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2019年3月29日「ふつか分のパン」

2019年3月29日「ふつか分のパン」

【聖 書】マタイによる福音書6章24~35節
【説 教】田代 孝一スタッフ


【説教要約】
 「ちいろば先生」として有名な榎本保郎牧師は、主の御言葉に聴き従うという、信仰においてもっとも大切な要素を、私達に命がけで伝えてくださいました。先生は、このことを「聴従」という言葉であらわされ「アシュラム運動」という名で、日本全国にまた世界にこのことを広めていかれました。アシュラムとは、インドを発祥とし「退修」(この世の一切のものから退いて、静かに瞑想する)ということをあらわしています。
先生はこのことの大切さを、次のように語っておられます。「信仰とは、神を従わせることではなく、私達が神に従うことです。私達もいろいろ都合があります。また、いろいろな言い訳もあります。けれども、どんな言い訳があろうとも、どんな都合があろうとも神様の御言葉に従っていく。神様を第一にしていく、それが信仰なのです。その時、私達は神様からいただいている平和、恵み、栄光にあずかることができるのです」と。信仰とは神様を第一にして、その御言葉に聴き従っていく時、人知では計り知ることができない神様からの祝福があることを「アシュラム運動」を通して、その恵みを多くの人に伝えていかれました。
先生はその信仰の証として、多くの著書を残されましたが、本日の説教のタイトルである「ふつか分のパン」もそのひとつです。この「ふつか分のパン」という言葉は、旧約聖書の出エジプト記に書かれています。「見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに6日目には、『ふつか分のパン』をあなたがたに賜るのである」(16:29)と。主がモーセに約束されたのは、7日目は安息日で外に出ることができないので、6日目に「ふつか分のパン」を与えてくださるというものでした。
実際、40年間にわたって主はその約束通り、天からマナ(パン)を降らせ、イスラエルの民を養ってくださいました。しかし、その約束を信じ切ることができずに、「7日目に外に出て行ってマナを集めようとした者もいた」(16:27)と記されています。ここにイスラエルの民だけではなく、私達人間の弱さ、もろさ、不信仰さがあらわれています。私達は聖書の言葉を学んだり聞いたりしているあいだはいいのですが、いざそのことを信じて実行するとなると、なかなかそのように出来ない自分の姿を知るのです。
へブル人への手紙11章1節に「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と記されています。私達人間の限界は明日のことを想像できても、確実に明日のことを見ることはできないということです。私達が見ることができるのは現実だけです。だから私達は、不安になったり落ち込んだり思い悩んだりするのです。そのような私達に、イエス様は、本日の聖書の箇所で次のように言われました。「あの空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。・・・だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します」と。(新改訳:マタイ6:26~34)
日本が世界がどんな状況の中に置かれても、変わらず私達に明日への希望を与え続けてくださるのは、イエス様の御言葉です。弱くてもろく、すぐに明日への心配でいっぱいになってしまう私達が、イエス様の御言葉に聴き従っていく時、主はその約束通りに、今も私達に「ふつか分のパン」を与え続けてくださるのです。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13:8) この御言葉をしっかりとこの手に握って、見えない明日に希望と期待をもって、イエス様とともに力強く歩んでまいりましょう。


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