私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

牧師室より2

牧師室より2

※過去のものは右サイドのメニューバーの下の方の「牧師室より1」をご覧ください。

2024年3月30日 土曜日

おはようございます。

イエス・キリストは金曜日に十字架につけられ、墓に葬られました。

マタイによる福音書27:59 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、27:60 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。

イエス・キリストの弟子であったヨセフは、お金持ちで、自分の墓を持っていました。彼は、イエスの遺体を丁寧に埋葬したのですが、その行為を疑う者がいたようです。

27:62 祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、27:63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。27:64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。27:65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」27:66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

こうして、イエス・キリストの体は暗い墓の中に幽閉されてしまいました。盗み出すことなどできません。

けれども、日曜日の朝、弟子たちも祭司長たちもファリサイ派の人たちが考えもしなかったことが起こりました。


2024年3月29日 金曜日

おはようございます。

今日はイエス・キリストが十字架につけられた金曜日です。

キリストは十字架上で叫びました。

マルコによる福音書15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

神はわたしを見捨てたのではないか、というくらいに、わたしたちも苦しむことがあります。キリストは、わたしたちのこの苦しみを、いっしょに負ってくださったのです。

15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

キリストは、もういちど、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、わたしたちの生きる痛みをひきうけて、息を引き取られたのではないでしょうか。

15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取ったイエス・キリストを見て、どうして、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」という信仰に至ったのでしょうか。

わたしたちは、イエス・キリストが十字架で息を引き取られるのを見たでしょうか。わたしたちは、キリストの十字架のもとにいるでしょうか。

わたしたちの心は、そこで、ふるえているでしょうか。

それは、どのようなふるえかたでしょうか。

なぜ、キリストの十字架はわたしたちの心をふるわせるのでしょうか。


2024年3月28日 木曜日

おはようございます。

受難週の木曜日です。イエス・キリストの苦しみは明日の金曜日の十字架でもっとも深くなります。

マタイによる福音書27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

イエス・キリストは力を自分のためには使いませんでした。

27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

神さまに頼ることは、今すぐ救ってもらうことではなく、神さまにお委ねすることです。

神さまの御心は、どんなときでも、救いがないように思える時でも、わたしたちとともにいてくださり、わたしたちを愛してくださることです。

27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

同じ苦しみを受けているはずの人びとからもののしられる。

これほど悲しいことはありません。


2024年3月27日 水曜日

おはようございます。

受難週が進んでいます。イエス・キリストの苦しみは金曜日の十字架でもっとも深くなります。

マタイによる福音書27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

イエス・キリストを自分の主と信じる人びとにとっては、キリストは、とうぜん、「王」でもあります。

けれども、この罪状書きはそれを意味しているのではありません。

むしろ、「この男はユダヤ人の王だと僭称した、騙った」という嘲笑の言葉なのです。

イエス・キリストは、「神の国は近づいた」と宣べ伝えました。

それは、神さまこそが王である、ということを意味します。

このようなキリストにとって、ユダヤ人の王を僭称した、という罪状書きは、どれほど苦しいものであったことでしょうか。



2024年3月26日 火曜日

おはようございます。

受難週に入りました。イエス・キリストの苦しみは金曜日の十字架でもっとも深くなります。

マタイによる福音書27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、27:36 そこに座って見張りをしていた。

兵士たちはイエスの服を獲物としてわけあっただけではありません。

イエス・キリストの心身をずたずたに引き裂いたのです。

詩編22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
''22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。''

詩編22編と重ねて読むならば、イエスの着物が兵士たちによって分けられたことは、イエス・キリストのからだが野犬に取り込まれ、獅子にその手足が砕かれ、骨があらわにされることを意味します。

これがイエス・キリストのつかれた十字架です。


2024年3月25日 月曜日

おはようございます。

受難週に入りました。イエス・キリストの苦しみは金曜日の十字架でもっとも深くなります。

27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
27:30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
27:31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

わたしなら耐えられない侮辱です。いや苦痛、激痛です。

イエス・キリストがこれをすべてそのまま受けたのは、抵抗する力が残っていなかったからでしょうか。

あるいは、このすべてを心身に引き受ける、何かをキリストはお持ちだったのでしょうか。

だとすれば、それは何でしょうか。


2024年3月24日 主日(日曜日)

おはようございます。

受難節なので、イエス・キリストの十字架への道のりをマタイによる福音書から読んで来ました。これによって、キリストがどれほど苦しまれたか、わたしたちの祈りを深めることは、とても大切です。

けれども、さらには、キリストがいかにわたしたちのことを大切に思ってくださり、ご自分の命をも惜しまないでくださったか、このキリストのわたしたちへの愛をも、かみしめようではありませんか。

27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。

27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

わたしたちは「十字架につけろ」と叫んだ群衆ではないでしょうか。

このわたしたちへの愛ゆえに、キリストは十字架につかれたのです。


2024年3月23日 土曜日

おはようございます。

イースターまで、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架にいたる苦しみの道をしのぶ時を持ちたいと思います。

27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。

ユダヤの最高法院で、大祭司から「神を冒涜した」と、そして、人々から「死刑にすべきだ」と言われ、イエスは、今度は、ローマ帝国から派遣された総督ピラトに引き渡されました。

そして、総督の尋問を受け、祭司長や長老の、イエスに不利な証言、訴えを聞かされます。

けれども、イエス・キリストは何もお答えになられませんでした。

あらゆる責めをそのまま受けられたのです。


2024年3月22日 金曜日

おはようございます。

イースターまで、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架にいたる苦しみの道をしのぶ時を持ちたいと思います。

26:59 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。
26:60 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
26:61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。

26:65 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。

何という苦しみでしょうか。最初から「死刑」と決めていて、「不利な偽証」をさせるのです。その結果、神さまをもっとも信頼したイエス・キリストが「神を冒涜した」という判決を受けるのです。

26:66人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
26:67 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、
26:68 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

「死刑にすべきだ」「死刑にすべきだ」「死刑にすべきだ」

怒声に取り囲まれます。

顔に唾を吐きかけられます。

こぶしで殴られます。

平手で打たれます。

嘲笑されます。

こんなに苦しいことはありません。

けれども、イエス・キリストは、わたしたちが負わせたこの苦しみを、わたしたちのために負ってくださったのでした。


2024年3月21日 木曜日

おはようございます。

イースターまで、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架にいたる苦しみの道をしのぶ時を持ちたいと思います。

26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。

「近寄る」「こんばんは」「接吻」。これらは、本来、相手との愛を示すものです。けれども、ユダはそれを裏切りに用いました。

それにもかかわらず、イエス・キリストは、ユダを「友よ」と呼びます。

愛を貫く。それは不快ではなく、魂の喜びであっても、しかし、なんと苦しいことでしょうか。

26:55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか・・・26:56 ・・・弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

友であった者たちも群れる時、群衆となり、わたしたちを暴れる強盗であるかのように、武力や暴力で制圧しようとします。あるいは、見捨てて、逃げてしまいます。

イエス・キリストはこれを苦しまれました。


2024年3月20日 水曜日

おはようございます。

イースターまで、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架にいたる苦しみの道をしのぶ時を持ちたいと思います。

26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

祈りの後半部の言葉にもかかわらず、イエス・キリストは、十字架の前夜、死ぬばかりに悲しみ、できることなら十字架がなくなってほしい、と苦しまれました。

26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

キリストが苦しみながら祈り、祈りながら苦しんでおられたのに、弟子たちは眠り込んでいました。なんと悲しいことでしょうか。

そして、時が来て、キリストはキリストを殺そうとする人の手に引き渡されます。

26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。

ご自分を裏切る者がご自分を殺そうとする者たちといっしょにやって来た。

これほど苦しいことはありません。


2024年3月19日 火曜日

おはようございます。

イースターまで、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架にいたる苦しみの道をしのぶ時を持ちたいと思います。

26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

人びとがイエス・キリストを信じずむしろ離れて行くと、ペトロや他の弟子たちもそうするのでした。

イエス・キリストはそれをご存じで、予告しますが、弟子たちは、そんなことはありません、たとえ死ぬことになろうともあなたとともに行きます、と言います。

親しく歩んできた弟子たちの、二重、三重に弱い姿、けれども、愛すべき姿を見なければならない苦しみ。わかりあっていると思った友から否定される激痛。

イエス・キリストはこれを引き受けてくださいました。


2024年3月18日 月曜日

おはようございます。

イースターまで、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架にいたる苦しみの道をしのぶ時を持ちたいと思います。

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

聖餐式の時、わたしたちはこの御言葉を聞き、感謝し、さらには、深い喜びを覚えるのではないでしょうか。それは、当然のことだと思います。

けれども、イエス・キリストがこの言葉を語られた最後の晩餐は、十字架につけられる前夜のことでした。

つまり、「わたしの体」「わたしの血」とは、翌日、十字架に貼り付けられるイエス・キリストの体、そこで流されるイエス・キリストの血のことなのです。

「わたしの体はあした十字架につけられるが、それはあなたたちの糧なのです。わたしがあした流す血は、あなたたちの罪を赦す契約の血なのです」

イエス・キリストはどのようなお気持ち、お心で、このように言われたのでしょうか。


2024年3月17日 主日(日曜日)

おはようございます。

イースターまで、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架にいたる苦しみの道をしのぶ時を持ちたいと思います。

マタイによる福音書
26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
26:15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

どうしてユダはこのようなことをしたのでしょうか。ここにあるわずかの情報からは、お金が欲しかったから、と考えることもできますが、ほかには、たとえば、イエス・キリストはユダの期待どおりのことをなさらなかったから、など、いろいろ考えられるようです。

いずれにしろ、親しくしていた人が、じつは、自分のことを良く思っていなくて、自分にとってとてもつらいことになる計画に加担していたことを知ったときのイエス・キリストの苦しみはいかほどのものでしょうか。

親しくしていた人から突如裏切られるとき、心は行き場を失ってしまいます。

この苦しみを、イエス・キリストは負われたのです。


2024年3月16日 土曜日

おはようございます。

今日からは、しばらく、マタイによる福音書の御言葉から、イエス・キリストの十字架とそれにいたる苦しみの道をしのぶ時を、イースターの前まで持ちたいと思います。

マタイによる福音書
26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、
26:4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。

ここに書かれているのは2000年前の出来事で、そのさらに1300年前、イスラエルの民はエジプトで奴隷となっていました。神さまはエジプト人を撃ちましたが、しるしとして羊の血が塗られているイスラエルの民の家は「過ぎ越して」(通り過ぎて)、民は救われました。

奴隷の地であり死の地であるエジプトから民を救い出したのは、羊の血だったのです。過越祭はそれを記念する祭りです。

「人の子」とは、イエス・キリストのことです。エジプトの話から1300年後、今度は、イエス・キリストが十字架の上で血を流し命を流し、けれども、そのことでわたしたちは罪から救われた、と聖書は語っています。

けれども、イエス・キリストは苦しまれたのです。イエス・キリストはわたしたちの「罪、咎(とが)、憂い」をその身に負ってくださったのです。

祭司長や長老たちはそれを知らず、むしろ、イエス・キリストの慈しみ深い御言葉と行いを憎み、イエス・キリストを「捕らえ」「殺そう」と相談しました。

じじつ、それが、イエス・キリストの身に起こるのです。


2024年3月15日 金曜日

おはようございます。

詩編56:2 神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ 56:3 陥れようとする者が、絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ、多くの者がわたしに戦いを挑みます。

このような敵意や悪意はなくても、他の人のなにげない言葉や態度によっても、わたしたちは苦しい思いをすることがあります。

そういうとき、どうしたらよいのでしょうか。

56:4 恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます。56:5 神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。

詩人はこのとき神さまに依り頼みます。神さまに依り頼むとは、神さまの御言葉を聞き、神さまを賛美すること、祈ることです。

56:10 神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。56:11 神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。56:12 神に依り頼めば恐れはありません。

人の言葉や態度が何だと言うのでしょう。

御言葉に聞き、祈り、神さまに依り頼めば、恐れはありません。

神さまがともにおられます。


2024年3月14日 木曜日

おはようございます。

イザヤ書40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。

国が滅ぼされ、捕囚となったイスラエルの民は、バビロンの地で、これは、自分たちや王が神さまから離れてしまった結果なのだと、その歴史をふりかえります。

(ただし、わたしたちは、自分や誰かの苦しみが罪の罰であると簡単に考えるべきではないでしょう。たとえば、どなたかが重い病気にかかっても、それは罪を犯したからだ、などと考えることは、病気に加えてさらなる重荷をその人に乗せてしまうことになります)

けれども、苦しみと悔い改めの中にいる民に、神さまの声が聞こえてきます。

「慰めよ、わたしの民を慰めよ」

苦しみの時はもう終わる、と神さまは言われるのです。

わたしたちが苦しんでいるときも同じです。

神さまがわたしたちに慰めの言葉で語りかけ、苦しみを喜びに変えてくださるときが来ます。

40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
40:5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

この苦しみから脱出する道などまったく見えなかったのに、そんな荒れ野に神さまは、広い道を創ってくださいます。

神さまはその道を通ってわたしたちのところに来てくださり、わたしたちはその道を通って苦しみから喜びへと導かれます。

これまでの険しい荒れ野とはまったく異なり、それは、まっすぐで広い道です。

神さまは、わたしたちの手を取り、この道を進んでくださいます。


2024年3月13日 水曜日

おはようございます。

神さまに嘆くことは、けっして不信仰ではありません。

詩編55:3 わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。
55:4 敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。彼らはわたしに災いをふりかからせようとし/憤って襲いかかります。
55:5 胸の中で心はもだえ/わたしは死の恐怖に襲われています。
55:6 恐れとわななきが湧き起こり/戦慄がわたしを覆ます。

ダビデは、自分の悩み、不安をそのまま、
神さまに打ち明けています。
敵から苦しめられていることを、そして、
それに恐れおののいていることを
神さまに正直に話しています。

そのダビデに、声が聞こえてきます。

55:23 あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。

これは重たいです、これは苦しいですと
あなたは、神さまに訴えてよいのです。
それらを神さまにお委ねしてよいのです。

そうれば、神さまはあなたを支え、
ふるえをおさえてくださいます。


2024年3月12日 火曜日

おはようございます。

イザヤ書35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。35:2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」

預言者が、荒野や砂漠には、喜べ、花を咲かせよ、と促し、
人びとには、手足を伸ばせ、心を強くせよ、と呼びかけるのは、
主が栄光を示し、わたしたちの神さまが輝きを見せてくださるからであり、
悪に勝つ神さまがわたしたちを救ってくださるからです。

35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。

わたしたちの目と耳を開き、立ち上がらせ、口に喜びの歌をもたらしてくださる。

イザヤが示したこの神さまのお姿は、何百年かのちに、
イエス・キリストに現れたと、福音書はわたしたちに教えてくれます。 


2024年3月11日 月曜日

おはようございます。

この世界をほんとうに治めておられるのは神さまです。

しかも、神さまは、この世の歴史上の王や政治家のような治め方はなさいません。

神さまは、力で上から抑えつけるのではなく、愛と慈しみで包み込んでくださり、下からお支えくださるのです。

ですから、サウル王が現われる前の、士師の時代やそれ以前には、イスラエルには王はいませんでした。

神さまがこそが、まことの王だからです。

詩編47:2-3 
すべての民よ、手を打ち鳴らせ。
神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
主はいと高き神、畏るべき方
全地に君臨される偉大な王。

礼拝は、昔も、そして、今も、この王なる神さまを賛美するのです。

47:6-8 
神は歓呼の中を上られる。
主は角笛の響きと共に上られる。
歌え、神に向かって歌え。
歌え、我らの王に向かって歌え。
神は、全地の王
ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。

詩人はここで、「神さまこそがまことの王であり、その王がここにやって来られる」ということをうたっています。

イエス・キリストは、この伝統にしたがって、言われました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

この世界はユダヤの王やローマ皇帝が支配しているように見えるし、民はこれらの支配者に苦しめられているけれども、まことの王は神様です。この神様をこそ見ましょう。神様こそがわたしたちを愛で治めてくださる王様です。何よりもうれしいこの知らせの中に、わたしたちの全身を浸からせましょう。

イエス・キリストはこのように言われているのではないでしょうか。

イエス・キリストの「神の国は近づいた」という福音は、旧約聖書の「神こそが王である」というメッセージをまっすぐに受け継いでいるのです。


2024年3月10日 主日(日曜日)

おはようございます。

イザヤ書30:23
主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。
地の産み出す穀物は豊かに実る。

あなたが種を蒔けば
神さまは雨を降らせ
地は穀物をゆたかに実らせます。

あなたが祈れば
あなたが御言葉を語れば
神さまが大きく育ててくださいます。

30:26
主が民の傷を包み
重い打ち傷をいやされる日
月の光は太陽の光になり
太陽の光は七倍になり
七つの日の光となる。

あなたが負った深い傷は
神さまが包んでくださいます。

あなたを囲む暗闇は
月の光を太陽の光にして
太陽の光を七倍にして
神さまが照らしてくださいます。


2024年3月9日 土曜日

おはようございます。

詩編46:2
神はわたしたちの避けどころ、
わたしたちの砦(とりで)。
苦難のとき、
必ずそこにいまして助けてくださる。

今苦しんでいるあなた
目には見えませんが
神さまはたしかに
あなたとともにいて
あなたを助けてくださいます
神さまはあなたのシェルター
あなたの砦(とりで)です

46:3 
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも

46:4 
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。

たとえ山が震え大地が揺れ
海が怒り波が騒ごうとも
あなたの世界と人生に
たとえ何が起ころうとも
あなたは恐れなくてよいのです


2024年3月8日 金曜日

おはようございます。

イザヤ書29:17
なおしばらくの時がたてば
レバノンは再び園となり
園は森林としても数えられる。

戦争で荒れ果てた地も
しばらくの時は必要ですが
きっと元の緑を回復させ
ゆたかな森にさえなるでしょう

今は倒れている者たちも
幾日幾年かかっても、
かならず起き上がり
前へ歩んでいくことでしょう

29:18
その日には、耳の聞こえない者が
書物に書かれている言葉をすら聞き取り
盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。

その日には
キリストがなさったように
わたしたちすべてに
神さまの言葉が
深く聞こえ
まぶしく降り注ぐことでしょう

29:19
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い
貧しい人々は
イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。

その日には
主はわれらを集めてくださり
貧しいわれらはともに主を
喜び祝うことでしょう


2024年3月7日 木曜日

おはようございます。

詩編43:5 
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。

心が折れたとき、詩人は自分の魂を励まします。

うなだれてばかりいないで、
うめいてばかりいないで、
神さまを待ち望もう、と。

神さまこそが詩人が待望するお方であり、
神さまこそが詩人の希望です。

神さまの御顔、神さまの御臨在、
神さまがともにいらしてくださる。
これこそが、詩人の救いです。

ああ、こんなことになってしまった
ああ、こんなひどいことに
ああ、もうだめだ

うなだれて、ひとしきり嘆いたあとは、
顔を上げて、神さまを待ち望みましょう。

神さまはかならず道を創ってくださいます。


2024年3月6日 水曜日

おはようございます。

イザヤ書25:4 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 25:5 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。

神さま、あなたは弱いわたしの砦です。

苦しむ者を守ってくださいます。

人生の豪雨のときも、猛暑のときも、

打ちのめされるときも、心がかわききるときも、

あなたはわたしの避難所になってくださいます。

あなたは雲となり灼熱をやわらげ、

風となりわたしの心を静め、

心無い人の声から守ってくださいます。

25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

あなたの祝会では、愛と慈しみが絶品です。

あなたはすべての人を招いてくださいます。

どの人もむかえ入れてくださいます。

あなたの歓迎をわたしは心から喜びます。


2024年3月5日 火曜日

おはようございます。

詩編42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。

鹿の喉は、いや、全身は、水を欲しています。

乾き切った体に一滴の水を、けれども、いのちの水を。

詩人の魂はなにゆえに鹿のごとく神さまを求めるのでしょうか。

42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。42:4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。

詩人は神に求めています。命を慕い求めています。

神さまはいつ顔をお見せくださるのか。「お前の神はどこにいるのか」

これは、人の声ではありません。詩人その人の魂の叫びです。

止むことのない涙は何の糧になるのでしょうか。

42:5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。

詩人は目を閉じ、魂とともに静寂の中にすべてを浸らせます。

すると聞こえてきます。天使たちの賛美が。

詩人はそこに身を委ね、神さまの前で沈黙します。

42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。

神を待ち望め。わが待望は神にあり。

神さまこそがわが希望です。

主が、主こそが、わが救いです。


2024年3月4日 月曜日

おはようございます。

紀元前8世紀、北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国はその属国となってしまいます。

けれども、預言者イザヤは、軍事力によるのではなく、神さまによる治めを預言します。

イザヤ書11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

エッサイはダビデ王の父親です。アッシリアによってダビデ王の子孫の国は切り倒されたように思われますが、神さまはその切り株から新しい枝を伸ばし育ててくださいます。

わたしたちも、たとえ一度切り倒されたように思うようなことが人生において起こっても、神さまはそこからもう一度芽を萌えさせ育ててくださいます。

アッシリアの属国となってしまっても、ユダの民は、神さまを畏れ敬う霊に満ちた王によって導かれます。民を導くのは、アッシリアの軍事力ではなく、神さまなのです。

神さまの御心に沿ったこの王は民に平安をもたらします。

11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。

この王は、弱い人、貧しい人の弁護者であり、正義と真実で民を治めます。

この王の下では、人間だけでなく、自然にも平安がみなぎります。

11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。

大地も土壌を破壊、汚染されることなく、神さまの愛で満たされます。

イザヤが紀元前8世紀に幻(ヴィジョン)を見たこの王の姿は、紀元1世紀前半に登場し、今日にいたるまでわたしたちを治めてくださる主イエス・キリストに重なります。


2024年3月3日 日曜日

おはようございます。

詩編30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。

たとえわたしたちが深い穴底に落ち、這い上がれないでいても、神さまが引き上げてくださいます。

わたしたちの叫び求める声を神さまがお聴きくださいます。それがわたしたちの癒しです。

わたしたちは、倒れても起こされ、また、倒れても起こされ、最後は陰府(よみ)に倒れても、それでも、神さまはわたしたちを起き上がらせてくださいます。それが神さまのくださる命です。

30:5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

わたしたちをどこまでも慈しんでくださる神さまに心から感謝をいたしましょう。礼拝で主の前に集い賛美の歌を歌いましょう。

30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

神さまから罰を受けているかもしれないと悩んでしまうくらいに苦しいときもあります。けれども、神さまはわたしたちを葬り去ろうとしておられるのではありません。むしろ命を得させようとしてくださるのです。

わたしたちが泣いて夜を過ごしても、喜びの朝を神さまがかならずもたらしてくださいます。


2024年3月2日 土曜日

おはようございます。

サウル、ダビデ、ソロモン王と続いたイスラエルは、北のイスラエル王国、南にユダ王国に分裂し、北イスラエルも紀元前722年にアッシリアに滅ぼされてしまいます。

けれども、預言者イザヤはその地が回復されるヴィジョン(幻)を語ります。

イザヤ書8:23b 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

南ユダに新しい王ヒゼキヤが即位することでそうなる、と言うのです。

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

イザヤのこれらの言葉は700年後にメシア、つまり、イエス・キリストが登場することをも預言していました。

マタイによる福音書4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

外国の軍隊に攻め込まれたあとのイスラエルのように、わたしたちの心も、ときに、何かによって、踏みにじられ、暗闇となることがあります。

けれども、イエス・キリストは、そのわたしたちの光になってくださり、生きている充実感の薄いわたしたちに生きる力を注いでくださいます。


2024年3月1日 金曜日

おはようございます。

弥生(やよい)、三月になりました。

春はもうすぐです。

詩編28:1 【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。28:2 嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます。

ダビデの人生には苦しいことがいくつか起こりました。

ダビデは神さまに祈ります。

神さまを「あなた」と呼び、「わたしの岩」と呼びかけます。

荒れ野の大きな岩は、その陰で、灼熱の日光や激しい風雨から守ってくれます。

ときに、神さまは沈黙しておられるように感じられます。

たしかに、神さまはわたしたちの声を静かにじっとそのまま聞いてくださいます。

けれども、耳を傾けていてくださるのです。

それが、すでに、わたしたちの救いです。

28:7 主はわたしの力、わたしの盾。わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。28:8 主は油注がれた者の力、その砦、救い。

ダビデは、神さまをさらに「わたしの力」「わたしの盾」と呼びます。

わたしたちの心は主に依り頼みます。

主だけに依り頼みます。主こそを根本の支えにします。

そのとき、わたしたちの心は、神さまに助けられ、喜び踊り、感謝の歌を賛美いたします。

神さまは、わたしたちに愛と平安をあふれるまでに注いでくださいます。

神さまこそが、わたしたちの砦(とりで)、わたしたちの救いです。


2024年2月29日 木曜日

おはようございます。

紀元前8世紀、ユダは近隣諸国から攻め込まれる危機に瀕します。

民だけでなく、アハズ王も不安に駆られます。他の大国の力に頼ろうとします。

けれども、神さまは預言者イザヤにこう言われます。

イザヤ書7:3 アハズに会い、7:4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。

イザヤはさらに預言します。

7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

これは、直接には、不安ゆえに大国の軍事力に頼ろうとするアハズ王に代わって、ともにおられる神さまを信頼する王が現われることを預言していると言われますが、さらに、深いレベルでは、イエス・キリストの誕生を預言している、とわたしたちキリスト教会は信じてきました。

不安で心が激しく揺れ動くときも、インマヌエル(「神さまがともにいます」という意味)の神さま、とわにともにいてくださる神さまが、わたしたちをお支えくださいます。


2024年2月28日 水曜日

おはようございます。

詩編27:1 【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。

神さまがわたしに光を注ぎ、わたしを救ってくださるから、わたしは誰をも何事をも恐れる必要はありません。

神さまがわたしのいのちを守ってくださいますから、わたしは誰の前でもどんなことが目の前に起こっても、怯えて震える必要はありません。

27:2 さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。

いくつかの問題がわたしを苦しめ、倒れそうになってしまいますが、神さまがその苦しみをこそ打倒してくださいます。神さまがこの苦しみを乗り越えさせてくださいます。

27:3 彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。

もろもろの苦しみがわたしに対して陣を敷いても、わたしの心は恐れません。神さまがともにおられるからです。そのように深く信じるからです。


2024年2月27日 火曜日

おはようございます。

はっきりとはわかりませんが、ハバククはバビロン捕囚直前の預言者とも考えられます。

ユダにバビロニア帝国が迫り、結果的には滅ぼされ、捕囚とされるのですが、その中で民はどのように生きたのでしょうか。

ハバクク書3:17 いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。

あらゆることがだめで、なにひとつ希望が持てません。

それでも、なおハバククは言います。

3:18 しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。

神さまは絶望の中の希望です。わたしたちからすべてが失われても、神さまだけはここにおられます。

2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

絶望せざるを得ないほど、わたしたちは苦しみます。

けれども、非常に厳しい見方をすれば、神さまがおられるのに、望みが絶えた、と言い切ることの中には、どこか、神さまを無視した、わたしたちの決めつけが潜んでいないでしょうか。

「信仰によって生きる」とは、どこまでも神さまを信頼し(つまり、神さまへの信仰を捨てず)、神さまによって生かされることです。いちじくの木には花が咲かないのに、神さまによって喜ぶ、とはこのことです。

何百年かのち、パウロはハバククの言葉を引きついで、書き記します。

ローマの信徒への手紙1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


2024年2月26日 月曜日

おはようございます。

ヨナは紀元前8世紀の預言者と思われます。

神さまはヨナに命じます。アッシリア帝国の首都ニネベに行って、人びとに悪から離れるようにと呼びかけよと。

しかし、ヨナはその任務から逃亡します。が、海に放り込まれ、魚に飲み込まれ、魚の腹の中で祈り、結局、ニネベに吐き出されます。

ヨナが「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(ヨナ3:4)と叫ぶと、人びとは悪を離れます。

ヨナ書3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

これを見てヨナは怒ります。

4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。

悔い改めた人びとに向けられる神さまの恵みと憐みと忍耐と慈しみが、なんとヨナには怒りの理由になるのです。

強い日差しからヨナを守るため、神さまはとうごまの木を育て日陰を作ります。ヨナは喜びます。

けれども、その翌日、神さまは虫に命じてとうごまの木を枯らしてしまいます。ヨナは直射日光に苦しみ、死を願います。

4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

わたしたちは自分の救いは願っても、この人びとは救われないと思う人びとの救いは、じつは、願っていない、ということが心の奥に潜んでいないでしょうか。

あるいは、自分で勝手に判断して、神さまは自分などは救ってくださらないと思っていないでしょうか。

けれども、神さまは、どんな人びとのことをも惜しまずにはいられないのです。たとえそれが「右も左もわきまえぬ人間」つまり神さまのことを知らない人びと、神さまから離れてしまっている人びとであってもです。


2024年2月25日 主日(日曜日)

おはようございます。

イスラエルの民は神さまから離れてしまいますが、神さまはその民を呼び戻します。

バビロン捕囚は自分たちが神さまに背き続けてきた結果であったと民は反省しますが、神さまは民を捕囚から解放します。

ホセア書2:25 わたしは、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ、ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって、「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。

「ロ・アンミ」の「ロ」は「~でない」という意味で、「アンミ」は「わが民」、「ロ・アンミ」は「わが民でない者」という意味になります。

イスラエルの民は、神さまに背き、「ロ・アンミ」、つまり、「わが民でない者」「神さまの民でない者」になってしまいましたが、神さまは、「ロ・アンミ」から「ロ」(~でない)をとり、「アンミ」「わが民」と呼んでくださるのです。

3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。3:3 わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

ホセアの妻はホセアから離れて行ったようですが、それでも彼女を愛するように神さまはホセアに言います。

それは、神さまに背き他の神々に(つまり、軍事力や諸外国の力を含む、神ならぬ偶像に)依存しようとしたイスラエルの人びとを、それでも神さまがお見捨てにならず愛されたことの象徴行為でもありました。

わたしたちも神さまに従い切れていません。神さまに委ね切れず、人を十分に愛することができません。

それでも、神さまはわたしたちを愛しぬいてくださいます。

イエス・キリストがわたしたちと同じ世界にお生まれになり、十字架の道を歩まれ、わたしたちとともに、そして、わたしたちのために十字架についてくださったことは、神さまの愛と赦しそのものであるとわたしたちは信じます。


2024年2月24日 土曜日

おはようございます。

ダニエルはバビロン捕囚期の預言者とされています。

ダニエルはバビロニアの王に用いられましたが、それを妬む王の側近らによって、王以外の者に願い事をしてはならないという勅令が作られました。

けれども、ダニエルは神さまに賛美と祈りをささげ続けました。

ダニエルは獅子の洞窟に放り込まれました。

しかし、ダニエルは無事でした。

ダニエル書6:23 「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。」6:24 王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。

わたしたちも人生において獅子の洞窟に放り込まれたかのような苦しみに見舞われることがあります。

ダニエルのように無傷とはいかず、むしろ、心身ともに強く痛むことでしょう。

けれども、ダニエルと同じように、神さまがお守りくださいます。

たとえ、わたしたちが害を受けても、神さまが盾となり害をやわらげてくださり、神さまが包み込んでくださり、傷をお癒しくださいます。


2024年2月23日 金曜日

おはようございます。

預言者エゼキエルはバビロン捕囚の民のひとりでした。

神さまは、エゼキエルに捕囚からの解放のヴィジョン(幻)を見せます。

エゼキエル書37:1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。37:2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。

枯れた骨は捕囚となったイスラエルの民を示します。

37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。37:6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

神さまの息を吹き込まれ、捕囚の民は生き返ります。すなわち、バビロンから解放され、エルサレムに帰還できるのです。

37:11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。37:12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。

捕囚の民ばかりではありません。

そもそも、わたしたちは創造の際に神さまの息を吹き込んでいただいたのです。

創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

そして、これは、わたしたちの生涯においても繰り返されます。

わたしたちは神さまの息をあらたにいただいて、毎朝目覚めます。

わたしたちは、人生において、たとえ倒れても、たとえまた倒れても、神さまは息を吹き込んで、起き上がらせてくださいます。

そして、わたしたちがこの世の生命を終え、墓に眠っても、神さまの息吹をいただいて、永遠のいのちへと起こされるのです。


2024年2月22日 木曜日

おはようございます。

エレミヤはエルサレムがバビロニアに滅ぼされる時期の預言者です。

エレミヤ書1:4 主の言葉がわたしに臨んだ。1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」

神さまは、わたしたちがお母さんのお腹に宿る前から、わたしたちのことを知っていてくださったのです。

1:6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」

わたしたちは、神さまのことを他の人にも伝えたいと思いながらも、どうしたらよいのか、何を語って良いのかわかりません。自分なりに語ってみても、理解されないように思われることが多いのです。

1:7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。1:9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。

わたしにはできません、と言ってはならないのです。

うまく行かないことを恐れてはならないのです。

神さまがともにいてくださいます。

神さまがわたしたちの口に神さまの言葉を授けてくださいます。


2024年2月21日 水曜日

おはようございます。

平和をあらわすシャロームというヘブライ語は朝昼晩のあいさつにも使えるそうです。

毎日のこのメッセージの「おはようございます」にも、じつは「シャローム」の意味をこめています。

世界には戦争が絶えません。

今日も中東やウクライナなどで戦争で人びとの生命が奪われています。

イザヤ書2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

今から2500年以上前のイスラエルの地にも戦争がありました。

けれども、イザヤは平和のヴィジョンを与えられます。

神さまが国と国の争いを収めてくださいます。

死の戦場が生命の畑に変わります。

わたしたちもイザヤとともに神さまのシャロームを祈り求めようではありませんか。


2024年2月20日 火曜日

おはようございます。

苦しいときは、神さまに向かって、「神さま、苦しいです」と叫びましょう。

神さまは、その声をしっかりと聞いてくださいます。

詩編18:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】

ダビデもまた苦しみの中で神さまに求め、救い出されました。

詩編18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。18:3 主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。

神さまはわたしたちの「力」です。「岩」です。「砦(とりで)」です。「逃れ場」です。「避けどころ」です。「盾(たて)」です。わたしたちが神さまを呼び求めれば、神さまは苦しむわたしたちを救い出してくださいます。

18:5 死の縄がからみつき、奈落の激流がわたしをおののかせ 18:6 陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている。18:7 苦難の中から主を呼び求め、わたしの神に向かって叫ぶと、その声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く。

心が押しつぶされ、魂が激流に飲み込まれ、暗闇に包囲され、もう息ができない。けれども、神さまに向かって叫ぶと、その声は、神さまの御前に響き、神さまの耳に届きます。

神さまはわたしたちの声も、声にならない声も、聞いてくださいます。

キリストは、わたしたちの涙をぬぐってくださいます。


2024年2月19日 月曜日

おはようございます。

一瞬にしてすべてを失っても、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)と神さまを信じたヨブでしたが、ヨブと神さまとの対話は続きます。

ヨブ記31:16 わたしが貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず 31:17 食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。

ヨブは自分は隣人を愛してきたと主張します。なのに、どうしてこんな苦しいことが起こるのか、と神さまに問いかけます。

31:24 わたしが黄金を頼みとし、純金があれば安心だと思い 31:25 財宝の多いことを喜び、自分の力を強大だと思ったことは、決してない。

ヨブはまた、わたしはお金や自分の力ではなく神さまを信頼してきた、と訴えます。それなのに、すべてを失い、厳しい病に見舞われるのかと。

ヨブは不信仰に思えるかも知れませんが、そうではありません。神さまに問いかける、訴えるという形で神さまとのつながりを持ち続けています。

対話によって、神さまはヨブを結論に導かれます。

42:2 あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。42:3 「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。

自分は神さまのことをじつは何もわかっていないのに、わかったようになってしまって、神さまについてあれこれ言っていたヨブを神さまは打ち砕いてくださったのです。

しかし、これはヨブの滅びではなく、むしろヨブは神さまの前で新しくされ、ふたたび立ち上がります。

ところで、

30:20 神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。

この言葉は、わたしたち人間の神さまに対する不遜のように思えますが、イエス・キリストは十字架の上で、わたしたちとともに「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになられたのですか」と叫んでくださったのでした。


2024年2月18日 日曜日

おはようございます。

旧約聖書のヨブ記にはヨブという人の信仰とその悩みが描かれていますが、紀元前のお話であること以外は、いつの時代の出来事なのかわかりません。

けれども、わたしたちの信仰に通じるものがあります。

ヨブは裕福であり、神さまを信じていましたが、ある日、一瞬にして、財産や家族を失ってしまいました。

その知らせを聞き、ヨブは深い悲しみに陥ります。

ヨブ記1:20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。

けれども、ヨブは言います。

1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

わたしたちはなかなかこのようには言えません。

家族を失った直後にはこんな言葉は出ません。

けれども、ある地点で、人生の浮き沈みをふりかえったとき、このように言える信仰を持ちたいと思います。

「主は奪う」とありますが、これは「主は与え」が前提です。

神さまがわたしにお与えくださったものを神さまにお返しするという信仰です。

奪われるというよりお返しするのです。

地上の旅を終え天に帰るとき、

神さま、地上のいのちをお与えくださり、ほんとうにありがとうございました

これは、あなたにお返しいたします、

これからは、ただあなたのいのちの中にだけ生きさせてください、

と感謝したいと思います。


2024年2月17日 土曜日

おはようございます。

バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還した人びとの中に、ネヘミヤとエズラという指導者がいました。

彼らは民の前で神さまの言葉を読み上げました。

ネヘミヤ記8:9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。

「律法」とは創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。ここには、「~しなければならない」「~してはならない」という「戒め」だけでなく、神さまが世界とわたしたち人間を創造し、わたしたちの歩みを導き、苦しみの時もともに歩んでくださり、ついには、苦しみから解き放ちてくださる物語、神さまの救いの物語が記されています。

民が律法の言葉を聞いて泣いたのは、この神さまの御言葉に慰められ、励まれ、救われたからでしょう。

8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

民にとって、神さまの救いの御言葉をともに聞くことは大きな喜びでした。「良い肉を食べ、甘い飲み物を飲む」ことはそれの現れです。しかも、その喜びは、ひとりのものではなく、他の人びととわかちあうものなのです。

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

あしたはわたしたちが主に礼拝をささげる聖なる日です。悲しんではなりません。主を喜び祝うことこそ、わたしたちの力の源なのです。

いや、悲しんでもよいのです。

イエス・キリストは言われます。

マタイによる福音書5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

悲しむ人も集いましょう。キリストがともに泣いてくださり、やがて、その涙をぬぐってくださいます。


2024年2月16日 金曜日

おはようございます。

バビロンの地で捕囚の身となり苦しんでいたユダの民ですが、ついに解放される日がやってきます。

ペルシャがバビロニアを倒しその地の新しい支配者となりましたが、捕囚民を帰国させる政策をとったのです。

エズラ記1:1主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは国中に次のような布告を行き渡らせた。1:2 「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。

驚くことに、神さまは、ユダヤ人ではなく異邦人を用いて神さまの民を解放なさったのです。

キュロスは続けて言います。

1:3 あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。

「主の民に属する者」とは捕囚となっていたユダの民のことです。

エルサレムもその神殿もはバビロニア軍に滅ぼされましたが、イスラエルの神は、そこにおられ、同時に、捕囚の民と共におられ、神さまの神殿を再建するために、異邦人ペルシャ王キュロスを用いて、民を解放するというのです。

わたしたちがたとえ何かが壊れてしまい、苦しい状況にあり、神さまから遠く離れたところにいるように思えても、神さまは待っていてくださり、同時に、わたしたちとともにいてくださり、わたしたちをみもとに招いてくださいます。

そのために、神さまはわたしたちが予期しない人びとをも用いられます。

神さまはあらゆる手段でわたしたちを苦しみから解き放ち、ご自分のもとに連れ帰ってくださるのです。


2024年2月15日 木曜日

おはようございます。

国を滅ぼされ、バビロンに連行され、捕囚となったユダの人びとはどうなったでしょうか。

詩編137:1 バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。137:2 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。137:3 わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。137:4 どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。

バビロンの流れとはチグリス川、それとも、ユーフラテス川でしょうか。

大河の雄大を前にしても、ユダの民は、シオン、エルサレムの地を思わないではいられません。

神さまを慕わないではいられません。

バビロン人が「シオンの歌を歌ってみろ」と命じますが、賛美は支配者の余興のために歌うものではありません。神さまにささげるものです。

竪琴を手にすることなどできません。

けれども、神さまへの思いは募るばかりです。

137:5 エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。137:6 わたしの舌は上顎にはり付くがよい、もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、わたしの最大の喜びとしないなら。

右手は、神さまを称える歌を奏でる竪琴のためにあります。

舌は、神さまへの思いを歌うためにあります。

ユダの人びとは、捕らわれの地にあっても、苦境にあっても、神さまを忘れることはありませんでした。

むしろ、神さまへの信頼と希望は高まりました。

わたしたちも、同じではないでしょうか。

苦しいときこそ、言葉にならない祈りが深まるのではないでしょうか。

深層に無言の祈りが積もり、また積もる。

この堆積は、苦しい時にこそ、神さまがわたしたちのもっとも深いところにいらしてくださるしるしではないでしょうか。


2024年2月14日 水曜日

おはようございます。

バビロン捕囚の少し前、エレミヤはこのように預言しました。

エレミヤ書25:9 見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。

神さまは、バビロンの王を用いて、ユダ王国とその都エルサレムを滅ぼす、という預言です。

悲しいことに、この預言は実現しました。

歴代誌下36:17 主はカルデア人の王を彼らに向かって攻め上らせられた。

カルデア人とはバビロニア人のことです。

36:19 神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。36:20 剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。36:21 こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。

歴代の王が神さまから離れ、神さま以外のもの、たとえば、近隣の大国などを頼ろうとし、民を苦しめ、民も神さま以外のものを頼ろうしたその結末でした。

絶望です。けれども、言葉の矛盾ですが、かすかな希望がちらりと見えるかも知れません。

ひとつは、民が連れて行かれ、町が荒廃したことで、「地は安息を得た」とあります。地が安息を得たとはどういうことなのでしょうか。よくわかりません。しかし、安息という言葉には、希望があります。

もうひとつは、「七十年の年月が満ちた」とあります。これはどういうことでしょうか。

イザヤ書にこうあります。

40:2 エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

「七十年の年月が満ちた」とは「苦役の時が満ちた」ということにつながるのではないでしょうか。

どんなに絶望した時でも、わたしたちは、神さまに希望を見いだそうではありませんか。たとえ、それが小さくて、かすかに思えても。けれども、それがただの希望ではなく、神さまの希望であれば、じつは、かぎりなく大きいのではないでしょうか。

2024年2月13日 火曜日

おはようございます。

ソロモン王の後、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、紀元前722年に北はアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年に南はバビロニアに滅ぼされてしまいますが、その数十年前、南のヨシヤ王の時代、神殿であるものが発見されます。

列王記下22:8 そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。

23:2 王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。

23:24 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。23:25 彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。

ここで、わたしたちにとって大事なことは、律法を守るということよりも、神さまの言葉に立ち帰り、神さまではないものをあたかも神さまのように頼みにすることを止め、神さまをこそわたしたちの根本の頼りにする、ということです。

たとえば、わたしたちは、不安なことがあるとき、誰か人に相談することはとても大切ですが、それが過度になり、電話で誰かとずっと話していないといられないようになってしまったなら、それは、それを、ある意味、一番の拠り所にしてしまっているのです。

けれども、わたしたちがもっとも支えとすべきは、神さまのお言葉と神さまご自身です。

そのことを忘れて、ただ、電話で誰かと話し続けることにすがってしまえば、それは、偶像崇拝に近いものになってしまいます。神さまを信頼することではなく、神さま以外のものにもっとも依存してしまっているのですから。

適度な人間関係、衣食住、お金などは必要です。けれども、それに依存してはなりません。それに、それだけに、過度にすがってはなりません。

そんなことをしなくても、神さまと神さまの御言葉が、わたしたちを根底で支えてくださいます。

つねに、神さまと御言葉に立ち帰りましょう。


2024年2月12日 月曜日

おはようございます。

エリヤが活躍したのが紀元前9世紀の中頃で、それから百数十年後、北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされます。さらに、南のユダ王国はその百数十年後、バビロニアに滅ぼされます。

列王記下17:5 アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、17:6 ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた。

イスラエル王国はなぜ滅んだのでしょうか。

17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである。

問題は、神さまでないものに、それがあたかも神さまであるかのようにすがろうとしたことです。

わたしたちは、神さましか信じていないように思っています。

けれども、たとえば、お金、人間関係、仕事の順調、自分の能力や成功を、自分の心の最大のよりどころとしてしまうことがないでしょうか。

お金や成功が自分にないとき、神さまの支え、神さまの御言葉よりも、これらのものを慕い求めようとしていないでしょうか。

もちろん、これらのものも、適度であれば、わたしたちの支えになります。

けれども、これらを、わたしたちの最大の支えにしてしまうのなら、これらを神として拝んでいるのです。

列王記が伝える歴史は、このことをわたしたちに教えてくださいます。

適切な範囲の中で人間的なものをも少しは頼みとしつつも、わたしたちが根本的に信頼すべきお方は神さまであることを思い起こしましょう。

この世のもの、人間的なものは支えになることもありますが、徐々に朽ちたり、突如壊れたりすることがあります。

けれども、神さまは、永遠なるお方であり、どんなときでも、わたしたちを支え続けてくださいます。


2024年2月11日 主日(日曜日)

おはようございます。

エリヤの時代、イスラエルの王アハブは、ぶどう畑を自分のものにするために、持ち主のナボトを殺させました。

エリヤはそれを批判します。

列王記上21:17 そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。21:18 「直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。21:19 彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。』

すると、アハブは悔い改めます。

21:27 アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。

「衣を裂き、粗布を身にまとって断食する」ことは、悔い改めていることを示す姿勢です。

これをご覧になって、神さまは言われます。

21:29 アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。

神さまのこのご判断をわたしたちはどう思うでしょうか。私利私欲のために民を殺した王が、悔い改めれば、赦されるのでしょうか。

しかし、アハブはわたしたちの罪の姿でもないでしょうか。わたしたちは自分のためには人を抑(おさ)えつけていないでしょうか。

けれども、主はアハブの罪を赦されました(ただし、ここでは「生きている間は災いをくださない」とあり、じじつ、のちにアハブの子孫は国の滅びを経験します)。

わたしたちも、神さまと隣人から心を離してしまう罪人でありながら、イエス・キリストの十字架の死と復活によって赦されて、生かされている者なのです。

わたしの罪の重さと、神さまの赦しの深さをあらためて覚えます。


2024年2月10日 土曜日

おはようございます。

エリヤは神さまのパンに支えられ四十日四十夜歩いて神の山、すなわち、ホレブ山(シナイ山)に到着します。

列王記上19:11 見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を、裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

激しい風、地震も、火の中にも神さまはおられなかった、とはどういうことでしょうか。

出エジプト記19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

使徒言行録2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

これらの箇所では、火や山の震動や激しい風の中に、神さまはおられるのに、今日の聖書の箇所では、「ささやく声」とともに神さまはおられるのです。

ときに、わたしたちは、しずかに耳を傾けなければ、神さまの声を聴くことができないのです。

ときに、神さまは静けさ、静寂の中におられ、静寂によって、語りかけてくださるのです。

神さまはかつてご自分のお名前は「わたしはある、わたしはある」(出エジプト記3:14)であるとモーセに告げられました。これを旧約聖書のヘブライ語では「エフィエ アシェル エフィエ」と言います。

カ行、タ行、濁音、破裂音のない静かな音です。ささやくような音です。

モーセと同じようにエリヤにも、そして、わたしたちにも、神さまは「わたしはいる、たしかに、ここにいる、あなたとともに」と静かに語りかけてくださいます。


2024年2月9日 金曜日

おはようございます。

イエス・キリストより800年以上昔、イスラエルの預言者エリヤは干ばつを預言したり、神さまが生きて働いておられることを示したりしましたが、王家に命を狙われ、荒れ野に逃亡します。

彼は精魂尽きて座り込んで訴えます。

列王記上19:4 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」

けれども、神さまはそれを許しませんでした。

19:5 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」19:6 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。19:7 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。19:8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

わたしたちの人生がどんなに苦しく耐えがたいときでも、神さまは「起きて食べよ」と言ってくださり、御言葉でわたしたちを養い、聖霊で力をみなぎらせてくださいます。

ですから、わたしたちに、四十日四十夜歩き続けることができます。

神さまとともに。イエス・キリストに支えられて。


2024年2月8日 木曜日

おはようございます。

イスラエルはソロモン王の死後、紀元前930年に、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。

そして、紀元前870年ごろ、北にエリヤという預言者が登場します。

そのころ、飢饉が起こり、エリヤはサレプタというところの、あるやもめを訪ね、やもめは最後の粉でパン菓子を焼きます。ところが、なくなったはずの粉がなくならないのです。

列王記上17:16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

また、やもめの一人息子が病気で息を引き取りますが、息を吹き返します。

17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。

この900年後、イエス・キリストは、わずかな食料を何千人もの人びとのお腹を満たす恵みとし、あるやもめの死んだ息子を起き上がらせたのでした。

神さまは、わたしたちが何一つ希望を持たないときにも、あふれるばかりの希望をもたらしてくださり、わたしたちの望みがすべて絶えたときにも、もういちど起き上がらせてくださいます。


2024年2月7日 水曜日

おはようございます。

神殿を築いたソロモン王に神さまは、ふたつの道を示します。

ひとつは、祝福の道です。

列王記上9:4 もしあなたが、父ダビデが歩んだように、無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法を守るなら、9:5 あなたの父ダビデに、『イスラエルの王座につく者が断たれることはない』と約束したとおり、わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる。

もうひとつは、罰の道です。

9:6 もしあなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ去り、わたしが授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、9:7 わたしは与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。

そして、ソロモンの後、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、北はやがてアッシリアに滅ぼされ、その後、南もバビロニアに滅ぼされ、民はバビロンに連れ去られ、捕囚の身となります。バビロン捕囚です。

これは、ソロモンからおよそ400年後のことですが、バビロンの地で、イスラエルの民は、王と民が神さまから離れてしまった結果この罰を受けている、と悔い改めます。

わたしたちは、イエス・キリストによる罪の赦しを信じますが、その前提には、罪とは、赦されないほどに、そして、罰を受けなければならないほどに、深く大きく根本的な問題であることを、よくよく理解したいと思います。

その上で、それほど大きなわたしたちの罪を赦し、罰を免除してくださる、イエス・キリストの救いをあらためてかみしめようではありませんか。

もうじき受難節に入り、イエス・キリストの十字架の道をわたしたちは聖書を読み心に思い浮かべますが、この道は、国が滅ぼされ民が捕囚の身となるほどの罪と罰を、こんどは、イエス・キリストがなんとおひとりで引き受けてくださった出来事である、と言っても、まったくの見当違いではないでしょう。


2024年2月6日 火曜日

ソロモン王は神殿を作りました。そして、祈ります。

列王記上8:27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。8:28 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。8:29 そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。

どんなに立派な神殿にも教会堂にも、わたしたちがそこに神さまを閉じ込めてしまうことはできません。どんなに頭脳明晰でもどんな信仰でも、わたしたちがそこに神さまを閉じ込めてしまうことはできません。

それにもかかわらず、神さまは、教会堂においてわたしたちとともにいてくださいますし、わたしたちの信仰と賛美と祈りにおいてわたしたちとともにいてくださいます。

それは、神さまがわたしたち「僕(しもべ)の祈りと願いを顧み」「御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてくださり」「この所に御目を注いでくださる」からなのです。

わたしたちのつたない、けれども精一杯の信仰と祈りを、神さまはしっかりと受け止めて、そこにお越しくださいます。

「地上にお住まいにならない神さま」が、その本来のお姿を捨てて、地上にお住まいになられ、わたしたちとともにいてくださる。それがイエス・キリストなのです。

わたしたちキリスト教会は二千年間このような信仰をいただいてきたのです。


2024年2月5日 月曜日

おはようございます。

ダビデの次は、ダビデの子であるソロモンが王となりました。

神さまはソロモンに言いました。

列王記上3:5 その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。

ソロモンは神さまに答えます。

3:7 わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。3:8 僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。3:9 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。

ソロモンは神さまの前で自分は「僕」であると答えます。また、「取りに足らない若者」「どのようにふるまうべきか知らない」と言います。

わたしたちも神さまの前で、自分は神さまの僕(しもべ)であり、神さまにお仕えする者である、また、自分は何かを分かっているような者ではなく、むしろ、無知な者である、と告白します。

「民を裁く」とは民を罰することではなく、むしろ、民のために正義をなすということでしょう。

神さまはソロモンに言われます。

3:11 あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。

ソロモンは、自分の利益や、敵を滅ぼすことではなく、むしろ、民のことを望んだ、と言うのです。

わたしたちは、自分の癒しや救いは、当然、せつに祈りますが、自分が得をすることではなく、自分以外の人が安らかで幸せになることを祈り続けようではありませんか。

なによりも、友の平安、癒し、被災者の再起、戦争の終わりを、神さまに祈ろうではありませんか。

じつは、ソロモンはこの祈りにもかかわらず、祈りに反し、自分の富を求めたようです。

けれども、イエス・キリストは違います。

イエス・キリストは、ご自分のことではなく、わたしたちのことを神さまに祈ってくださり、それゆえに十字架への道を歩まれたのです。


2024年2月4日 主日(日曜日)

おはようございます。

ダビデは、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」(詩編23編)と神さまを賛美しました。

その千年後、ダビデの家系から生まれたイエス・キリストは、一匹と九九匹の羊のたとえをなさいました。

ルカによる福音書15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

イエス・キリストは、さらに、放蕩息子のたとえ話をなさり、こう言われました。

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

イエス・キリストはわたしたちの羊飼い。わたしたちがどこか遠くに行ってしまっても、探しに来てくださり、見つけ出してくださいます。

わたしたちがイエス・キリストのもとに帰ろうとする場合でも、まだ遠くにいても、やはり、見つけて、胸を熱くして、駆けつけて、抱きしめてくださいます。

そして、イエス・キリストは、牧草と水で、わたしたちの魂を生き返らせてくださいます。


2024年2月3日 土曜日

おはようございます。

ダビデ王は詩人でもありました。

23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。

神さまはわたしたちを導いてくださる羊飼いです。たとえ、なにひとつ持っていないと思えても、神さまがおられるから、わたしたちにはすべてがあるのと同じです。

神さまは、羊を牧草と水のあるところに連れて行くように、わたしたちの心と体を養ってくださいます。

打ちひしがれたわたしたちの心をもう一度いのちで満たしてくださいます。神さまは「主」の名の通りに、わたしたちをもう一度歩むべき道へと連れ戻してくださいます。

23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

灼熱で水も乾ききった谷を歩まなければならない時も、神さまがわたしたちとともにいてくださいます。何も恐れません。杖と鞭で羊の群れを前に進ませる神さまの声が、わたしたちを力づけてくださいます。

どんな苦しみに直面する日々であっても、神さまは神さまのテーブルでわたしたちをもてなしてくださいます。神さまの恵みと慈しみは、生涯、わたしたちを追いかけてきてくださいます。


2024年2月2日 金曜日

おはようございます。

ダビデの生涯全体は神さまに祝福されていましたが、ダビデは罪人でもありました。

わたしたちも罪人であるにもかかわらず、神さまはわたしたちの人生を祝福してくださいます。

ダビデはバト・シェバという女性を自分のところに呼びつけ、バト・シェバはダビデの子を宿します。

ダビデはそれをごまかすためにバト・シェバの夫で兵士のウリヤを戦争の最前線に行かせ、戦死させます。

かつて王を求めた民にサムエルを通して神さまが、王は人びとを徴用し人びとは泣き叫ぶ、と言われたことがここでも現実となります。

預言者ナタンはダビデ王をウリヤのことで叱責します。

サムエル記下12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。

ダビデは自分の罪を認め、告白しました。その罪を贖(あがな)うことができるのは、神さましかおられません。

詩編51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

ダビデは自分の罪を告白し、神さまの裁きに委ねました。

51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。

わたしたちもダビデとともに、自分の罪、自分がどこまでも自分中心であり、神さまをも利用しようとしてしまっていることを告白し、罪が赦され、ほんとうに清い心に、ほんとうに新しく確かな霊に、造り変えていただくことを、心の底から、いつわりなく、誠実に祈り求めようではありませんか。


2024年2月1日 木曜日

おはようございます。

イスラエルの王となったダビデに神さまはこのように言われます。

サムエル記下7:16 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。

これに対して、ダビデはこのように答えます。

7:18 主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。7:19 主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。

ダビデは神さまの祝福を受けつつも、自分の小ささ、人間の小ささをわきまえていました。

ところで、「あなたの王国はとこしえに」という神さまの言葉にもかかわらず、ダビデの治めたイスラエル王国はやがてイスラエル王国とユダ王国に分裂しさらにはどちらも滅びてしまいます。

けれども、神さまの民としてのイスラエルは続きました。キリスト教は教会が神さまの民の後継者であると信じています。

ダビデが言うようにわたしたちは小さく罪深い人間ですが、それにもかかわらず、神さまはわたしたちをご自分の民としてくださるのです。


2024年1月31日 水曜日

おはようございます。

ダビデについては、サムエルに油を注がれる、サウル王の心を慰めるために側で竪琴を奏でる、巨人ゴリアトを小石で倒す、サウル王に命を狙われる、サウル王の息子ヨナタンと友情を交わす、サウル王を殺す機会があったがそうしなかった、というようなエピソードがサムエル記上に記されています。

そして、ダビデは王となります。

サムエル記下5:3 ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。5:4 ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。5:5 七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。

このようにダビデの人生は山あり谷ありで、彼自身にも良い面もあれば闇の面もあったのですが、神さまはダビデの人生とともにおられ続けました。

わたしたちは王になったり、あるいは、何かの功を成し遂げたりするわけではなくても、やはり、人生の良いときも良くないときも、わたしたちに悪人と善人の両面があっても、神さまは生涯ともにいてくださることを信じます。


2024年1月30日 火曜日

おはようございます。

民の求めゆえに、サムエルはサウルに油を注ぎ、王とします。

けれども、サウルは神さまの言葉に従いませんでした。

サムエル記上15:3 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。

神さまのこの言葉もわたしたちの理解を越えています。

けれども、サウルは神さまに仕えることを自分の私利私欲達成にすりかえてしまったことが、問われているのではないでしょうか。

15:12 サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建てた。

15:13 サムエルがサウルのもとに行くと、サウルは彼に言った。「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました。」15:14 サムエルは言った。「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」

神さまの名前を持ち出しながら、じつは、自分を誇ろうとしたり、私欲を満たそうとしたり、私腹を肥やそうとしたりした者は歴史の中に数多くいます。

15:23 反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。

神さまは王を求めた民に王の危うさを警告を発していましたが、最初の王から、ある意味、それが現実になってしまったようにも思われます。

神さまはサウル王を降ろし、ダビデを王に選ばれます。

神さまはわたしたちが隠している罪を見抜いてくださり、打ち砕いてくださり、わたしたちをどこまでも建て直そうとしてくださいます。


2024年1月29日 月曜日

おはようございます。

エジプトを脱出して以来、イスラエルの民には、モーセ、ヨシュア、士師たち、サムエルといった指導者はいましたが、王はいませんでした。けれども、民は王を欲しがりました。

神さまはサムエルにこう言います。

サムエル記上8:7 民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。8:8 彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。8:9 今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。

王を置くことは望ましくない、「わたし(神さま)が王」だからだ、民はこれまでも「わたし(神さま)を捨てて他の神に仕え」てきた、民は神さまを捨てて王に仕えるかも知れない、けれども、民の言うままに、王を決めなさい。ただし、王の問題点を教えておきなさい、と神さまは言われるのです。

神さまは、ご自分の本来の御心にあわないことでもわたしたちの求めに応じてくださることがあるのでしょう。それほどにわたしたちの声を聞いてくださるのでしょう。

けれども、それが本来神さまの御心にあわないことであるならば、なぜ御心にあわないのかも示してくださるのでしょう。

神さまは、サムエルを通して、人間の王は民を兵として、また、宮廷の調理などのために徴用する、畑や財産を徴収する、そして、神さまから見捨てられたと思われるほどに苦しむことになる、と民に警告します。

これは、数百年後現実となり、王の政治や戦争の結果、イスラエルの民は外国に滅ぼされ、バビロンの地で捕囚になってしまいます。

しかし、その時、民は、自分たちが神さまに背いてきたことに気づき、神さまは、あらためて、そこから民を救い出してくださることになります。

神さまは不本意ながらわたしたちの求めに応じてくださることがある、その結果、あたかも神さまに見捨てられてしまったかのような苦境にわたしたちが陥っても、そこから救い出してくださる、ここにも、神さまのわたしたちへの深い愛があると信じます。


2024年1月28日 主日(日曜日)

おはようございます。

ルツの曾孫(ひまご)にあたるのがダビデです。ダビデに油を注いだのはサムエルです。

サムエル記上16:12 主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。

サムエルは子どものころ神殿の祭司エリのもとで育ちました。

主は少年サムエルに語りかけられました。

サムエル記3:10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

神さまは、聖書を通して、祈りを通して、あるいは、さまざまな場面で、わたしたちに、名前で呼びかけてくださいます。

わたしたちが気づかない時も、じつは、神さまはそうしてくださいます。

ですから、わたしたちもサムエルとともにこう答えましょう。

「どうぞお話しください。しもべは聞いております」

聖書を読むとき、祈るとき、礼拝のとき、わたしたちは、神さまに耳を傾けることが大切です。

人生は、わたしたちが語る以上に、神さまのお言葉を聞く場なのです。


2024年1月27日 土曜日

おはようございます。

モーセの後継者はヨシュアでした。そして、ヨシュアの後は、イスラエルの民は士師(しし)と呼ばれる人びとによって導かれました。

王はまだいませんでした。神さまこそが民の王であったので、王は要らなかったのです。

その時代、ナオミという女性がいました。ナオミはユダ(イスラエルの南の部分)が飢饉に襲われたので、モアブという異邦の地(外国)に避難します。そこで、ナオミの息子は、異邦人のルツと結婚します。ところが、息子は死んでしまいます。

ナオミはルツをモアブに残して、自分一人ユダに帰ろうとしますが、ルツはこう言います。

ルツ記1:16 わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。

こう言って、ルツはナオミとともにユダに来ました。

神さまは異邦人を斥けてはいなかったのです。

ルツはユダに来て、ボアズというユダの人と出会い、子どもが生まれます。

その子どもからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれ、イスラエルの王となり、また、イエス・キリストはそのずっとのちの子孫となります。

マタイによる福音書1:5 ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。

イエス・キリストが救い主であるという福音は、ガリラヤやユダの人びとから始まり、異邦人へと伝わっていきますが、イエス・キリストの家系にも異邦人がいたのです。

神さまは、わたしたちを分け隔てなく愛し、分け隔てなく救ってくださいます。わたしたちが何人であろうと、性別がなんであろうと、仕事が何であろうと、分け隔てなく愛してくださいます。

わたしたちがどんなに弱く、どんなに罪深く、どんなにだめで、どんなに神さまから離れてしまった人間であっても、神さまは愛によって、わたしたちを受け入れ、救ってくださるのです。


2024年1月26日 金曜日

おはようございます。

ヨシュアに導かれたイスラエルの民は、約束の地、乳と蜜の流れる土地に入ります。

そのためには、ヨルダン川を東から西に(北を上にした地図では右から左に)渡らなければなりません。

その際、民に一つのことが告げられます。

ヨシュア記3:3あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。3:4 契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。

契約の箱には十戒、神さまの言葉が刻まれた石の板が収められています。民を本当に導いているのは神さまであり、神さまの御言葉だったのです。

わたしたちが一度も通ったことのない道を歩むとき、主と主の御言葉が道を示してくださいます。

3:17 主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

イスラエルの民がエジプトを脱出した直後、目の前に海が立ちはだかったけれども、神さまはそこに道を創ってくださったように、主はヨルダン川の水をもせきとめてくださり、民は向こう岸へと渡ることができたのです。

わたしたちの人生においても、たびたび越えられない水に遭遇しますが、主がかならずそこに道を切り開いてくださいます。


2024年1月25日 木曜日

おはようございます。

自分は入れなかったけれどもピスガの山頂から眺めることがモーセに許された約束の地の幻は、ヨシュアに受け継がれます。

ヨシュア記1:1 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。1:2 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。1:3 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。1:4 荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。

ちなみに、ヨシュアとは「ヤハウェ(神さまのお名前、主)は救いである」という意味で、イエスというお名前は、この発音が少し変化したものだと言われています。

神さまはヨシュアに続けて言います。

1:5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。1:6 強く、勇敢であれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。

神さまは、ヨシュアとともにわたしたちにも約束してくださいます。

一生の間、わたしはモーセやヨシュアと共にいたように、あなたと共にいる。

あなたを見放すことも、見捨てることもない。

強く、勇敢であれ。

わたしはあなたをかならずわたしの国に迎え入れる。

いや、あなたはもうすでにわたしの国、神の国にいるのです。


2024年1月24日 水曜日

おはようございます。

約束の地、乳と蜜の流れる土地を前にして、モーセはネボ山(ピスガの山頂)に登りました。

そこからは、その土地全体が見渡せたのです。

神さまは言われました。

申命記34:4 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」

モーセは約束の地には入れませんでした。けれども、無念はありません。見ることは許されたのです。

わたしたちも地上の生においては、その実現の場に居合わせることができないものがいくつもあります。子どもの成長、教会の未来、平和な世界、そして、地上における神さまの国。

けれども、神さまがそれは実現してくださる、という希望があります。この希望において、わたしたちは、子どもの成長、教会の未来、世界平和、神さまの国を見るのです。山頂から緑の平野を眺めるように。

34:7 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。

わたしたちも同じです。年は重ねますし、肉体は衰えますし、視力も弱りますが、神さまを仰ぎ見る信仰の目と活力を、神さまはいよいよ強めてくださいます。


2024年1月23日 火曜日

おはようございます。

神さまはわたしたちにほんとうにゆたかな恵みをお与えくださいます。

わたしたちはそれにこころからの感謝をいたしましょう。

申命記26:5 わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました・・・26:6 エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。26:7 わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、26:8 力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、26:9 この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。26:10 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。

 イスラエルは今にも滅んでしまいそうな小さな民で、身を寄せたエジプトで奴隷とされ、ひじょうに苦しめられました。けれども、神さまは、民の苦しみの祈りを聞いてくださり、助け出して、アブラハムの時から約束していた「乳と蜜の流れる土地」に導き入れてくださいました。そして、民は「主が与えられた地の実りの初物」を主におささげしたのです。

 ふりかえれば、わたしたちもこれまで神さまにたしかに導かれ、今日もゆたかに生かされています。今日もふかく愛されています。

 このことにしみじみ感謝しつつ、「神さま、おおきなおおきな愛と恵みと救いを、ほんとうにありがとうございます」と、こころのそこからおいのりいたしましょう。

2024年1月22日 月曜日

おはようございます。

モーセはこう言います。

申命記18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

モーセの時代からおよそ1300年後、イエス・キリストは、シナイ山ではありませんが、おそらくはガリラヤの山に登り、山上の説教をなさいました。

マタイによる福音書5:3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

5:13 あなたがたは地の塩である。

5:14 あなたがたは世の光である。

5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

かつてモーセがシナイ山でイスラエルの民に神さまの律法を伝えたように、イエス・キリストはガリラヤの山でわたしたちに神さまの御言葉を語ってくださるのです。

それは、かつての律法をさらに深めたものであり、同時に、悲しむわたしたちを慰めてくださる御言葉でもあるのです。


2024年1月21日 主日(日曜日)

おはようございます。

約束の地を前にして、モーセはイスラエルの民へのスピーチを続けます。

申命記7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

つまり、神さまは、わたしたちを、大事な民としてくださったのです。神さまは、わたしたちを、ご自分の宝としてくださったのです。神さまはわたしたちに「あなたはわたしの宝物」と言ってくださるのです。

それは、わたしたちが立派だからではありません。むしろ、わたしたちは、自分の弱さを知っています。

それでも、神さまは、わたしたちを愛してくださる、ただそれゆえに、閉ざされた部屋の中で苦しんでいるわたしたちの手を取り、木洩れ日がやさしい林へと導きだしてくださるのです。


2024年1月20日 土曜日

おはようございます。

神さまはかつてアブラハムに約束なさいました。

創世記13:14 主はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。13:15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ・・・それから数百年経たモーセの代にいたり、今、この約束が実現しようとしています。

ここで、モーセは、シナイ山で神さまからいただいた律法を、約束の地の手前で民の前でもう一度「解き明かし」(申命記1:5)ます。

申命記6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

律法には細かい規定があったり、現在のわたしたちには理解しがたいものも多く含まれていたりしますが、イエス・キリストは、律法のポイントを以下の二点に絞られました。

マタイ22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

申命記6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。6:8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、6:9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

律法は「しなければならないこと」「してはならないこと」の羅列に留まりません。神さまと隣人を愛することは、神さまからわたしたちへの課題であるだけでなく、導きでもあります。

「あなたの神である主を愛しなさい」とは、「神さまはあなたを導いてくださる主です。ひたすらこの主を慕い求めて生きていきましょう」という、神さまからわたしたちへの案内でもあるのです。

そして、この案内は、わたしたちが家にいる時も道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、わたしたちを離れないのです。神さまの御言葉は、いつでも、どんなときでも、わたしたちとともにいてくださるのです。


2024年1月19日 金曜日

おはようございます。

イスラエルの民は、神さまの御言葉である十戒を授けられ、それが刻まれた石板の入った契約の箱とともに荒れ野を進みました。

けれども、民は荒れ野には水がない、これならば、エジプトに留まって、そこで死んだ方がましだった、と不満をぶちまけます。

神さまはモーセに命じて杖で岩を二度打たせます。

民数記20:11 モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。

すると水がほとばしり出て、民の喉を潤わせました。

この水は「メリバの水」と呼ばれます。

メリバとは「争い」という意味です。民が神さまと争ったということでしょうか。

わたしたちも、神さまに不満をぶちまけないでしょうか。

神さまは、それにもかかわらず、ほとばしり出る水でわたしたちの喉を潤してくださいます。

神さまは、わたしたちのあらゆることをご存じですが、「それにもかかわらず」、わたしたちを愛しぬいてくださいます。

ただし、神さまが聖なるお方であることを民に示せず、むしろ、民は神さまを不満の対象にしてしまったゆえに、リーダーのモーセは「約束の地」に入れなくなってしまい、残念にも思われますが、どうなのでしょうか。この話は、また後日に出てきます。


2024年1月18日 木曜日

おはようございます。

神さまはシナイの荒れ野のシナイ山(「ホレブ山」「主の山」)でモーセを通してイスラエルの民に十戒と律法をお与えになりました。

これは、たんなる規則、決まりごとであるだけでなく、奴隷の地エジプトから解放された民の新しい生活を導くためのものでもありました。

民数記10:33 人々は主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱はこの三日の道のりを彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。10:34 彼らが宿営を旅立つとき、昼は主の雲が彼らの上にあった。

この契約の箱には何が入っているのでしょうか。

申命記4:13 主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。

列王記上8:9 箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。

十戒が収められた契約の箱が、シナイを出て旅を続けるイスラエルの民の先頭に立ち導きました。また、「彼らの休む場所を探した」とあります。

同じように、神さまの御言葉が、人生の旅をするわたしたちを導き、また、わたしたちに安息を与えてくださるのです。


2024年1月17日 水曜日

おはようございます。

「出エジプト記」につづく「レビ記」には、神さまがモーセを通してイスラエルの民に与えられた律法が記されています。

そこには、理解が難しいものもありますが、現在のわたしたちの信仰生活に通じる戒めもあります。

レビ記19:2 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。

これは、「神さまは聖なるお方だから、わたしたちも聖なる者になりましょう」ということであり、言い換えると、「神さまがわたしたちを愛してくださるのだから、わたしたちもたがいに愛し合いましょう」というわたしたちの信仰につながっているのではないでしょうか。

レビ記19:9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。19:10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。

これは、貧しい人びとや外国から来てイスラエルに身を寄せている人びと(もおそらく貧しいのでしょう・・・)と食べ物をわかちあいなさい、ということでしょう。

つまり、神さまはわたしたちに心身両面でゆたかな恵みをくださるのだから、わたしたちはそれを隣人とわかちあいましょう、ということではないでしょうか。

「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」という、神さまからのわたしたちへのお招きの御言葉は、このように具体的なことがらで言い表されることもあります。


2024年1月16日 火曜日

おはようございます。

神さまはモーセを通してイスラエルの民に十の戒めを与えました。その戒めは、神さまの愛に裏付けられたものでした。

また、神さまはモーセにこのように言われました。

出エジプト記33:19 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」

これは、神さまはある人びとを恵もうとするが、ある人びとは恵もうとしない、というよりも、神さまはわたしたちがどんな人間であってもご自分の愛と恵みのお心から、恵み、憐れんでくださるということではないでしょうか。

34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

「罰すべき者を罰せずにはおかず」とあります。これは、わたしたちの罪の深さと、罪を憎む神さまのお心が示されています。

けれども、神さまはわたしたちを憎むことも罰することもなさいませんでした。

神さまの独り子イエス・キリストが、十字架の上で、わたしたちの代わりに、罪の罰を受けてくださったのです。

神さまはわたしたちが罪人であるにもかかわらず、ご自分のお心によって、恵み、憐れんでくださるのです。


2024年1月15日 月曜日

おはようございます。

神さまはモーセに十の戒めをあたえましたが、その冒頭には、神さまが民をエジプトから救い出したことが述べられています。つまり、神さまは戒めをわたしたちに与えるその前に、わたしたちを愛し、救ってくださるのです。言い換えますと、戒めには、律法(あなたたちは~しなさい)だけでなく、福音(神さまは~してくださる)の側面があるのです。

出エジプト記20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

わたしたちは神さま以外のものに仕えてはならないのですが、神さまはわたしたちを支配するすべてのものから解放し、ただ神さまにだけお仕えできるようにしてくださったのです。

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

わたしたちは神さまの名前を乱用してはなりませんが、神さまはわたしたちが神さまのお名前を誠実に唱えるように導いてくださるのです。

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

安息日はわたしたちが休んで神さまを礼拝する日ですが、神さまがこの安息の日を創ってくださったのです。

20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

安息日にわたしたちすべてのものは主とともに安息することが許されているのです。

20:12 あなたの父母を敬え。

わたしたちは父母を大切にして生きることが神さまに許されています。

20:13 殺してはならない。

わたしたちには人を押さえつけず、殺さない生き方が与えられています。

20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 隣人に関して偽証してはならない。
20:17 隣人の家を欲してはならない。

わたしたちは家族や隣人を大切にしなければなりませんが、神さまはわたしたちが家族や隣人を大切にする愛の道を与えてくださいます。


2024年1月14日 主日(日曜日)

おはようございます。

荒れ野を旅するイスラエルの民は、シナイ山のふもとに到着しました。

神さまは、シナイ山の頂上で、モーセに十の戒め、つまり、十戒を授けます。

最初に、とても大切なことが語られます。

出エジプト記20:2 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

神さまは、「~しなさい」「~してはならない」という戒めの言葉を並べる前に、「わたしは、あなたたちを導く神です。あなたたちを苦しめたエジプトから救い出しました」と言われるのです。

神さまは、わたしたちにいくつかの戒めを語る前に、まず、ご自分がわたしたちを救ってくださったことを、これからも救ってくださることを、確認してくださるのです。

もっとわかりやすく言えば、神さまはわたしたちに、「あなたたちは神さまと隣人を愛しなさい」という戒めを述べる前に、神さまは、「わたしはあなたたちを愛してきました。これからもあなたたちを愛していますよ」と確認してくださるのです。

これが「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という御言葉の意味です。

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

イスラエルをエジプトから救ってくださった神さま、わたしたちを愛してくださる神さまだけが神さまです。エジプト王ファラオも、この世の支配者も、お金も、権力も、財産も、お酒も、食べ物も、人間関係も、これらは神さまではありません。

わたしたちはこれらのものに支配されてはなりませんし、神さまがわたしたちの主なのですから、もうこれらのものに支配されなくてもよいのです。

イスラエルの民はもうファラオに支配されなくても良いのです。

わたしたちはもう何ものにも支配されなくても良いのです。

神さまがわたしたちの主となってくださったのですから。

神さまこそがわたしたちを治めてくださるのですから。


2024年1月13日 土曜日

おはようございます。

神さまは、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの民を救い出してくださいました。うしろにはエジプト軍が追い迫り、まえには海が立ちはだかるときは、神さまは海の中に道を造り、民を前へと進ませてくださいました。

そして、民は荒れ野に入ります。そこには食べ物がなく、空腹が民を襲います。けれども、ここでも、神さまが救ってくださいます。

出エジプト記16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。16:15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。

16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。

神さまはこのマナを人びとに等しく与えてくださいます。

16:16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」16:17 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。16:18 しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。16:19 モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。

神さまはわたしたちに、「必要」なものを「日毎」に与えてくださいます。だから、マナを翌朝まで残しておく必要はない、と言われるのです。

我らの日用(日毎)の糧を今日も与えたまえ(主の祈り)。

マタイ6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

ルカ11:3  わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

神さまはたしかにそうしてくださいます。


2024年1月12日 金曜日

おはようございます。

モーセがいくら交渉してもエジプト王ファラオはかたくなでしたが、自然界と死をも治められる神さまの圧倒的な力を前にして、ついにイスラエルの民は解放され、約束の地に向かって進みます。神さまはその旅をも導かれました。

出エジプト記13:21 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。

わたしたちの人生も同じです。希望に満ちている時も、絶望しか見えない時も、神さまが、昼は先だって進み導き、夜は光で照らしてくださいます。

けれども、エジプト軍がイスラエルの民を追いかけてきました。後ろからはエジプト軍が迫り、前には海が立ちはだかります。

14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

わたしたちの人生も同じです。たとえ、大きな問題が起こって、もう前に進めないように思えても、神さまはその困難を一晩中、困難のある間ずっと、その困難を「押し返」してくださり、わたしたちのために道を創ってくださいます。

イザヤ書43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。

わたしたちには歩けないような荒野に思えても、神さまはわたしたちのために道を敷いてくださいます。


2024年1月11日 木曜日

おはようございます。

モーセはイスラエルの民を解放するためにエジプト王ファラオと交渉します。

神さまは、エジプト中の水が血に変わる災い、蛙の大量発生、ぶよの大量発生、あぶの大量発生、疫病、はれ物が生じる病気、雹、いなごの大量発生、三日間に及ぶ暗闇といった災いをもたらしますが、ファラオの心はかたくなで、民を解放しません。

そこで、神さまは最後の手段に出ます。

出エジプト記12:12 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。

けれども、イスラエルの民はこの災いをまぬかれました。

12:5 その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。12:6 それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、12:7 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。

12:13 あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。

小羊の血を玄関に塗っておけば、そこの家の初子は撃たれないのです。

これは、過越(すぎこ)しの小羊と呼ばれますが、モーセの時代から1300年後、イエス・キリストが最後の過ぎ越しの小羊となり、わたしたちの救いを完成してくださった、と新約聖書は証ししています。

「過ぎ越す」とは、初子を撃つ災いはその家には入らないで「通り過ぎていく」「そこはパスする」、という意味ですが、同時に、奴隷の身分から解放へ、束縛から自由へ、絶望から希望へ、苦しみから平安へ、死から生へ、滅びから永遠の命へと、わたしたちが「パスされる」「渡される」「移される」という意味合いも秘められているとも言われます。

神さまによる決定的な滅びはわたしたちのところをパスしてくださいますが、神さまはわたしたちを、絶望から希望へ、苦しみから平安へ、死から生へ、滅びから永遠の命へパスしてくださるのです。


2024年1月10日 水曜日

おはようございます。

エジプトで奴隷の身になっていたイスラエルの民を救い出すために、神さまはモーセをエジプト王ファラオのところに遣わします。

出エジプト記3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。

モーセは神さまに尋ねます。

3:13 わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。

神さまはお答えになられます。

3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

「わたしはある、わたしはある」とは不思議な名前ですが、これは「わたしはあってあるもの」とか「わたしはわたしがなるものになる」とか、いろいろと訳されます。

これにはどういう意味があるのでしょうか。これもいろいろ考えられますが、「わたしはここにいる、わたしはここにいるよ」という響き、「わたしはたしかにここにいるよ」という響きが感じられます。

夜中に目覚めた小さな子どもが親に「どこにいるの」と尋ね、親が「おかあさんはここにいるよ、ここにいるよ」と答えるときのように。

また、神さまはこのように言っておられます。

3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」

これらを合わせて考えますと、「わたしはある、わたしはある」という神さまのお名前には、「わたしは、たしかに、あなたと一緒にいますよ」という響きを感じます。


2024年1月9日 火曜日

おはようございます。

ヤコブの子どもたちの時代に、イスラエルの民は飢饉に見舞われ、エジプトに避難します。そこでは、ヤコブの息子の一人ヨセフが大臣になっていて、民を保護し、この時から、イスラエルの人びとはエジプトに住むことになります。

ところが、数百年の時が経つ中で、イスラエルの民はエジプトで奴隷として過酷な労働を強いられるようになります。また、男児はナイル川に流されます。

モーセもナイル川に流されますが、パピルスの籠に入れられていて、また、家族の機転もあり、救われ、王女の保護を受けます。

成人したモーセは、自分の同胞であるイスラエルの民に暴力をふるうエジプト人を殺してしまい、ファラオの怒りを買い、エジプトから逃げ出し、ミディアンの地のエトロという人のところに身を寄せます。

モーセはそこで羊を飼いますが、ある日、燃え尽きない柴の炎の中に神の使いが現われます。神さまはモーセに言います。

出エジプト記3:6 わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」

神さまは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、ヨセフの神であり、モーセの神であり、わたしたちの神さまです。

そして、神さまはわたしたちにも同じことをしてくださいます。

神さまは、わたしたちが苦しんでいるとき、その苦しみをすべて「見」てくださいます。

わたしたちが声に出したり、声にならなかったりして叫ぶとき、神さまはそれを「聞」いてくださいます。

神さまはわたしたちの「痛みを知って」くださいます。

神さまは天からわたしたちのところまで「降って」来てくださり、わたしたちを苦しめるものから「救い出」してくださいます。


2024年1月8日 月曜日

おはようございます。

アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブ、ヤコブには12人の息子がいましたが、そのうちのヨセフは他の兄弟に妬まれ、エジプトに売られてしまいました。

しかし、そこで才覚を発揮し、エジプトの大臣になり、あたり一帯の大飢饉を乗り越える政治をします。

そこに、かつて自分を売った兄弟たちが食料を求めてやってきますが、ヨセフは恨むことなく、むしろ、自分がエジプトに売られたことは、神さまの救いのご計画だったと言うのです。

創世記45:5 命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。45:6 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。45:7 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。

ヨセフは、兄弟たちを赦します。

創世記50:20 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。50:21 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。

わたしたちの人生には悪いこと、苦しいこと、傷つけられること、自分の願いとは違うこと、不幸なことなどが起こります。神さま、どうしてですか、と嘆くことも起こります。

ローマの信徒への手紙8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

「万事が益となった」ことが実感されるのは、すぐとは限らず、何十年もの時間がかかることもあります。

今は苦しい、今はこの苦しみの意味は分からない、ということでも良いのです。

けれども、やがて、神さまが益へと導いてくださる、そして、今の苦しみは神さまの益が現われる時までの道のりであったことが明らかになる、と信じましょう。

わたしたちは、これを希望と呼びます。


2024年1月7日 主日(日曜日)

おはようございます。

騙すようなことをしてまで父イサクの祝福を得たヤコブですが、兄の恨みを買い、故郷から逃げ出し、伯父ラバンのもとに身を寄せます。

その地で結婚し、やがて、子どもを与えられ、家畜の群れを育て、故郷に帰ることにします。

かつて故郷を出るとき、天と地を結ぶ階段を夢で見て、神さまから「わたしはあなたと共にいる」という祝福を受けたのと同じように、いま故郷に戻ろうとするとき、また、あることが起こります。

創世記32:25 何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

ヤコブがかつて父を騙し兄を怒らせてまで手に入れた父イサクからの祝福は、具体的には、家督を相続することでした。

けれども、ヤコブは、それにまさる祝福を神さまから受けたのです。それは、旅の始めに「わたしはあなたと共にいる」という言葉によってすでに受けていたものでしたが、旅の終わりに何者かと格闘ことで再確認されます。

神さまの祝福はわたしたちが神さまから奪い取るものではなく、神さまがわたしたちに与えてくださるものですが、それでも、祝福を与えてくださる神さまにしがみついて離れないヤコブの姿勢は、わたしたちの信仰の大事な模範のひとつでありましょう。

神さまはわたしたちの手を握って離しません。わたしたちも神さまの手を強く握りしめましょう。

神さまはいつもわたしたちと共にいてくださいます。わたしたちも神さまと共にいつづけましょう。


2024年1月6日 土曜日

おはようございます。

アブラハムの子イサクには、エサウとヤコブという息子がいましたが、ヤコブはエサウを出し抜いて、イサクから祝福を受けます。これはイサクがヤコブに家督を相続させることを意味しました。

これを知ってエサウは怒り、ヤコブは逃亡の旅に出ます。

不安の中、野宿をしつつ、ヤコブは夢を見ます。天から地上まで階段が伸びていて、天使がそれを上り下りしています。

すると、ヤコブの傍らには神さまがおられ、言われます。

創世記28:13わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。

子孫、土地、世界の祝福。これは、神さまが、ヤコブの祖父アブラハム、父イサクにも約束してきたことでした。ヤコブも神さまの民としてこの約束を受けます。

神さまを信じるわたしたちも、この神さまの民の一員です。わたしたちも神さまの祝福の約束をいただいているのです。

神さまはヤコブにさらに言われます。

創世記28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。

神さまは、ヤコブに、神さまの民に、わたしたちに、「わたしはあなたと共にいる」「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」「わたしはあなたをわたしの元に連れ戻す」「わたしはあなたを決して見捨てない」「わたしはこの約束を決して破らない」と言われるのです。

「わたしはあなたと共にいる」「わたしはあなたを決して見捨てない」

神さまはあなたにこのように約束してくださいました。

この約束はけっして破られません。この約束は今日も生きています。

神さまは、今、あなたと共におられます。


2024年1月5日 金曜日

おはようございます。

いのちをはじめ、すべてのものは、神さまがわたしたちにあたえてくださったものです。

神さまが与えてくださった子イサクを神さまにお返ししなければならないような事態がアブラハムに訪れました。

アブラハムはそれを覚悟しました。

創世記22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

神さまはどうしてこのようなことをアブラハムに命じ、アブラハムはどうしてそれに従うのか、これは、わたしたちの理解を越えています。

けれども、何とか考えるとするならば、旧約聖書ではずっと後に登場するヨブの信仰が思い出されます。

ヨブ記1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

そのとき、神さまの声が聞こえます。

創世記22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

神さまは、息子の代わりにささげる雄羊を備えていてくださいました。

すべてのものは神さまが備えてくださったものですから、神さまにお返しする時が来ます。

けれども、その時でさえ、神さまは、わたしたちに必要なものを備えてくださいます。

わたしたちには神さまに生命をお返しするときが来ますが、そのときも、神さまは最善のものを備えてくださいます。


2024年1月4日 木曜日

おはようございます。

小さな難民家族のひとりであったアブラハムに、神さまは、あなたの子孫は星の数ほどになる、と祝福の約束をしました。しかし、その気配は感じられませんでした。

けれども、神さまの約束は守られます。

創世記17:15 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

アブラハムは神さまの約束に委ね切れず、ひそかに笑ってしまいます。

すると、神さまは、その笑いをアブラハムの子どもの名前にするように、と言われました。

17:19 神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。

神さまは、皮肉な笑いを喜びの笑いに変えてくださるのではないでしょうか。

わたしたちは、人間の想いで、これは無理だ、などと決めつけてしまいます。

けれども、神さまは、わたしたちの想いをはるかに超えた方法で、わたしたちの人生を祝福しつづけてくださるのです。

たしかに、アブラハムの旅と同じように、わたしたちの行く先は正確にはわかりません。

けれども、そこには神さまの祝福が待っていること、すでにこの旅そのものが神さまに祝福されていることは、たしかです。なぜなら、それをしてくださるのは、神さまだからです。


2024年1月3日 水曜日

おはようございます。

創世記によれば、ノアの何代か後に、アブラム(のちにアブラハムと呼ばれる)という人が現われます。

アブラハムはイスラエル民族の祖先であり、聖書の読者にとっては、信仰のモデルとなる人物です。

神さまは、アブラハムの物語を通して、神さまとわたしたちの関係を示しておられます。

創世記12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」

わたしたちは、今いるところから勇気をもって一歩外に出て、神さまに従って歩むように招かれています。

ヘブライ人への手紙11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

行く先は分からないけれども神さまを信頼して人生を歩もうとするアブラハムに神さまは二つの約束をなさいます。

創世記17:8 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」

創世記15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

生まれ故郷を離れ放浪の旅をするアブラハムに広大に土地を与える約束、そして、少人数の家族集団に過ぎないアブラハム一族の子孫を星の数よりも多くする約束。

これは、神さまがアブラハムの人生を祝福することにほかなりません。

わたしたちの人生もまた、神さまの大きな祝福を受けること、すでに受けていること、そして、この世界がやがて神さまの国となり、平和が訪れる日がくることを約束されているのです。


2024年1月2日 火曜日

おはようございます。

禁断の実を食べること、妬みゆえの殺人、ノアの洪水に続いて、創世記は、もうひとつ、人間の傲慢、罪の姿と、それに対して神さまがなさったことを、わたしたちに伝えています。

11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

わたしたち人間社会では、権力者が神のように振る舞い、人間がそれを神のように見なすとき、民には画一的な言葉しか許されず自由に話ができなくなってしまうことがあります。「皆一つの言葉を話している」には、このような危険が潜んでいるのです。

また、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(11:4)という言葉には、権力者だけでなく、わたしたち人間が、自分の力を過信して、天、つまり神さまの域にまで到達しよう、という傲慢=神さまにとって代わろうとする罪が含まれています。

その結果、人びとは、一つの言葉ではなく、様々な言葉を話すようになった、と創世記は伝えています。これは、神さまが人間に与えた罰のようにも見えますが、じつは、恵みでもあるのではないでしょうか。

11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

わたしたちは、ひとつところに押しやられ、ひとつの言葉を余儀なくされているのではなく、さまざまなところで、さまざまな言葉を話すことが許されているのです。

ペンテコステで神さまの聖霊が降臨したときも、ひとびとは、ひとつの言葉を話すようにされたのではなく、それぞれの人にはそれぞれの言葉で神さまの言葉が伝わるようになったのです。

皆が同じ姿にされ、傲慢になり、神にとって代わろうとしていた人間を、神さまは、それぞれにそれぞれの姿と言葉を与えてくださり、謙虚に、神さまの言葉に耳を傾ける者へと造り替えてくださるのです。

わたしたちも、人とは違うわたしたちの姿のままで、神さまの言葉を聞くことが許されているのです。


2024年1月1日 月曜日

この一年も神さまがあなたをお支えくださいますように、お祈りいたします。

創世記によれば、アダムから何代も先のノアの時代、神さまは地上に悪がはびこっているのを見ました。そして、洪水が起こり、箱舟に乗った者以外は滅んでしまいました。

けれども、神さまの御心はこのようなことが二度と起こらないことでした。

創世記9:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。9:16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。

神さまはわたしたちを裁いてはくださいますが、永遠の罰はお与えになりません。滅ぼし尽くすことはなさいません。

神さまの愛の前に立つとき、わたしたちの憎しみ、偽り、不誠実は、たしかに裁かれます。しかし、それは永遠の滅び、永遠の罰を意味しません。

神さまは、わたしたちを裁いて、神さまの愛をもっと深く知り、もっと純粋に人を愛する者へと、新しくしてくださいます。

わたしたちのすべてを滅ぼすことはない。これが神さまの御心ではないでしょうか。


2023年12月31日 主日(日曜日)

おはようございます。

人を殺してしまった者を神さまはどうなさるのでしょうか。

創世記4:15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。

エデンの園を出たエバとアダムには、カインとアベルという子どもが生まれます。

神さまはアベルとその捧げものには目を留めたのに、自分にはそうしてくれなかった、とカインは妬み、弟アベルを殺してしまいます。

神さまはカインに「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる・・・お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と言われますが、カインの生命を奪うことは許しません。

それは殺人が許されるということではなく、むしろ、人の生命を奪うことが許されないゆえに、カインの生命を奪うことも神さまはお許しにならないのです。

わたしたちは殺人はしていないかもしれませんが、カイン同様に人を妬み人にあたってしまっていないでしょうか。神さまは不公平だと思っていないでしょうか。

けれども、神さまはどんな罪人、どんなに神さまと人から心を離した者をも、滅ぼさず、また、誰かがその者を滅ぼすことも赦さず、もういちどご自分のところに呼び戻してくださるのです。


2023年12月30日 土曜日

おはようございます。

神さまは人を土に戻ってしまう物質で創られ、そこに命の息を吹き込んでくださいましたが、人は蛇に唆され自分が神にとって代わろうとして禁じられた実を食べてしまいます。

それゆえに、人はエデンの園を出なければならないのですが、神さまは人に皮の衣を着せてくださいました。

創世記3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

わたしたちも今エデンの園にいるわけではありませんが、神さまは皮の衣を着せて守っていてくださるのです。

3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた・・・3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。

人を罪に陥れた蛇に打ち勝つ「敵意」とは、イエス・キリストを指す、と考えられます。

蛇が「彼のかかとを砕く」とは、キリストの十字架の死を指しているように、そして、「彼はお前の頭を砕く」とはキリストが罪に打ち勝ってくださることを意味していると考えられます。

罪とは神さまから離れてしまうことですが、神さまはそのようなわたしたちをも皮の衣で包んでくださり、キリストによって罪から救ってくださるのです。


2023年12月29日 金曜日

おはようございます。

わたしたちの生命はどこから来たのでしょうか。

創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

わたしたちの肉体は地上の旅を終えればやがて土に返ります。そのような素材で創っていただきました

けれども、それだけではありません。神さまはそこに「命の息」を吹き入れてくださいました。

それゆえに、わたしたちは生きているのです。

神さまからいただく「命の息」とは、生物としての生命だけでなく、心であり、霊であり、愛なのです。

ですから、「生きる」ということも、生物として生きることだけでなく、心が働くことでもあり、霊によって神さまとつながることであり、神さまの愛に満たされることなのです。

「霊」は「神さまの霊」「聖霊」を指す場合もありますが、聖霊をキャッチし神さまとつながるわたしたちの中の「霊」を指す場合もあります。

わたしたちはただの物質ではなく、神さまからいただいたこの霊に満たされていて、これによって、神さまはわたしたちといつもしっかりつながっていてくださるのです。


2023年12月28日 木曜日

おはようございます。

わたしたちはどうしてここに生きているのでしょうか。

創世記1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

わたしたちは偶然に生まれたのではありません。

神さまがわたしたちを創造してくださったのです。

神さまはわたしたちとわたしたちが生きるこの世界を創造してくださいました。

この世界は神さまによって創造されたものです。

神さまは創造主であり、わたしたちは被造物(神さまによって創られたもの)です。

神さまは、愛するために、わたしたちと世界を創造してくださいました。

神さまはお創りになったものをご覧になって「極めて良い」と思ってくださる、大切に思ってくださる、つまり、愛してくださるのです。

たとえどんなことがあっても、あなたは、神さまが創ってくださった、ほんとうに大切な存在です。

どんなときでも、神さまは、あなたのことを、「とても良い、とても大事だ」と思っておられます。


2023年12月27日 水曜日

おはようございます。

人生で起こる辛いこと、苦しいことを、わたしたちはどのように考えたらよいのでしょうか。

ローマの信徒への手紙8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

わたしたちの人生にはさまざまなことが起こりますが、それぞれの出来事がひとつにつながりあうと、結局は善い結果を生む、と言うことができるでしょう。

けれども、それには、二つの条件があります。

ひとつは、神さまへの信頼、つまり、信仰の目で見ることです。神さまはかならず善いことをしてくださるという信頼の目で見ることです。

もうひとつは、それは、振り返った時に、ああ、すべてのことはこの良い日のためにあったのだなあ、ということがわかる、あるいは、そのような経験談に基づいて、今は苦しくても、あとで、きっと意味を持つことになる、という長い目が必要です。

神さまを信頼する、信仰の長い目で見るとき、今の苦しみを含めてすべてのことがたしかに神さまの救いのご計画の中にある、という希望を持つことができるでしょう。


2023年12月26日 火曜日

おはようございます。

新約聖書には「真理」という言葉が何十回も出てきます。

「真理」にはどのような意味があるのでしょうか。

テモテへの手紙一2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

「真理」と聞くと、なかなか到達できない知識や隠された情報のような気もします。

けれども、新約聖書が言う真理は、ずっとたんじゅんに、神さまと出会うこと、イエス・キリストを知ること、神さまやイエス・キリストと「人格的な」交わりをすることです。もっと簡単に言えば、新約聖書の言う真理とは、神さまご自身、イエス・キリストご自身のことです。

「人格的な」交わりとは、家族や友人や知らない人に大事にされたり優しくされたりして、その人に感謝やうれしい気持ち、親しみを抱き、その人といることが喜びであるような経験をわたしたちはしますが、神さま、イエス・キリストとわたしたちの間でもそのような交わり、それにまさる交わりがあるということです。

つまり、神さまやイエス・キリストがわたしと一緒にいてくださりとてもうれしい、うれしくてたまらない、神さま、キリストがいてくれるからわたしは生きていける、というような神さま、キリストとの関係のことです。

神さま、そして、イエス・キリストは、わたしたち「すべての人々が救われる」ことを「望んで」おられます。

神さまが「望んでおられる」ということは、わたしたち人間が「こうなればいいね」と思うようなレベルとはまったく違います。神さまが「望んでおられる」ということは、神さまはそうしてくださる、それが神さまの御心である、ということと、ほとんど同じなのではないでしょうか。

わたしたち、すべての人々が、神さま、イエス・キリストがともにおられることを心からうれしく思い、だからこそ生きていける、というような人格的な交わりを持つようになる。これが神さまの御心であると信じます。


2023年12月25日 月曜日

おはようございます。

御子イエス・キリストのご降誕おめでとうございます。

イエス・キリストはわたしたちにとってどのようなお方なのでしょうか。

ヨハネによる福音書8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

わたしたちはひとりでは歩けませんが、キリストがわたしたちとともに歩んでくださいます。

わたしたちは愛されることを求めますが、キリストがわたしたちを無条件に愛してくださいます。

わたしたちは不安ですが、キリストがわたしたちの平安になってくださいます。

キリストはわたしたちがこの世界を、暗闇を、人生を歩くとき、導きと伴いの光になってくださるのです。

この光があるから、わたしたちは、たとえ世界が闇のときでも、たとえ心が暗いときでも、歩き続けることができるのです。


2023年12月24日 主日(日曜日)

ルカによる福音書2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

デューラーという画家が「祈りの手」という絵を画いています。

ちょうど私のこの手のように、ごつごつした節くれだった指を上に伸ばして、両手のひらをあわせています。今日は、この絵にまつわるエピソードを、皆様にお話したいと思います。

画像の説明

若き日のデューラーは、同じく絵描きを目指す青年と一緒に生活していました。ところが、お互い貧乏で、絵の勉強どころではありません。

そこで、デューラーの友達が提案します。「僕が働いて二人分の生活費を稼ぐから、君は絵の勉強に専念してください。そして、君の絵が売れるようになったら、今度は、君が僕の生活と勉強を支えてください。」

そこで、デューラーは一生懸命に絵の勉強をし、友人は一生懸命に働きました。いくつかの年月が流れ、ついに、デューラーの絵が売れる日が訪れました。一刻も早くこの喜びをわかちあおうとデューラーが二人の部屋に戻ります。ふと、すこし開いた扉の向こう側に、お祈りをする友達の姿がありました。

友人はふたつの手のひらをあわせています。「神様、デューラー君は立派な絵描きになれそうです。ありがとうございます。しかし、僕の手はもう筆を取ることができません。力仕事や水仕事を重ねるうちに節くれだって、ごつごつになってしまいました。この指はもう繊細な動きをしてくれません。もう絵を画くことができません。けれども、神様、デューラー君の上にあなたの祝福があり、彼の描く絵があなたの愛を伝えることができますように。」

この友達の祈りの手は、ごつごつになってしまったけれど、なんて美しい手なんだろう、もう繊細な動きのできない不器用な手になってしまったけれど、なんて愛に満ちた手なんだろう、このように感動して、デューラーは、この「祈りの手」という絵を画いたと伝えられています。

今夜は、クリスマスイブです。神様の一人っ子イエス様のお誕生日です。この神様の手も、デューラーの友達の手のように、ごつごつした手ではないかな、と思います。

なぜかといいますと、イエス様のお母さんは未婚の若い女性、お城のお姫様ではありません、しかも旅の途中で宿がない、とても心細いでしょう、ベッドも粗末な飼い葉桶、イエス様は寒くなかったでしょうか? 神様の一人っ子がお生まれになるには少し寂しい気がしませんか。御自分の御子の誕生に、神様は、もう少し気の効いた舞台設定ができなかったものでしょうか。神様は不器用な方のように思います。

愛するということは、かっこいいことでも、スマートなことでもなく、実に不器用なことだと思います。けれども、不器用だからこそ、うそがない、不器用だからこそ、心が動かされます。不器用で失敗ばかりしているからこそ、器用に生きていけない悲しみを味わっているからこそ、かえって、人の痛みには、やさしくなれるのだと思います。

神様は、言葉や見せ掛けだけで私たちを愛してくださるのではありません。自分の手は汚さないできれいにしておく、そんな愛し方ではありません。神様は私たちの生きるところにまでおこしくださり、それが真冬の野原であるならば、一緒に凍えながら野宿をしてくださる、そういうお方です。

汗と泥にまみれて倒れている私たちを、汚いといって遠ざけるのではなく、近寄ってきて、自らが汚れるのも気になさらず、素手で抱きかかえてくださいます。神様は、きれいごとを地上に持ち込むのではなく、破れ傷ついた私たちの生活の真っ只中におこしくださり、そこでともに苦しむことから始めてくださるのです。

聖なる夜、今宵、あなたの肩を抱きかかえる手は、白くて細い手ではありません。繊細で器用な手でもありません。太くてごっつくて不器用な手があなたを支えます。この分厚い手のぬくもりがあなたの頭のてっぺんから足の裏まで伝わりますように。

祈り:神さま、あなたの節くれだった、ごつごつした、しかし、大きくて、温かな手が、わたしたちを支えてくださり、感謝いたします。あなたのこの手がひとりでも多くの人びとの上に、とくに、今苦しんでいる人びとの上に、御子イエス・キリストの誕生とともに届きますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。


2023年12月23日 土曜日

おはようございます。

神さまはわたしたちへの愛に満ちあふれておられます。

そして、その愛をすべてイエス・キリストの中に注ぎ込んで、わたしたちのところへ遣わしてくださいました。

コロサイの信徒への手紙1:19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、1:20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

イエス・キリストに込められた神さまの愛は、十字架においてピークに達しました。

十字架によって、天の神さまは地のわたしたちとふたたびつながってくださいました。

地のわたしたちとは、地上のすべての人のことであり、すべてのもののことです。

空を飛ぶ鳥や虫も含む万物のことです。

また、神さまはわたしたちが地上にいるときだけでなく、天に帰ってからも、ともにいらしてくださいます。

この神さまの愛のわざが、イエス・キリストの誕生と十字架によって完成したのです。


2023年12月22日 金曜日

おはようございます。

たとえどんなことがあっても、イエス・キリストからだけは離れずに、イエス・キリストとともに歩み続けましょう。

ヨハネによる福音書6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

なぜなら、イエス・キリストは、「永遠の命の言葉」を持っておられるからです。

わたしたちは、生きている今も、地上の旅を終えたあとも、永遠なる神さまとつながり続けています。

永遠なる神さまが永遠に、つまり、とわにともに、わたしたちとともにいつづけてくださいます。

それは、イエス・キリストの「言葉」、御言葉によって実現します。

わたしたちは御子イエス・キリストの誕生、降誕(天から降りてきてわたしたちのところに誕生してくださること)をお祝いしますが、このイエス・キリストの御言葉を通して、永遠なる神さまが永遠にわたしたちとつながってくださり、ともにいつづけてくださるのです。

わたしたちがイエス・キリストから離れないだけでなく、その前から、神さまがわたしたちからお離れにならないのです。


2023年12月21日 木曜日

おはようございます。

わたしたちの根本の頼み、根本の希望は何でしょうか。

それは神さまです。

詩編62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

お金も、能力も、健康も、人間関係も、たしかに、頼りになることがあります。

けれども、それを「一番の」頼りにしてしまえば、それは偶像崇拝です。

たくさんのお金を持って満足してしまい、何でもできるように思い、神さまに委ねなくなってしまったり、自分の不安を埋めるために、お金を強欲に追い求めたりすれば、それはお金を神さまとする偶像崇拝です。これは、お金以外のことにもあてはまります。

しかし、わたしたちの根本の頼み、一番の希望は、神さまです。

わたしたちは揺らいでも、神さまは揺らぎませんから、神さまにしがみついていれば、大丈夫です。


2023年12月20日 水曜日

おはようございます。

目に見えるものは、やがて朽ちてしまいます。

けれども、イエス・キリストは、永遠なるお方です。

ヘブライ人への手紙13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

わたしたちが、地上の人生でも、それを終えた後でも、この永遠なるお方と結ばれて永遠に生きること、これが、イエス・キリストがわたしたちに与えてくださる永遠の命なのです。

永遠とは「いつまでも」というだけではなく、「いつでも」ということでもあります。

イエス・キリストは、いつでも、わたしたちがどんなに苦しく、どんなに孤独で、どんなに不安なときでも、とわにともに、いらしてくださいます。


2023年12月19日 火曜日

おはようございます。

パウロはイエス・キリストのことを人びとに伝える中で、とても大きな苦しみを受けたようですが、こう言います。

コリントの信徒への手紙二4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

わたしたちは、病気、仕事、学校、人間関係、精神など、「一時の軽い艱難」などとはとても言えないくらいに苦しい経験をすることがあります。

パウロもかなり苦しい問題をいくつか抱えていたようです。

しかし、「艱難」を通して、「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」がもたらされると言います。

これは何のことでしょうか。

「見えないもの」とあります。

今は確かに苦しいです。

けれども、見えない神さまがともにいらしてくださり、見えない神さまが愛してくださり、見えない神さまが平安となってくださいます。


2023年12月18日 月曜日

おはようございます。

戦争は終わった! 平和が訪れた!

わたしたちはこの良い知らせ、美しい知らせを待ち望んでいます。

イザヤ書52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

まことの平和の訪れ。

それは、人間が王になるのではなく、神さまが王になられる日です。

人間の傲慢や欲望ではなく、神さまの愛が治める日です。

これは、国レベルだけでなく、わたしたちの精神も同じことです。

わたしたちの精神をわたしたちの傲慢や欲望ではなく、神さまの愛にお委ねするとき、そこには平安があり、救いがあるのです。

神さまは、かならず、わたしたちの心をシャロームで満たしてくださいます。


2023年12月17日 主日(日曜日)

おはようございます。

助けを求める時、わたしたちはどうしたらよいでしょうか。

それは、神さまに向かって祈ることです。

それは、叫びと区別がつかないようなものであってもよいのです。

ただし、闇に向かってではなく、神さまに向かって、叫び、祈ることです。

詩編5:3 わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。5:4 主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。

神さまは、わたしたちの叫び声、祈りを、かならず聞いてくださいます。

そう信頼して、毎日、神さまの前に立つことです。

神さまの前に立つとき、わたしたちは、祈り、同時に、神さまの御言葉に耳を傾けます。

それがたとえ無言のように思えても、それは神さまの平安、神さまの静けさです。

それが言葉のようであるならな、それは、神さまの愛と救いの御心です。

神さまからのうれしい知らせです。

神さまの前で、助けを求めて祈り、救いの御言葉をいただく。

これが、わたしたちの生活です。


2023年12月16日 土曜日

おはようございます。

この闇の夜はいつまで続くのでしょうか。

エレミヤ書29:10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

闇の夜にも朝が訪れるのです。バビロンで捕囚の身になっていた民にもユダヤに帰る日が訪れました。

わたしたちにも同じことがかならず起こります。

29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

神さまはわたしたちのための平和の計画を心に留めていてくださいます。

神さまがこの闇に平和をもたらしてくださる、神さまの御子イエス・キリストがこの世界に、わたしたちのところにお越しくださる、神さまが御国を来たらせてくださる。

アドベントの日々、わたしたちの中で、この希望がますます明らかになっていきます。


2023年12月15日 金曜日

おはようございます。

わたしたちは、神さまが与えてくださる希望を、あなどっていないでしょうか。

過小評価していないでしょうか。

創世記17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

わたしたちは、わたしにそんな働きができるだろうか、あの人にそんなことができるだろうか、みんながわかってくれるだろうか、みんなが変わってくれるだろうか、と笑っていないでしょうか。

わたしたちは、わたしにはそんな力はない、あの人にはそんなことはできない、みんながわかってくれるはずがない、みんなが変わるはずがない、とあきらめていないでしょうか。

イエスさまを売ったペトロや、キリストを迫害したパウロに、イエス・キリストの福音を伝えることができる、などと、最初、誰が思ったでしょうか。

あの人がイエス・キリストを信じるようになるだろうか、とわたしたちはあきらめていないでしょうか。

けれども、神さまのなさることは違います。

イエス・キリストはどんな人のところにも、どんなところにもお越しくださることができるのです。

このイエス・キリストのお越しを心待ちにする。

これがアドベント、待降節の希望です。

創世記17:19 神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。

人間のあざけり笑いを、神さまは喜びの笑いに変えてくださるのです。


2023年12月14日 木曜日

おはようございます。

この悲しみはいつまで続くのでしょうか。神さまはどこにおられるのでしょうか。

詩編の詩人も歌います。

詩編42:4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。

けれども、詩人はこの涙の中で、気づきます。

42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。

神さまこそ、わたしの救いであると。

下を向いて嘆くばかりでなく、顔をあげて、神さまを待ち望むべきだと。

待ち望むとは、苦しみに耐えるばかりではありません。

待ち望むとは、その日の喜びを、今から味わうことです。

神さまはかならずお越しくださると信じて待ち望むとき、神さまはすでにわたしたちのところに来て、わたしたちとともにいらしてくださるのです。


2023年12月13日 水曜日

おはようございます。

からからに渇いたわたしたちの魂を潤してくれるものは何でしょうか。

お金でしょうか。世間的な成功でしょうか。

いえ。そうではありません。

詩編107:8 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。107:9 主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。

わたしたちの飢えた魂を満たしてくださるのは、神さまです。

神さまの深い慈しみです。

神さまの驚くべき御業です。

神さまはわたしたちと一緒にいて愛してくださるために、慈しみ深いことに、そして、驚くべきことに、ご自分のひとり子イエス・キリストを、わたしたちのところに送ってくださいました。

この神さまのひとり子をお迎えすれば、驚くべきことに、いつくしみ深いことに、神さまはわたしたちとともにおられ、愛で満たしてくださるのです。

わたしたちの渇いた魂は、イエス・キリストによって、潤され、満たされるのです。

もうすぐ来るクリスマス。

わたしたちの心のリビングルームに御子イエス・キリストを大喜びでお迎えいたしましょう。


2023年12月12日 火曜日

おはようございます。

わたしたちの「根本の」支えは何でしょうか。

詩編52:9 「見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」52:10 わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。

わたしたちには衣食住や文化的な生活を支えるある程度のお金は必要ですし、富そのものが悪いわけでもありません。

問題は、神さまではなく、お金を、わたしたちの「根本の」支えにしてしまうことです。ところが、お金はあればあるほど不安になり、「根本の」支えにはならず、さらに求めてしまい、やがては支えではなく滅びを招いてしまうかもしれません。

わたしたちが真に依り頼むべきは「神さまの慈しみ」です。

神さまの慈しみを「根本の」支えにして生きるとき、幹はたてに太く、枝はあらゆる方向に数えきれないほどに生い茂るオリーブのようないのち、人生をわたしたちは送ることができるのです。


2023年12月11日 月曜日

おはようございます。

神さまはわたしたちをいつから愛してくださっておられるのでしょうか。

わたしたちが神さまを信じるようになってからでしょうか。

そうではありません。

エフェソの信徒の手紙1:4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。1:6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

神さまは天地創造の前からわたしたちを愛してくださっているのです。わたしたちが神さまを愛するずっと前から神さまはわたしたちを愛してくださっているのです。

わたしたちは神さまの奴隷ではなく、イエス・キリストによって「神さまの子」とされましたが、それも、「前もって」「お定めになった」「御心」であり、わたしたちが神さまを信じるより前、天地創造の前からのことなのです。

天地創造の前からいただいている神さまの愛と恵み、これをたたえ、賛美するために、わたしたちは創造されているのです。


2023年12月10日 主日(日曜日)

おはようございます。

わたしたちがお互いに愛し合うとき、その愛はどこから出てくるのでしょうか。

4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

愛は神さまから出てくるもの、神さまからいただいたものなのです。

わたしたちが誰かを大事にする心は、神さまに由来するものなのです。

4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

神さまは御子イエス・キリストをわたしたちが生きる世界にお遣わしになることで、ご自分の愛をわたしたちに示してくださいました。

イエス・キリストは神さまの愛そのものなのです。

わたしたちは御子イエス・キリストという神さまの愛をいただき、わたしたちも他の人とたがいに大切にし合う。これが、「わたしたちが生きる」ということではないでしょうか。


2023年12月9日 土曜日

おはようございます。

わたしたちは、時間と場所に制限されています。

けれども、わたしたちの神さまは、時間と場所を超えておられます。

この神さまが、いつでもどこでもわたしたちとともにいてくださり、わたしたちを時間と場所の枠組みから自由にしてくださいます。

詩編48:2 大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は 48:3 高く美しく、全地の喜び

神さまは時間を超えたお方ですから、神さまを賛美する歌にも言葉にも祈りにも限りはありません。また、この賛美は、高く、美しく、その場所の壁を乗り越えて、全世界に響きます。

48:15 この神は世々限りなくわたしたちの神、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。

時間と場所に制限されない神さまは、わたしたちだけでなく、世代を超えて永遠に、また、わたしたちの地上での生活だけでなく、死を越えて永遠に、わたしたちを導いて進んでくださいます。


2023年12月8日 金曜日

おはようございます。

わたしたちが歩む道はわたしたちが切り開いているように思えても、じつは、神さまが導いてくださいます。神さまが道を定めてくださいます。

エレミヤ書10:23 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず、歩みながら、足取りを確かめることもできません。10:24 主よ、わたしを懲らしめてください、しかし、正しい裁きによって。怒りによらず/わたしが無に帰することのないように。

わたしたちが神さまから離れ、自分勝手に歩くとき、わたしたちには神さまからの懲らしめに思われるようなことが起こるかもしれません。

けれども、それは、神さまの「正しい裁き」、神さまが道を正そうとしてくださっておられるのかもしれません。

懲らしめのように思えても、それは、神さまは怒っておられるのでもなければ、わたしたちを消し去ろうとしておられるのでもありません。

むしろ、わたしたちを取り戻そうとしておられるようにも思われます。

わたしたちは自分に好ましい道を歩もうとしますが、神さまはこのような導き方をしてくださることもあるのではないでしょうか。


2023年12月7日 木曜日

おはようございます。

わたしたちは、時々、理不尽な苦しみを受けることがありますが、どうしたらよいのでしょうか。

5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

イエス・キリストを信じて生きるゆえに、苦しむことがあっても、それは、幸いであり、喜びなさい、とイエスさまは言われます。

天には大きな報いがあるからです。

これは、死んだ後、良いことがある、ということだけではありません。

天とは神さまの国のことであり、それは、神さまがわたしたちを治めてくださる、神さまがわたしたちを無条件に愛しどんなときでもともにいてくださることでわたしたちを治めてくださるということであり、生きている今からすでに始まっています。

ですから、天の大きな報いも今すでに与えられているのです。

あなたのその痛み、悲しみ、孤独を神さまはすでに知っていてくださいます。そして、あなたのすぐ横にいらしてくださいます。


2023年12月6日 水曜日

おはようございます。

わたしたちは、信仰の友に、そして、友の信仰に、そして、そこにおられるイエス・キリストに感謝いたします。

マルコによる福音書2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

この四人は病の友をイエス・キリストに何としてでも引き合わせようとできることすべてをしました。 友を床に乗せて運び、部屋の入り口からイエス・キリストのおられるところまでは人がいっぱいで前に進めなかったので、屋根に穴をあけ、友をキリストの前に降ろしたというのです。

友をなんとかキリストに合わせようとしたこの友情をキリストは信仰と呼び、信仰ゆえにこの友情があったのです。

わたしたちの愛情、友情は、わたしたちの善意というよりは、キリストへの信頼、いや、キリストのわたしたちへの愛情、友情に根差しているのです。


2023年12月5日 火曜日

おはようございます。

わたしたちは何も持たずに生まれ、何も持たずに天へと帰ります。

けれども、その間の地上の人生においては、衣食住が備えられてきた、と感謝する人は少なくないでしょう。

テモテへの手紙一6:6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。6:7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。6:8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。

それは、神さまが備えてくださったのです。

最低限の衣食住プラスアルファは必要ですが、それが神さまによって備えられている場合、それに気づき、それに感謝したいと思います。

また、人より優位に立ったり、自分の思いを通したりすることによって、満腹になろうとせずに、神さまを信頼し、神さまに祈り、人と平等に生き、人の思いを大事にすることで、心を平安で満たされる生き方を祈り求めようではありませんか。


2023年12月4日 月曜日

おはようございます。

わたしたちは自分の心身、仕事、家族、将来などのことで、いろいろな悩み事を抱えています。わたしたちはいったいどうしたらよいのでしょうか。

ルカ12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。

イエスさまは、思い悩まなくてもよい、と教えてくださいます。なぜなら、神さまはわたしたちに何が必要かわかっていてくださるから、と。

ただ、わたしたちは、神さまの国の住民になることを、神さまに治めていただくことを、神さまの愛に満たされることを、神さまにお委ねすることを祈り求めなさい、とイエスさまは導いてくださいます。

そして、その祈りはかならず聞かれる、と言うのです。

12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。


2023年12月3日 主日(日曜日)

おはようございます。

神さまの前に立つことは、息を吐いて吸うことと同じです。

フィリピの信徒への手紙4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

神さまの前で、わたしたちは、思い煩いをふーっと吐き出します。

どうじに、神さまへの感謝と祈りと願いとわたしたちの求めを神さまにおささげします。

そうやって、わたしたちを空っぽにします。

そうすれば、神さまの平和とキリスト・イエスご自身が、わたしたちを満たしてくださることでしょう。

これが神さまを礼拝することです。


2023年12月2日 土曜日

おはようございます。

礼拝の賛美歌は、聖書朗読や説教の「前座」ではありません。

賛美は礼拝そのものです。

詩編92:2 いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは、いと高き神よ、御名をほめ歌い 92:3 朝ごとに、あなたの慈しみを、夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 92:4 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ、琴の調べに合わせて。92:5 主よ、あなたは、御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。92:6 主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。

「主よ、あなたは、御業を喜び祝わせてくださいます」とあるように、賛美はわたしたちが自分からすすんでささげているようでありながら、主がそのようにさせてくださるのです。導いてくださるのです。

「主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深い」とあるように、賛美は、神さまの大きな御業、深い御計らいに感謝してささげる礼拝なのですが、同時に、賛美と礼拝が、神さまの大きな御業、深い御計らいそのものでもあるのです。


2023年12月1日 金曜日

おはようございます。

詩編32:2 いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

「主に咎を数えられず、心に欺きのない人」とは、じつは、罪を犯していない人のことではありません。

32:1 いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

「主に咎を数えられない」人とは、じつは、「背きを赦され」、罪を犯しているにもかかわらずその全身の傷を神さまに包み込んでいただいている人のことなのです。

32:3 わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。

ダビデは自分の罪の重さに打ちひしがれました。神さまの御手も、ダビデの上に重くのしかかり、ダビデは憔悴しました。

32:5 わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。

それにもかかわらず、ダビデは罪をさらに深く見つめ、告白しました。

すると、神さまはダビデの罪をお赦しくださったのです。

このダビデのような姿こそが、「主に咎を数えられず、心に欺きのない」、真に幸いな人なのです。


2023年11月30日 木曜日

おはようございます。

わたしたちは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる、と言います。

ガラテヤの信徒への手紙2:16 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました・・・なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

では、わたしたちは、行動においては、何をしてもかまわないのでしょうか。

パウロは同じ手紙でこう言います。

6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

6:7 神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。

6:9 たゆまず善を行いましょう。

信仰によって救われた者には、旧約聖書の律法ではなく、「キリストの律法」が与えられます。

じつは、これは、旧約聖書の律法の根本に立ち帰った律法であり、愛の律法、神さまと隣人を愛する律法です。

信仰によって救われた者は、このキリストの愛の律法を担う者へと成長を促されるのです。


2023年11月29日 水曜日

おはようございます。

わたしたちの肉体はこの世の旅を終えたら土に還っていくものです。 わたしたちは、いわば、土からできた器です。

創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくられた。

コリントの信徒への手紙二4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

けれども、この土の器の中には、じつは、じつにすばらしいものがあるのです。

創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。

神さまは土の器であるわたしたちの肉体に、神さまの命の息を吹き込んでくださったのです。

コリントの信徒への手紙二4:6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

4:7の「このような宝」とは、神さまの「光」のことだったのです。

わたしたちは土の器、もろく弱い者ですが、この器の中には、神さまの命の息、神さまの光があるのです。つまり、わたしたちの中には神さまがともにいらしてくださるのです。


2023年11月28日 火曜日

おはようございます。

苦しんでいる時、神さまがいらしてくださるのに、神さま以外のものにあたかもそれが神であるかのようにすがろうとしてしまう試練を、わたしたちは受けます。

このように、試練は、神さまがわたしたちの根本の支えでいらしてくださるからこそ起こることですから、その意味では、試練は神さまが与えてくださるものである、と受け取ることもできるでしょう。

コリントの信徒への手紙一10:13 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

けれども、神さまは、試練だけでなく、試練に耐える道、試練から逃れる道を与えてくださいます。

それは、どのようなものでしょうか。

エフェソ6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

神さまの武具とは、具体的には、真理、正義、平和の福音、信仰、救い、霊に支えられた祈りである、とパウロは言います。

つまり、神さま以外のものを神のように頼ってしまいたいくらいに苦しい時でも、神さまの真理、神さまの正義、神さまの平和の福音、神さまがくださった信仰、神さまの救い、神さまに支えられた祈りが、わたしたちを守ってくださるのです。


2023年11月27日 月曜日

おはようございます。

走るのが速い人もいれば、遅い人もいます。

人の目には、早い人は優れていて、遅い人は劣っているように見えてしまいます。

けれども、じつは、どちらの人が走る姿の内にも、神さまがおられるのです。

エフェソ4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。4:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。

神さまの恵みは、わたしたち一人一人にあわせて与えられます。それは、功績に従って与えられる褒賞ではなく、親が子どもたちそれぞれに選ぶ様々なプレゼントのようなものです。

速いように見える走りも、遅いように見える走りも、どちらも、神さまが与えてくださった恵みです。

そして、どちらの恵みの内にも、神さまがおられます。

なぜなら、神さまは、すべてのものを上から見守ってくださり、すべてのものを働きに用いてくださり、すべてものの内側にともにいらしてくださるからです。


2023年11月26日 主日(日曜日)

おはようございます。

イザヤ書30:23 主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。地の産み出す穀物は豊かに実る。30:26 主が民の傷を包み、重い打ち傷をいやされる日、月の光は太陽の光になり、太陽の光は七倍になり、七つの日の光となる。

今は不毛のように思えても、あなたのその想いは、やがて、かならず、芽を出し、育ち、実を結びます。

今の重い打ち傷はきっと癒され、闇は太陽七つの光になることでしょう。


2023年11月25日 土曜日

おはようございます。

あなたの胸の左右は、思い煩いでいっぱいになっていないでしょうか。

コヘレトの言葉4:6 片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。

不安や絶望や苦痛や嫌な思いを、両手のひらに載せていないでしょうか。

ならば、思い切って、その手のひらをくるっと下に向けて、落ち葉のようにすべてを大地に返してみませんか。

そして、片手のひらをもう一度上にして、それで、天からの憩いをそっと受け取ってみませんか。

両手にも載せきれないほどの苦しみよりも、片手で静かにいただける上よりの平安をいただきませんか。

神さまからの恵みは、両手にも収まらないほどゆたかですが、片手で支えられるくらいに軽やかなのです。

マタイ11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い


2023年11月24日 金曜日

おはようございます。

イエスさまを信じる人は復活します。

これはどういうことでしょうか。

ヨハネによる福音書11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

イエスさまご自身が、復活そのものであり、永遠の命そのものです。

ですから、イエスさまを信頼し、イエスさまにつながる者は、地上の旅を終えても、その信頼とそのつながりが終わることはありません。

生きている今イエスさまを信じれば、すでに、復活、永遠の命の中にあり、それは、地上の旅のあともつづくのです。

わたしたちは今すでに神さまとつながっています。そしてこの世から去ったあともつながっています。このつながりを「永遠の命」と呼びます。このつながりが切れることが死ですが、イエスさまを信じていればけっして切れることはありません。

わたしたちはこの世にあるときも死んだも同然の経験や苦難に見舞われます。それでもイエスさまを信じれば、神さまとのつながりはけっして切れることはありません。

み言葉と祈りと賛美とイエスさまへの信仰を通して、神さまの愛によって、わたしたちは復活に入れられるのです。


2023年11月23日 木曜日

おはようございます。

その涙を神さまはかならずぬぐってくださいます。

列王記下20:5 あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。

ヒゼキヤ王は死の病に見舞われましたが、涙を流して、神さまに祈りました。

すると、神さまは「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。あなたをいやす」と答えてくださったのです。

詩編詩人はこう歌います。

詩編126:5 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。

ただ泣いているのではないのです。種を蒔いているのです。

その種はかならず芽を出し、茎をのばし、ゆたかに実ることでしょう。

喜びに満ちてそれを刈り入れる日は、もうそう遠くはありません。

夜明けは近いのです。


2023年11月22日 水曜日

おはようございます。

わたしたちは、一度、倒れたら、二度と起き上がれないのでしょうか。

いいえ。主が起き上がらせてくださいます。

エレミヤ書31:3 遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。31:4 おとめイスラエルよ、再び、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ、楽を奏する人々と共に踊り出る。31:5 再び、あなたは、サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。

神さまは、天からこの地上のわたしのところまで遠路お越しくださいます。

そして、言われます。

「わたしはあなたをけっして見捨てない。

とこしえにあなたを愛し続ける。

永遠に慈しみ続ける。

あなたは、いちど、壊れそうになったが、今、わたしがあなたをしっかりと建て直す。

あなたは、ふたたび、わたしを賛美する群れに戻って来る。

あなたは、もういちど、木を植える。

その木は、かならず、ゆたかな実を結ぶ。」

たとえ倒れようとも、何度倒れようとも、神さまがかならず起き上がらせてくださいます。


2023年11月21日 火曜日

おはようございます。

わたしたちの祈りを神さまがきいてくださるとは、どういうことでしょうか。

神さまはわたしたちの祈りをきいてくださるのでしょうか。

詩編66:19 神はわたしの祈る声に耳を傾け、聞き入れてくださいました。66:20 神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。

わたしたちの願いがそのままかなうこともあれば、そのままではかなわないこともあるでしょう。

けれども、「そのまま」ではなくても、「違う形」でかなえられていることも少なくないのではないでしょうか。

いずれにせよ、神さまがわたしたちの「祈る声に耳を傾け」てくださることは、たしかです。

神さまがわたしたちの「祈りを退けることなく、慈しみを拒まれない」こともたしかです。

神さまが、わたしたちの祈りを退けずに、耳を傾けてくださる、慈しんでくださる。

やはり、神さまは、わたしたちの祈りを聞いてくださるのです。

わたしたちが静かに祈り、神さまが静かに聞いてくださる。

このとき、すでに、わたしたちの祈りは聞き入れられているのです。

2023年11月20日 月曜日

おはようございます。

フィリピの信徒への手紙2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

わたしたちは、自分のことばかりで、相手のことはあまり深く考えていない場合があります。

相手のことを思いやらないだけでなく、相手のことを思いやっているようであっても、それは、じつは、「相手を思いやりたい、という自分の思いを果たそうとしている」ような場合もあります。

よかれと思ってなすことの中にさえ、自分中心の考えが潜んでいます。

わたしたちは、相手の気持ちを自分の気持ちで考えるのではなく、相手の気持ちを相手の気持ちで考えるように心がけたいと思います。

イエス・キリストは、徹底的にそうなさいました。イエス・キリストの十字架は、わたしたちに直接何かをしてくださろうとした、というよりは、ご自分のことを徹底的に放棄なさった結果のことで、それが、わたしたちを救ってくださったのです。

わたしたちも、相手のために何かをしたいという自分の気持ちを貫くよりも、その自分の気持ちさえ放棄することが、結果的に相手を大事にすることになる場合があるのではないでしょうか。


2023年11月19日 主日(日曜日)

おはようございます。

わたしたちは神さまあってのわたしたち、人間は神さまあっての人間です。

箴言16:1 人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。16:2 人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。16:3 あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。

わたしたちが心を深く構えれば・・・祈りはその最たるものでしょう・・・神さまがわたしたちの口に語るべき言葉をもたらしてくださいます。

わたしたちは自分は正しいとか清いとか思ってしまいがちですが、神さまがしっかりと調べて、教えて、諭してくださいます。

わたしたちの計画も実行も、神さまにお委ねしつつのことであれば、きっとたしかなものになるでしょう。


2023年11月18日 土曜日

おはようございます。

この苦しみや悲しみは、いつまで続くのでしょうか。

イエス・キリストは言われます。

マタイによる福音書5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

悲しみは、幸いなことに、慰めに変えられるのです。

ダビデも言います。

詩編28:6 主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。28:7 主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。

今日たとえ深い嘆きがあったとしても、明日それは賛美の歌に変えられるというのです。

礼拝の賛美は、わたしたちの嘆きを主がよろこびに変えてくださること、そして、変えてくださったことのしるしでもあります。

神さまに喜びの賛美をゆたかに捧げましょう。

主が嘆きを、すばらしいことに、喜びに変えてくださったのですから。

主は嘆きを、かならず、喜びに変えてくださいますから。


2023年11月17日 金曜日

おはようございます。

自分はこんなに弱いので、神さまを信じる資格があるのだろうか、と迷うことがないでしょうか。

しかし、ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストが大祭司となって、わたしたちを神さまにとりなしてくださるのだから、どうどうと神さまを信じましょう、と言っています。

ヘブライ人への手紙4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

イエス・キリストが大祭司であるということは、キリストは、弱いわたしたちをも神さまに取り次いでくださる、間に立ってくださる、ということです。祭司とはそういう役目です。

そして、キリストは、わたしたちの弱さ、苦しみ、痛みに共感してくださいます。なぜなら、キリストご自身が十字架という最大の苦しみと痛みを受けたからです。

そのようなお方が、わたしたちを神さまに取り次いで、わたしたちが弱さや痛みで苦しんでいることを神さまに伝えてくださるのですから、わたしたちは、自分は弱い、自分には資格がないなどと不安がらずに、大胆に神さまを信じてよいのです。神さまが救ってくださる、その恵みを大胆にいただいてよいのです。


2023年11月16日 木曜日

おはようございます。

わたしたちは、これはもう立ち上がれない、というくらいの苦しみに見舞われることがないでしょうか。

マルコによる福音書10:46 バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

けれども、わたしを憐れんでください、と叫び続ければ、イエスさまはこれを聞いてくださり、わたしたちを招き、「安心しなさい、立ちなさい」と呼びかけてくださいます。

そのとき、わたしたちは、重いよろいを脱ぎ捨てて、躍り上がり、イエスさまのもとへと導かれるのです。


2023年11月15日 水曜日

おはようございます。

わたしたちは、どういうお方に、どのように愛されているのでしょうか。

ヨハネによる福音書1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

ヨハネはイエス・キリストのことを「わたしより優れている」と言っています。これは一見当たり前のように思われますが、とても大切なことです。

わたしたちは自分を過信しないで、人にはへりくだり、人から学ぶことが大切です。

その原点は、神さま、キリストの前で、この方の大きさと自分の小ささを知ることです。

なぜなら、キリストは、「わたしたちよりも先に」、つまり、世界が創造される前からおられるお方だからです。

わたしたちより圧倒的に大きく、世界が創造される前からおられ、世界を創造なさったこのお方の満ちあふれる愛から、わたしたちは皆、愛の上にさらに愛をいただいているのです。


2023年11月14日 火曜日

おはようございます。

ローマの信徒への手紙12:1神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

何かを人に勧めるときは、自分の思いではなく、神さまの愛の御心でそうするのです。

わたしたちの体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」、わたしたちの「なすべき礼拝」とはどのようなものでしょうか。

それは、「神の御心」に沿う、「善い」ことです。

12:17に「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあり、12:14に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」とありますから、「善い」ことは「復讐」や「敵対」のような「世に倣った」ものや自分の欲望とは正反対のものでしょう。

むしろ、12:10 にあるように「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う」ことでしょう。

そのような生き方が、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ことであり、わたしたちの「なすべき礼拝」でありましょう。


2023年11月13日 月曜日

おはようございます。

わたしたちの信仰生活や教会生活は、月日とともに変化しますが、それによって、神さまの救いが取り消されることがあるのでしょうか。いや、神さまの救いは永遠です。

ローマの信徒への手紙11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

パウロの時代、律法を守ることによって神さまに救われることにこだわったイスラエル人(ユダヤ人)は、イエス・キリストへの信仰によって救われるという福音から見れば、神さまに敵対しているように見えました。

しかし、それは、パウロによれば、「あなたがたのため」、つまり、ユダヤ人ではない異邦人が、信仰による救いを得るためであったと言います。

乳と蜜の流れる土地、満天の星のように多い子孫、という表現で、イスラエルの祖であるアブラハムを通して約束された民への祝福は、けっして取り消されることがない、とパウロは断言します。

神さまの救い、恵み、そして、お招きは、わたしたちにどんなことがあっても、永遠に有効なのです。


2023年11月12日 主日(日曜日)

おはようございます。

ローマの信徒への手紙14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

わたしたちは、生きている時も、地上の生命を終えた後も、主のために、主によって、主とともに存在し続けます。

キリストは、わたしたちが生きている時も、死んだ後も、わたしたちのいのちのあるじ、導き手となってくださいます。

わたしたちが生きている間に、死にも匹敵するような、何かの意味で自分の何かが死んでしまったような耐えられない苦しみに見舞われても、キリストが、わたしたちのいのちのあるじとして、ともいてくださり、導き、支えてくださいます。

このように、キリストは、わたしたちの生と死において、わたしたちの主でいらしてくださいます。


2023年11月11日 土曜日

おはようございます。

わたしたちは自分ひとりで生きようと力が入りすぎたり、はんたいに、自分はひとりでは生きることができないと不安になったりしますが、パウロはこう言います。

ガラテヤ書2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしたちの中で、本当に生きているのは、キリストなのです。

キリストこそがわたしたちの中で生き、わたしたちを生かしてくださるいのちなのです。

ですから、わたしたちは自分だけで生きてみせると力み過ぎたり、自分だけでは生きられないと悲観したりする必要はないのです。

キリストはわたしたちをこよなく愛し、わたしたちにまことのいのちを与えてくださいました。

このキリストの愛といのちを信頼することで、わたしたちはゆたかに生かされるのです。


2023年11月10日 金曜日

おはようございます。

わたしたちは、苦しい時を、どのように過ごしたらよいのでしょうか。

パウロはこのように言います。

コリントの信徒への手紙二6:4わたしたちは、大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。

パウロは、「苦難、欠乏、行き詰まり、 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」に見舞われましたが、それを「忍耐」しました。けれども、それは、パウロが忍耐強かった以上に、「神の力」がそうさせてくれたのです。

「聖霊」、神さまの「偽りのない愛」、神さまの「真理の言葉」が、パウロに、「純真」「知識」「寛容」「親切」の心を与えてくださり、苦しみを耐え抜かせてくださったのです。

わたしたちにも、そして、わたしたちが案じている、苦しみの中にある人びとにも、神さまはかならずこの力を与えてくださり、「苦難」「欠乏」「行き詰まり」「労苦」「不眠」を乗り越えさせてくださることでしょう。


2023年11月9日 木曜日

おはようございます。

わたしたちのために、このように祈ってくれている人がいます。

エフェソの信徒への手紙1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神さまがわたしたちに聖霊を降してくださり、神さまを深く知ることができるように

聖霊がわたしたちの心の目を開いてくださるように

神さまからいただく希望のすばらしさを悟ることができるように

神さまがわたしたちに絶大な働きをしてくださり、その力がいかに大きいか悟ることができるように。

パウロは直接はフィリピの信徒のことでこのように祈ったのですが、神さまは、これをわたしたちのための祈りとしても聞いてくださることでしょう。


2023年11月8日 水曜日

おはようございます。

マタイによる福音書16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

聖書では、「命」という語が、神さまや隣人とのつながりを表す場合があります。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とは、自分のことしか考えない人は、神さまとのつながり、さらには、自分以外の人とのつながりを失ってしまう、ということでしょう。

ぎゃくに、イエス・キリストゆえに、自分のことばかりに執着することを止めた人は、神さまとのつながり、そして、隣人とのつながりを得るのです。

たとえ、世界を支配して世界のすべてを自分のものにしても、自分の私利私欲を達成しても、神さまとのつながり、隣人とのつながりを失ったら、何の意味があるでしょうか。

神さまとのつながり、隣人とのつながりを取り戻すことは、わたしたちにはできません。

けれども、わたしたちにできないことも、神さまにはおできになります。

自分に執着し神と人から離れてしまうというわたしたちの罪から、神さまの独り子イエス・キリストは救い出してくださいました。それが、キリストの十字架と復活です。

これによって、わたしたちは、神さまとのつながり、隣人とのつながりに戻していただいたのです。つまり、命に戻していただいたのです。


2023年11月7日 火曜日

おはようございます。

詩編55:18 夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。55:19 たとえ闘いを挑む者が多くても、わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。

戦争が続いていますが、戦地の人びとや世界中の平和を求める叫び声を神さまはかならず聞いてくださいます。そして、かならず、平和をもたらしてくださいます。

戦争以外のことでも、わたしたちには深い悩みがあり、声にならない声で呻いていますが、神さまはこれにも耳を傾けてくださっておられます。

神さまは、苦しむ友や家族の魂とわたしたちの魂を深い淵から引き上げてくださり、かならず平和と平安で満たしてくださいます。


2023年11月6日 月曜日

おはようございます。

マタイによる福音書6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。

わたしたちは自分に負い目のある人を、赦しているでしょうか。

わたしたちを傷つけ、わたしたちを苦しめ、わたしたちに謝罪や償いをすべき人を、赦しているでしょうか。

これは、なかなかできないことです。

人を赦せない。これは、神さまに対するわたしたちの負い目です。

この負い目を含めて、わたしたちは、「神さま、わたしたちの負い目を赦してください」と祈るのです。

そうすると、神さまは、かならずお赦しくださいます。

そのとき、わたしたちは、こう祈ります。

神さま、あなたはわたしたちの負い目を赦してくださいました。まことにありがとうございます。わたしたちも自分に負い目のある人を赦すことができますように、どうぞ、お導きください。


2023年11月5日 主日(日曜日)

おはようございます。

イエス・キリストは「降りて来なさい」とわたしたちに呼びかけてくださいます。

ルカによる福音書19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

わたしたちは、キリストを上から目線で見降ろしていないでしょうか。敬っているようで、じつは、キリストを良く知っているつもりになったり、自分好みに仕立てたりしていないでしょうか。

キリストはそんなわたしたちに、下に降りて来なさい、わたしはあなたの横にいたい、と言ってくださいます。

キリストにこのように招かれて、ザアカイは、高いところから降りて、へりくだって、キリストをお迎えしました。

わたしたちも、キリストを上から見下ろしてしまっていないか、もう一度、自分を振り返って、むしろ、キリストと自分以外の人を見上げる者になりましょう。

キリストは木に上って見下ろしていたわたしたちをも、尊重の眼差しで「見上げて」(5節)、声をかけてくださったのですから。


2023年11月4日 土曜日

おはようございます。

わたしたちは誰にお仕えするのでしょうか。

ヨシュア記24:15 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。

わたしたちは、自分の欲望や財産や地位や人間関係などを最大の頼みとし、それらをあたかも神のようにして仕えるのではなく、まことの神さまにだけお仕えしましょう。

24:17 わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り・・・わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。24:18 ・・・わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。

振り返れば、神さまは、すでに、わたしたちの人生を導き、わたしたちを守ってきてくださいました。

わたしたちは、この神さまを信頼し、この神さまにお委ねして、この神さまに導かれて歩みましょう。


2023年11月3日 金曜日

おはようございます。

イザヤ書1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。

たとえ、わたしたちがどんな罪人であっても、神さまは赦してくださいます。

たとえ、わたしたちがどんなに苦しんでいても、神さまは慰めてくださいます。

たとえ、わたしたちがどんなに弱くても、神さまは強くしてくださいます。

たとえ、わたしたちがどんなに絶望していても、神さまは希望になってくださいます。

たとえ、わたしたちがどんなに孤独でも、神さまはともにいてくださいます。

たとえ、わたしたちがどんなに憎まれても、神さまは愛してくださいます。

たとえ、わたしたちがどんなに不安でも、かみさまは平安にしてくださいます。


2023年11月2日 木曜日

おはようございます。

その人のため、皆のため、という思いをもってなすことも、理解されず、かえって、自分が苦しんでしまうことがないでしょうか。

テモテへの手紙二1:11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。1:12そのために、 わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

パウロはイエス・キリストの福音、善い知らせを人びとに伝える使命感を持っていましたが、それが相手には届かず、苦しむことが、しばしばあったようです。

けれども、苦しみつつも、苦しみに完全に飲み込まれたり押しつぶされたりすることはありませんでした。

なぜなら、イエス・キリストが守り、支えてくださる、と信頼していたからです。

いまはほんとうに苦しいですね。

けれども、キリストがともに苦しんでくださり、かならず、最後まで支えてくださいます。

2023年11月1日 水曜日

おはようございます。

11月になりました。

ヘブライ人への手紙12:28 わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。

わたしたちは揺れ動きますが、神さまは揺れ動きません。

ですから、わたしたちは、揺れ動くときも、揺れ動きながらも、揺れ動かない神さまの手をつかみましょう。

わたしたちが揺れ動いても、主は揺れ動きません。

だから、恐れることはないのです。

いや、恐れても良いのです。

何事をも恐れない神さまがともにいてくださいますから。

2023年10月31日 火曜日

おはようございます。

わたしたちの人生には、なかなか解決できない難問があります。

世界も難問を抱えています。

けれども、最後には、すべて、イエス・キリストが解決へと導いてくださいます。

コリントの信徒への手紙一15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

この「勝利」とは、最終的には、死への勝利です。

これは、わたしたちは死なないということではなく、死がすべての終わりではない、死によっても滅ぼされないものがある、ということです。

イエス・キリストによって、わたしたちは死さえも克服することができるのですから、人生や世界の難題もかならず乗り越えることができるでしょう。

ですから、主にしっかり結ばれて、今日も歩み続けましょう。


2023年10月30日 月曜日

おはようございます。

コリントの信徒への手紙二3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

わたしたちは、神さまから愛され、救われているのに、それを自分自身の生き方に表せていないのではないか、と悩むことがないでしょうか。

たしかに、自分の姿を見ると、神さまの愛からは程遠いし、世界全体を見ても、戦争が続き、やはり、神さまの救いが現われていないように思えてしまいます。

わたしたちには、布がかけられていて、神さまの栄光を反射できていないように感じられます。

けれども、その覆(おお)いは、取り除かれる、とパウロは言います。

わたしたちが、神さまの愛をはっきりと映し出し、世界が、神さまの平和をあきらかに現す日が来ると。

わたしたちと世界は、神さまの愛と光を完全に映し出すものへと造りかえられていくと。

聖霊がそのようにしてくださると。

その日が来ますように、わたしたちと世界が神さまの光を反射する日が来ますように、と切に祈ります。


2023年10月29日 主日(日曜日)

おはようございます。

わたしたちは、自分を悪く思いすぎてもならないし、はんたいに、傲慢になってもならないでしょう。

なぜなら、わたしたちは、神さまの霊が住んでくださる神殿だからです。

コリントの信徒への手紙一3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

自分をどんなに弱い、つまらない、悪いと思っても、わたしたちは自分を否定しすぎてはなりません。

なぜなら、わたしたちの中には、神さまの善き霊、最善の霊、聖霊が住んでおられるからです。

自分をどんなに優れている、すごい、善良だと思っても、わたしたちは傲慢になってはなりません。

なぜなら、わたしたちを生かし、導いていてくださるのは、わたしたちの中に住まう神さまの霊だからです。

創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

神さまがこの命の息を吹き入れてくださるから、わたしたちは、生かされているのです。


2023年10月28日 土曜日

おはようございます。

戦争が終わる日が来るのでしょうか。

わたしたちが人との葛藤に苦しまなくなる日が来るのでしょうか。

神さまはその日をかならず来させてくださいます。

ミカ4:3 主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

そればかりではありません。

すべてのものが新しくされる日が来ます。

戦争も悪も罪も苦しみもない、世界のすべてが新しくされる日が来ます。

使徒言行録3:21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。

この喜びの日を神さまがかならず来たらせてくださいます。

礼拝はその日の先取りです。

礼拝のさんびは、その日を先取りする喜びの歌です。


2023年10月27日 金曜日

おはようございます。

マタイによる福音書7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

これは、わたしたちが願うものなら、神さまは何でも与えてくださる、ということではありません。

神さまがわたしたちに与えてくださるものは、パンであり、魚であり、つまり、いのちの糧(かて)なのです。

わたしたちが、いのちの糧を求めれば与えられ、探せば見つかり、いのちの門をたたけば開かれます。

わたしたちが、ともにいてください、と祈れば、神さまはともにいてくださいます。

わたしたちが、愛してください、と祈れば、神さまがすでにわたしたちを愛してくださっておられるのがわかります。

わたしたちが、平和と平安をお与えください、と祈れば、神さまはわたしたちを平和と平安の門の中に入れてくださいます。

今ではなくてもかならずそうしてくださいます。


2023年10月26日 木曜日

おはようございます。

世界には戦争が起こっています。

わたしたちもわたしたちの苦しみを抱えています。

わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。

ヨハネによる福音書16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

イエス・キリストは、わたしたちが苦難を抱えていることを、知っていてくださいます。

けれども、勇気を出しなさい、と言ってくださいます。

なぜなら、キリストが、世界の戦争やわたしたちの苦しみを乗り越える勇気をくださるからです。

キリストからの勇気、キリストがともにいらしてくださるという勇気があるとき、そこには、平和があります。シャロームがあります。

神さまは、かならず戦争を終わらせてくださいます。

わたしたちの苦しみを平安に変えてくださいます。

そのことを信じて、しずかに、平安に祈り続けましょう。

しずかな祈りの中で、キリストの平安をいただき、キリストの平和に満たされましょう。

祈りと礼拝において、わたしたちは、世界の平和を先取りしていただき、苦しみに勝る平安をいま心にたしかにいただくのです。


2023年10月25日 水曜日

おはようございます。

箴言11:27 善を捜し求める人は主が喜びとすることを尋ね求める人。悪を求める者には悪が訪れる。11:28 富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。

善、善いことは神さまから出るものですから、善を求める人は、神さまを求める人とも言えるでしょう。

神さまを求める人には、神さまが喜ばれることが訪れるでしょう。さらに言えば、神さまご自身が訪れるでしょう。

悪を求める人には悪が訪れますが、救いを求める人には救いが訪れます。

戦争を求める人には戦争が訪れまが、平和を求める人には平和が訪れます。

神さまではなく、富を自分の最大の頼みにする人は、倒れてしまいます。

富は杖にはならないからです。

わたしたちのまことの杖は神さまにほかなりません。

神さまを杖とし、この杖に導かれて歩く人の人生は、葉を茂らせる大樹のように祝福された人生です。


2023年10月24日 火曜日

おはようございます。

この世界の戦争をご覧になって、日々人と争うわたしたちをご覧になって、イエス・キリストは何と言われるでしょうか。

ルカによる福音書19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。

キリストは、争う世界とわたしたちを見て、涙を流してくださいます。

わたしたちが平和への道をわきまえていないことに、平和への道を見いだせないでいることに、わたしたちとともに涙を流してくださいます。

それは、キリストが、世界とわたしたちに平和を示そうとしてくださっておられるからにほかなりません。

イエス・キリストご自身が、世界とわたしたちの平和です。シャロームです。

わたしたちが、平和な心で、キリストに平和を祈り求めるとき、わたしたちは平和で満たされます。

世界の皆が、平和な心で、平和を祈り求めるとき、世界は平和で満たされます。

イエス・キリストは平和をもたらしてくださる平和の主であることを信じて、さらに平和に平和を祈り求め続けましょう。


2023年10月23日 月曜日

おはようございます。

わたしたちひとりひとりと世界が今抱えている苦しみはいつまで続くのでしょうか。どうなるのでしょうか。

マタイ24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。

イエス・キリストは、この苦しみはやがて終わり、新しい何かが生まれる、と教えてくださいます。

24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

イエス・キリストは、わたしたちが、この苦しみを最後まで耐え忍ぶことができるように、しっかりと支え続けてくださいます。

24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。

神さまの国、神さまの愛と平和が世界中に、そして、わたしたちの心の隅から隅まで、満ちあふれる日がかならずやってきます。それが神さまの救いの完成の日なのです。

これを信じて、感謝して、その日が一日も早く来ますようにと、切に祈り続けましょう。

その日は、かならずやってきます。


2023年10月22日 主日(日曜日)

おはようございます。

エレミヤ書32:38 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

神さまの民となるのはどんな人たちなのでしょうか。

32:40 わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。

それはいちど神さまから離れた人たちでした。その人たちと神さまは、永遠に離れないという約束をし、子孫に恵みを与え続け、神さまに従う心を与えてくださるのです。

32:42 まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。

あるいは、それは大きな苦しみを経験した人たちでした。その人たちに神さまは、今や、災いではなく、恵みを与えてくださるのです。

うれしいことに、わたしたちも、この人たちのひとりです。

わたしたちは神さまの民としていただき、神さまはわたしたちの神さまとなってくださいます。

わたしたちは神さまの国の民としていただくのです。

神さまは約束してくださいました。

いますでに、わたしたちは神さまの民であり、神さまはわたしたちの神さまです。


2023年10月21日 土曜日

おはようございます。

わたしたちは、困難な問題にぶつかったとき、これをしよう、あれをしようと、心が落ち着きません。けれども、神さまは、こう言われます。

イザヤ書30:15 まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。

「立ち帰る」とは、神さまに立ち帰ることです。

「静かにしている」とは、神さまの静けさに身を委ねることです。

手を合わせ、目を閉じ、「神さま」「助けてください」「わたしを静まらせてください」と祈り、あとは、何も言葉を発せず、何も言葉を考えず、沈黙し、静かにし、そこに神さまの平安を感じ、じっと、その静かな平安に身を委ねることです。

沈黙の祈りの中に生まれる神さまの静かな平安を信頼することです。

そうすれば、救われる、そうすれば、平安とともに力が静かにみなぎってくる、と神さまは教えてくださいます。

2023年10月20日 金曜日

おはようございます。

心に重たい荷物を背負っておられませんか。

神さまがともに負ってくださいます。

詩編55:23 あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。

重たいものをひとりで負っているときは、つぶれそうになったり、やめてしまいたくなったりしますが、ふたりで負っているときは、相手のことを思い、なんとか持ちこたえようとします。

マタイ11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

イエスさまが休ませてくださいます。

少し休んだら、また、イエスさまといっしょに歩きましょう。

イエスさまがいっしょですから、きっと、また歩けます。


2023年10月19日 木曜日

おはようございます。

わたしたちは、目に見えるもの、確かな証拠を得て、安心しようとします。

けれども、信仰は、目に見えるもの、確かな証拠なしに、神さまと人生を信頼することです。

試験に合格していると前もって知らされていて得られる安心は、目に見える証拠による安心です。

合格しているかどうか結果はまだ目に見えていなけれども、目に見える証拠はないけれども、神さまが何とかしてくださるから大丈夫と、心の深いところに平安を得ているのが、信仰です。

ローマの信徒への手紙8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

信仰は、聖書に記されている神さまの言葉、御言葉を信頼することであり、言葉がとても大切ですが、同時に、言葉で言い表されないものも大切です。

8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

わたしたちは苦しみの中で、祈りの言葉さえ見つからないことがありますが、じつは、聖霊は、言葉になっていないうめきによって、わたしたちの苦しみを神さまに伝えてくださる、と言うのです。

苦しみだけでなく、愛も言葉で言い表せませんが、とても大切なものです。

わたしたちの信仰は、目に見えるもの、言い表せる言葉だけでなく、目に見えないもの、言葉にできないものも、また、大切にします。


2023年10月18日 水曜日

おはようございます。

フィリピ4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。4:27 悪魔にすきを与えてはなりません。

わたしたちが怒るとき、悪魔はそこにすきを見つけて、忍び込んできます。

4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。

怒りに任せた悪い言葉を口にするとき、聖霊は悲しまれます。人を壊す言葉ではなく、むしろ、その人を支え、生かす言葉を心がけましょう。聖霊は喜ばれます。

4:31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。4:32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

神さまがイエス・キリストによって、わたしたちを赦してくださいました。それに感謝して、わたしたちもたがいに赦しあいましょう。

そのために、冷

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