私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2017年6月4日「人生の師」

2017年6月4日「人生の師」

【聖 書】使徒言行録7章54~60節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
本日は、キリスト教の3大祭りの一つであるペンテコステの日を迎えました。
クリスマス、イースターに比べて、日本では馴染みが薄い祭りです。日本語では「聖霊降臨日」と訳されています。これはイエス様が天に昇って行かれる時に「あなたがたに助け主としての聖霊を与える」と約束されたことが成就した日です。私は今年もこの大切な日を迎えるにあたり、この日のことを、ひとり祈り想いめぐらしていた時、一人の人物のことが頭に浮かんできました。それが本日の聖書の箇所に登場しますステパノという人物です。ステパノの生涯はイエス様と同じく30数年間の短い歩みでしたが、その歩みは、まさしくペンテコステの働きを体現するものでした。
  ステパノは聖書の記述によりますと、12使徒のような特別な存在ではなく、一般のごく普通の信徒の一人でした。当時、キリスト信者が増えてくるにつれて、群れの世話をする役割を担う人が必要になり、ステパノもそのひとりとして群れの中から選ばれました。この時、12使徒たちは、その選考の基準の第一として、「聖霊に満たされた人」をあげました。お世話役なのに、なぜ「評判の良い人」を最初にあげなかったのでしょうか?それは彼ら自身が、聖霊様によって、その性質が大きく変えられ、使徒としての働きが出来るようになったことを体験していたからです。ペンテコステは聖霊について神学的に論争したり、聖霊様の働きについて単に学び合うだけのものではありません。具体的、実際的に聖霊様そのものを体験し、その働きを実践する時です。
 ステパノはいつも聖霊に満たされ、その顔はちょうど天使のようであったと記されています。彼は議会にひっぱり出され、弁明をしなければならなくなった時、多くの群衆の前で、権威の象徴である大祭司からの質問に対して、旧約聖書に記されているアブラハムから始まって、イエス様による救いに至るまでの道を、確かなイスラエルの歴史観に基づいて、理路整然と説き明かしました。それは、まさに一信徒がなせる業ではありませんでした。聖霊様の助けによってしかできない業でした。これを聞いた議会の役人や群衆の怒りは頂点に達し、その思いは「はらわたが煮えたぎるほどであった」と記されています。理性を失った人間が取る行動の多くは、暴力と抹殺です。彼らの思いは一気に爆発し、ステパノを街の外に引きずりだし、よってたかってリンチに等しい石打ちの刑にしました。
 ステパノは全身血まみれになり、意識がもうろうとする中で最後の力を振り絞り大声で「主よ、私の霊をお受けください。主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで眠りにつきました(天に召されました)。「人は生きてきたように死んでいく」と言いますが、まさにその姿は十字架にかかられたイエス様のお姿そのものでした。イエス様とともに生きてきたステパノは、イエス様のように生き、イエス様のように死んだのです。
ペンテコステは、教会の誕生日でもあります。教会はキリストの霊が満ち満ちているところです。ステパノは聖霊に満たされて、「ああ、天が開けて、人の子(イエス様)が神の右に立っておいでになるのが見える」と言いました。ステパノがそうであったように、イエス様こそが私たちの人生の最高の師であり、教会の最大のかしらです。順境の時も逆境の時もキリストともに生き、キリストのように生きていく時、主が約束されておられるように、私たちひとりひとりが、そしてひとつひとつの教会が聖霊様の豊かな実を結んでいくのです。

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