私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2018年12月23日「いのち」

2018年12月23日「いのち」

【聖 書】マタイによる福音書16章21~28節
【説 教】田代 孝一スタッフ


【説教要約】


父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました
干し柿、もちも美味しゅうございました
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました


父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません
何卒、お許し下さい
気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました

上記の文は、前回の東京オリンピックのマラソン競技で国立競技場に唯一、日の丸を掲げた円谷幸吉選手の遺書です。27歳の若さでの死でした。当時、同じ長距離ランナーであった私は、この出来事に大きな衝撃を受けました。私は、その時このことを通して「いのち」の意味について、深く考えさせられたことを思い出します。
聖書では、この「いのち」について「プシュケー」(肉体上の眼に見える命)と「ゾーエー」(肉体を超えた本質的な命)について記しています。私たちの肉体的な命は、どんな人であってもやがて朽ち果ててなくなってしまいます。私たちは誰もが死を前にした時、言い知れない恐怖感を抱き無力になります。私たちは一生涯死の奴隷となっていると言っても過言ではないのです。
イエス様がこの地に来てくださった最も大きな目的は、この死の奴隷となっている私たちを解放するためでした。約2000ページに及ぶ聖書の中で、最も中心的な箇所とされるのが、ヨハネによる福音書3章16節の御言葉「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」です。イエス様は十字架にかかって、肉体の命(プシュケー)を終えられ、三日目によみがえって死に勝利され、私たちに永遠の命(ゾーエ―)に入る道を開き、死の奴隷とされている状態から私たちを解放して下さいました。イエス様は、十字架の死と復活を通して、私たちに「もうひとつのいのち」ゾーエ―(永遠の命)があることを示して下さったのです。
本日は召天者メモリアル礼拝です。先に天に召された、愛する兄弟姉妹を覚えて、その生きざまを思い起こし、私たちもそのみ跡を継ぐ思いを新たにする時です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを失ったら、何の得がありましょう」(16:26)と、本日の聖書の箇所に記されていましたように、私たちがこの地でどんなに地位や名声や富を得たとしても、まことのいのちである「永遠の命」を失ってしまったとしたら、私たちの人生はむなしく空虚なものとなってしまうのです。私たちもイエス様を信じる思いを新たにし、先に天に召された兄姉のあとに続く者となりましょう。
  

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