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2018年6月24日「信仰の友・ごはんの友?」

2018年6月24日「信仰の友・ごはんの友?」

【聖 書】ヨハネによる福音書15章12~17節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 以前、学校の保健体育の教師をしていた時に保健の授業で集団のあり方について教えたことがありました。集団の分け方には、大きく2通りの分け方があるということです。ひとつは「もち型集団」で、もうひとつは「アジサイ型集団」です。もち型集団は、ひと粒ひと粒のもち米が、その形がなくなるまで打ち砕かれて、ひとつの大きな餅という集団になっていくものです。それに対しアジサイ型集団は、ひとつひとつの小さな花がそれぞれに美しく咲いて、それらの花が寄り集まって、色とりどりの花を咲かせるという集団です。前者は日本型の集団を表し、後者は欧米型の集団を表しているということです。
この欧米型集団の基礎になっているのは聖書の教えであり、イエス様の教えです。それは「神と人」という関係の中で、ひとりひとりの人格(人間性)を尊重し、それぞれの賜物(個性)を活かし伸ばしていくという教えです。
そのキーワードといえる言葉が、本日の聖書の箇所に記されているイエス様の言葉です。イエス様はここで弟子たちに対して、唐突とも思えるほどのタイミングで、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。そこには単なる友達という意味合いではなく、父なる神様、イエス様の思いを共有し、それをいずれ実行して欲しいという願いが込められていました。
イエス様の切なる願いは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということでした。イエス様はこのことを具体的に示すために、自ら進んで、取税人や罪びとたちと食事をともにされました。「ごはんの友」となられたのです。これを見た、律法学者・パリサイ人は「あなたがたの先生は、なぜ罪人や取税人らと食事をともにするのか」と迫りました。当時の律法の規定では、そのような場所に出入りしたり、そこにいる人々と食事することを禁じていました。これに対してイエス様は「わたしがこの世に来た目的は、このような罪人を招くためである」と答えられました。
イエス様が「友」と呼ばれたのは、人間が定めた規定や規約を越えて、この言葉の通りに、ひとりひとりの人間を尊い存在として愛し抜かれるという姿勢を示していました。イエス様は、十字架にかかって、わたしたちの罪をゆるしその極みまで愛し、ひとりひとりを大切な友としてくださいました。イエス様とともにあれば、すべての人が人生の花を咲かせることができるのです。
今、日本の社会は人間性まで無くさせてしまうような忖度(そんたく)の社会から、すべての人が人生の花を咲かせることができる社会に変わっていくことが望まれています。このことを実現させてくださるのがイエス様の教えなのです。

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