、イエス様が弟子たちに対して言われたことは、決して揺らぐことのない「救いの出来事」が自分たちに与えられているがゆえに喜びなさい、というものでした。
 これは、私たちの人生と重なる言葉なのです。私たちは順風満帆な時はいくらでもでも喜べます。賛美もできれば進んで奉仕もできます。しかし、私たちは時には、真逆の反応をもって、神がいることが分かっていても自分の生活や有り様に喜べないことがいくらでも存在します。その時に、私たちはつぶやきます。喜べない、と。
 イエス様が言われたこと、つまり私たちが神様と共に歩む喜びを味わう根拠とは、聖霊様が私たちを満たし、その満たしが喜びへと変えられていくという一点にありました。聖霊様はすでに私たちに十分に、いつも注がれています。しかし、私たちは聖霊様を観る眼力がいつも十分であるとは言えません。十分な時もあるでしょう。それは、神様の御業を観させてもらった時です。
 神様の御業には聖霊様の導きがともないます。私たちは神様のお働きを通して聖霊様の働きを観ることができ、その経験が積み重ねられていくならば、より豊かな喜びを、主と共に味わうことができるのです。聖霊様がすでに来られている。それを皆さんはすでに来られている。それを皆さんはすでに受け取っているのです。


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