私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2018年10月28日「生きざま」

2018年10月28日「生きざま」

【聖 書】ヨハネによる福音書13章1~11節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 本日の聖書の箇所であるヨハネによる福音書の13章から17章までは、イエス様の弟子たちに対する「告別の説教」と言われるところです。そのことを表す言葉として、イエス様が弟子たちに対して次のように語られています。「イエスはこの世を去って父のもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(13:1)、他の訳では「弟子たちを最後まで徹底的に愛し通された」と記されています。
この最後の晩餐の時、まずイエス様がとられた行動はどのようなものだったでしょうか。食事の席から突然立ち上がり、なんと床に膝をついて僕(奴隷)のかたちをとられ、ひとりひとりの弟子たちの汚く泥にまみれた足を洗い始められたのです。人間は最後の時にその本性が現れると言います。どんなに口では格好いいことを言っていても体裁をつけていたとしても、いざとなるとその人の本性が出るのです。
弟子たちは、この場にいたっても「自分たちの中で誰が一番偉いのだろうか」(ルカ22:24)と言って争論を始める始末でした。なかでも筆頭弟子であったペテロは、この時も素直にイエス様の言葉に従うどころか、足を洗ってくださっているイエス様に向かって「それでは手も頭も」と言って注文をつける程、お調子者で自己主張の塊となっていました。本来ならば弟子たちがイエス様の足を洗い、お互いの足を洗い合わなければならなかったのですが、自己主張の塊となっていた彼らには、そんなことは考えも思いもつかないことでした。
やがて、ユダは銀貨30枚でイエス様を売り、ペテロは3度もイエス様のことを知らないと言って裏切り、弟子たちはイエス様のもとからひとり残らず逃げ去っていきました。それが彼らの本性だったのです。しかし、このような弟子たちもイエス様がこの時、彼らに「あとでわかるようになるであろう」と言われたように、その後のイエス様の復活と聖霊降臨を体験することによって、その生き方が大きく変えられ、彼らはイエス様の愛に生き、生涯を通してその愛を具体的に実践していきました。
自己中心で自己主張の塊のような存在であるわたしたちも、そのままでは、イエス様の愛に生きることは不可能です。パウロが「わたしは罪人の頭(かしら)です」と告白したように、自らの罪を深く悔い改め、心の王座にイエス様を迎え入れることによって、罪にまみれたわたしたちであっても、イエス様の愛に生きイエス様の愛を顕す生涯へと変えられていくのです。

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional