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2018年2月25日「黄泉からの叫び」

2018年2月25日「黄泉からの叫び」

【聖 書】ルカによる福音書16章19~31節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 わたしたち人間にとって、何のために生き、死んでどうなってしまうのか?ということは永遠のテーマです。本日の召天者メモリアル礼拝は、先に天に召された兄姉を偲ぶとともに、聖書を通してこのテーマについて深く考える時でもあります。
わたしたちがいつも礼拝の中で告白しています「使徒信条」は、紀元2世紀ごろに正式に制定されたものです。この文の中で、イエス様のことを「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」と記していますように、イエス様だけが全人類の中で唯一、陰府にくだり、そこからよみがえられたお方であるということです。このイエス様が、本日の聖書の箇所で「金持とラザロ」のたとえを用いて、わたしたちに大切なことを教え示しておられます。
イエス様はここで、単に金持(イエス様に敵対したパリサイ人・律法学者をさしています)は黄泉に行き、貧しい人(ラザロ)はパラダイスに行くと言っておられるのではありません。イエス様のご性質は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)とありますように、敵さえも愛する徹底した愛のお方でした。その思い、願いは「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ
16:15・16)と復活して弟子たちにその姿を現されたあと、天に昇られる前に弟子たちに命じられましたように、すべての人が救われてパラダイスに行くことでした。だれひとりも黄泉に行くことではありませんでした。
そのイエス様が本日の聖書の箇所で、金持の口を通して次のように言われました。「父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」(16:27・28)と・・。この黄泉からの金持の叫びは、イエス様の愛による叫びでもありました。十字架にかかって死んでよみがえられたイエス様にあるならば、わたしたちは生きる勇気と力が与えられ、「死んでも生きる」という希望が与えられるのです。
本日の召天者メモリアル礼拝は、単なる記念日ではありません。わたしたちが何のために生き、死んでどうなるかということを深く覚える時でもあるのです。イエス様によって救われ、永遠の生命に入る約束が与えられていることにあらためて感謝しましょう。

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