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2018年6月24日「ノーサイド」

2018年6月24日「ノーサイド」

【聖 書】エフェソの手紙2章11~16節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 7月は、サッカーのワールドカップがロシアで行われ、日本の活躍が、我が国のみならず世界中を沸かせました。試合が深夜や早朝に行われましたので、睡眠不足になられた方も多かったのではないでしょうか。すべての試合が力と力のぶつかり合いで見ごたえのあるものでしたが、それに匹敵するほどわたしたちを感動させたのが、試合のあとにお互いの健闘をたたえ合う光景でした。スポーツマンシップの真髄は、このような「ノーサイドの精神」にあります。敵味方になって激しくぶつかり合っても、終了の笛がなったら敵も味方もなくなり、お互いをリスペクトし合うのです。
この精神は、イエス・キリストの精神でもあります。パウロはこのことを本日の聖書の箇所で、次のように記しています。「キリストは、わたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除かれた」(2:14) と。旧約聖書の創世記から始まる人間の歴史は、まさにこの敵意の歴史でもありました。人間の始祖であるアダムとエバは、その罪の責任を他者(エバは蛇に、アダムはエバに)に負わせて責任転嫁して自己正当化し、神に背きました。次に二人の初めての子(カイン)は弟のアベルに嫉妬して敵意を抱き、アベルを殺害してしまいました。父なる神は、神と人、また人間同士の関係の修復のために、アブラハムを父祖とするイスラエル民族を選ばれ、その回復を計られました。しかし彼らはそのような神の意図からはずれ、選民意識だけが強くなり、自ら優越意識・特権意識をもつようになり、他者(異邦人)を裁く結果になってしまいました。このような人間の罪の歴史(敵意の歴史)に終止符を打つために、父なる神は、そのひとり子であるイエス・キリストをこの地に送られたのです。
パウロは前述の聖書の箇所に続けて、そのことを次のように記しています。「イエス・キリストは、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神に和解させ、敵意を十字架につけて滅ぼしてしまったのである」(2:14~16) と。二つのものを一つにするのは(ノーサイドにするのは)十字架によってのみ可能であり、本当の平和はイエス・キリストの十字架によってもたらされるということを告げたのです。そして、父なる神は、その務めをキリストにあってまったく新しい人に造りかえられたキリスト者にお委ねになられました。
礼拝は単なる儀式ではありません。わたしたちはイエス様によって新しく力を得て、この場から、平和の使者としてそれぞれの所に遣わされていくのです。

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