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2015年11月22日 「あなたは”本当に”幸せですか?」

2015年11月22日 「あなたは”本当に”幸せですか?」

【聖 書】ルカによる福音書6章20節~26節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 私たちは、どうすれば「幸せ」になれるのでしょうか?
 この問いは、人間ならば誰でも、一度ならず何度も考えるはずです。そして、私たちは「幸せの基準」を設定して、その目標に向かって歩もうとします。ある人は健康が、ある人は経済的な豊かさ、ある人は家族、仕事、趣味、スポーツ、美食などなど、、、さまざまな目標が設定されるでしょう。しかし、これらの中に共通するのは、人間は「幸せ」を求めて歩む存在である、ということなのです。
 主イエスは弟子たちに向かわれて、「幸いと不幸」について語られました。何が幸いであり、何が不幸であるか。その語られた言葉は、私たちが一般常識では理解しがたいものであった、ということです。幸いとされるものが、「貧しさ」であり、「飢え」であり、「泣くような状況を生む悲しみ」、「憎まれる姿」、「迫害される様」が、すでにその人たちにとって「幸い」であるというのです。私たちは、このイエス様の言葉を受け入られるでしょうか?たとえ信仰者であったとしても、この言葉を言葉のままに受け入れるには、違和感があるのではないかと思うのです。
 では、一般でまかり通らないようなこれらの言葉を、どのように受け入れることができるのでしょうか。私たちは、「神と共に歩む幸い」というものを、主イエスはお語りになられたのだ、ということを自分の心の中に置けば、苦しみや痛みが私たちを襲おうとも、主がその苦しみと共に歩んでくださる幸いを、味わうことができるでしょう、と、私たちに呼びかけておられるのです。
 逆に、主イエスが語られた「不幸」とは、満ち足りた姿―私たちが普通に幸福と思える姿―を、不幸であると断言しておられます。人間は満ち足りれば、もはや神を求めることは無くなってしまいます。モノは満ちあふれても、自分自身の足りなさを感じれば、神を求めることはいくらでも可能です。大切なことは、自分自身を見つめる中で、私たちの幸いのために、主が命を投げうたれたという、私たちの常識では考えられない行いを、私たちに与えられたことによって、本当の「幸い」が実現した、ということなのです。
 私たちは「真の幸い」に、心を寄せるものでありたいと願うでしょうか?その思いがあれば、わたしたちは、既に「幸いな者」とさせられているのです。そのことを信じましょう!

 

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