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2018年3月24日「石の心、肉の心」

2018年3月24日「石の心、肉の心」

【聖 書】ヤコブの手紙1章19~25節
【説 教】田代 孝一スタッフ


【説教要約】
 企救エクレシアに遣わされて3年、本日が最後のメッセージとなりますが、
本当に「アッ」という間の楽しい3年間でした。これも企救の皆さんのお祈り
とお支えがあったからだと、改めて感謝の思いでいっぱいです。本日は、私自
身が現在取り組み知らされていますことを、与えられた御言葉から語らせてい
ただきます。
 本日の説教題である「石の心、肉の心」は、旧約聖書のエゼキエル書に記さ
れている言葉です。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあな
たがたの内に授け、あなたがたの肉から石の心を除いて、肉の心を与える
」(36章26節)と書かれていますように、「石の心」とは冷たく頑なな心であり
、「肉の心」は血の通った温かく柔和な心です。
 私自身をこの御言葉に照らしてみる時、私自身が石の心の持ち主だというこ
とを知らされます。何もない時は柔和な心の持ち主のようにしていても、いっ
たん自分に不都合なことが起こったり、自分に責任が問われるようなことが起
こると、途端に石の心になって、反射的ともいえるほどに自己弁解したり、責
任転嫁したりしてしまうのが、私の偽らざる実体だということです。パウロは
そのような自分のことを「わたしは罪人のかしらです」と告白しています。
しかし多くの人は、自分は石の心など持っていないと思っています。ヤコブ
は、そのような人々に対して、本日の聖書の箇所で次のように言っています
。「心に植え付けられている御言葉を素直に受け入れなさい。御言葉にはあな
たがたの魂を救う力がある。そして御言葉を行う人になりなさい。おのれをあ
ざむいて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(1章21、22節)と。私たち
は聖書の御言葉を素直に受け入れて、それを徹底的に行ってみる時、自分自身
がいかに罪深い者であるかということを知らされます。
イエス様は、ご自分がこの世に来た目的を次のように言われました。「わた
しが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章
13節)と。イエス様は、すぐに自己弁解したり、責任転嫁してしまうような石
の心の持ち主である罪深い者ために、この世に来たと言われているのです。
私は長年、学校の教師として教える立場に立ち、また教会でも指導的立場に
立ってきました。その中でいつも問われていますことは、同じヤコブの手紙3
章に記されています御言葉です。「あなたがたのうちの多くの者は、教師にな
らないがよい。わたしたち教師が他の人たちよりも、もっと厳しいさばきを受
けるからである」(3章1節)という言葉です。私はこの御言葉を思い起こすたび
に、人を教え導く前に、まず私自身が御言葉の前に謙遜に立ち、その御言葉を
素直に受け入れ、聴き従っているかを問われます。すべてが、まず私からなの
だと・・。

企救エクレシアの皆さんも、おひとりおひとりに与えられた御言葉を素直に
受け入れ、その御言葉に聴き従っていってください。そのことによって、本日
の聖書の箇所の最後に「こういう人は、その行いによって祝福される(新共同訳
では、幸せになります)」(25節)と記されていますように、多くの祝福が与えら
れ、幸せになられることを確信しています。

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