私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2017年1月15日 「本性を観る」 (第Ⅰ・第Ⅲ礼拝)

2017年1月15日 「本性を観る」(第1・第3礼拝)

【聖 書】ルカによる福音書16章14-31節
【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要約】
神と富とに仕えることはできない。主イエスは、律法をきちんと守り抜くことを自分たちの誇りにしていたファリサイ人たちに対して、そのような一言を語られました。それに対するファリサイ人たちの反応というものは、非常に冷ややかであり、主イエスをあざ笑う姿があったのです。

なぜにファリサイ人たちはそのような反応を示したのでしょうか。彼らは律法の実践家であることを自負していましたから、富と並べて神に仕えることができない姿など、到底想像できるものではなかったのです。しかし、彼らの実際の姿は「金銭に執着する」と語られています。執着する。つまり取って離せないほど彼らにとって富は愛すべきものでした。ですから、主イエスの指摘は、彼らにとっては実は本質を突いたものだったのです。

主イエスは続いて「神は心をご覧になられる方」であることを告げられました。私たち人間は自分自身の心の内を人に知られることなく、日々を生きることが可能です。つまり行いが自分の真の姿を隠す、虎の張り子のような役割を果たします。しかし、人に対してはそのように振る舞えたとしても、神の御前にはそのことは通用しません。私たちの心をご覧になられる方であられる神は、誰からも理解されない私たちの心を正当に評価なさる方なのです。

それは逆もしかりで、私たちのうわべだけでは判断せず、奥底にある思いを引き出して、そこに神の御心を照らし合わせる機会を与え続けるのも神の私たちに対する行いであるのです。

金持ちとラザロのたとえ話は、ラザロという経済的に貧しく不自由な生活を強いられていた人を目の前にしても、彼に施すことをせずに豪遊の限りを尽くしていたラザロの本性にスポットを当てています。彼が律法の本質を分かっていたのであれば、おそらく律法の定めるところに従って、目の前にいるラザロに施しを行い、彼が幸せになるための手助けをしたことでしょう。私たちもまた心を見つめることが大切なのです。

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