私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年10月9日 「今日も、あしたも、あさっても」

2016年10月9日 「今日も、あしたも、あさっても」

【聖 書】ルカによる福音書13章22~35節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要約】

狭い戸口から入るように努めなさい。難関と呼べるような場所に入るために努力する姿は、世の中でも受験のシーズンなどになれば、よく見られる光景です。主イエスがこのようなことを言われた背景には、自分たちの「救い」に関して興味を抱いていた人の質問がありました。長い歴史を通して、私たち人間は救済ということが様々な形で追求されてきましたが、主イエスの答えは、それは難関であるということなのです。

教会はこの聖書の言葉を用いて、救いの重要性を説き続けています。しかし、時によっては救いの対極にある滅びをちらつかせたり、宗教の違いに格差をつけるような表現の方法として、この聖書の言葉が利用されてきたのも事実です。私たちは救いに関する聖書の言葉を読み、そこから神様のメッセージを聴くときに、先に述べたような「行き過ぎ」とも言える聖書の読み方から離れる必要があります。聖書は人を裁くための材料ではなく、あくまで「自分自身を見つめ、整える」ために神から与えられた言葉のプレゼントであることを、しっかりと認めていくことが大切なのです。

そういう意味で言えば、信仰者だから、バプテスマを通して救われたという理由で、それが誇りとなることがあったとしても、自分自身がおごる必要はどこにもありません。救いのチケットは永遠です。しかし、私たちはチケットの価値というものを知らない限り、それは宝の持ち腐れになります。つまり、主の救いを自覚したときにはじめて、救われた自分自身がメンテナンスされていくように、整えようという気持ちに促されるのです。

私たちは主を信じる生活に、揺らぎを感じることがあります。神との距離を縮めることもあれば離すこともある。しかし私たちの主は、どんなときにも今日も、あしたもあさっても、変わることなく私たちに向き合ってくださいます。だから主のもとへ帰ることができるのです。そういう主を、私たちは救い主として頂いておるのです。

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