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2018年12月23日「人となられた神」

2018年12月23日「人となられた神」

【聖 書】ピリピ人への手紙2章6~11節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 本日の聖書の箇所に、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(6~7節)と記されていますように、このクリスマスの時に、イエス様は神でありながら人間と同じ姿になって、この地に来られました。
この「かたち」という言葉には、ギリシャ語では2つの意味があります。
ひとつは「モルフェー」であり、もうひとつは「スケーマ」です。前者は内側の本質的なかたちを意味し、後者は外側の変わりゆくかたちを意味します。
私たち人間の内側の本質的なかたちは何でしょうか?パウロは自分自身のことを「罪人のかしらである」(Ⅰテモテ1:15)と言い、また「この世には正しい人はひとりもいない」(ロマ3:10)と言い切っていますように、人間の本質は、すべての人が例外なく「罪人」だということです。次に外側のかたちはどうでしょうか?「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23)とありますように、永遠の死(滅び)だということです。これがわたしたち人間の現実であり実体です。
イエス様は、この人間の現実の中に「神のかたち」をもって、それも「僕のかたち」をとってお生まれになられました。それでは、神のかたちとは何でしょうか?そのことをヨハネ第1の手紙に、次のように記されています。「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によって私たちを生きるようにしてくださった。・・神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(8~11節)と記されていますように、神の本質は「愛」(アガペー)だということです。
父なる神は、その愛を具体的に現すために、イエス様をこの世に送り「僕(奴隷)のかたち」をとって、私たちの罪のために、あがないの供え物として十字架にかけてくださいました。私たちは、その流された尊い血によって罪ゆるされたのです。そして、イエス様は死に勝利されて3日目に甦られ、多くの人にその姿を現して、そのことを証明し、私たちを永遠の死(滅び)から解放して、永遠の生命へと導いてくださったのです。
クリスマスは、まさに「罪と死」の現実の中にいた私たちを「人となられた神」であるイエス様がこの世に誕生され、私たちを「罪と死」という縄目から解放してくださった時なのです。私たちは、クリスマスのこの善き時に、静まって深くこのことを覚え感謝する時としましょう。

 

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