2016年9月18日 「キリストの教え方」
2016年9月18日 「キリストの教え方」
【聖 書】ルカによる福音書13章1~9節
【説 教】齋藤 篤牧師
【説教要約】
「罰(ばち)が当たる」という考え方は、古今東西変わらない人間の思うことです。その伝統を担ったのは宗教という言い方もできるかもしれません。神様を信じない、もしくは神様の望むことをしてこなかったから、神罰が下ったのだ。そのように思うことは人間のおごり高ぶった姿を見つめ直して、謙虚になる道であったことは間違いありません。
しかし、罰が当たるということを他者の様子や行動を見た結果、相手を非難するための理由として、言葉を用いてしまうのが、私たち人間の悪い癖とも言えます。大体そういう場合、自分自身は正しい、相手は正しくないという優劣を定める私たちの思いがあります。しかし、そんなに私たちは優れているのでしょうか?主イエスは、そんな私たちの思い違いに気づきを与えようとされました。
神は、いたずらに罰を下す方ではありません。しかし、私たちが日々の生活で、自分の至らなさであるとか、改善すべきことに気付いて、自分自身を見つめ直すことができるように、導いておられる方です。
あるいちじくの木がありました。実のなり易いいちじくですが、にもかかわらずこのいちじくの木は3年も実がなりませんでした。この木の持ち主は業を煮やしました。こんな役立たずの木など切り倒してしまえと、庭の管理人に命じます。
管理人は待ってくださいと願います。肥しを与え、手入れをし、実がなるまでいちじくの木に愛情を注ぐのです。これが「キリストの教え方」です。役に立たないからと簡単に投げ捨てず、じっくりと育つのを待ってくださるのです。そういう意味で言えば、私たちは実のならないいちじくの木かもしれません。役立たずと思われても仕方のないくらい、良いものを生み出せないかもしれない。しかし、主イエスという園芸師によって、忍耐のうちに私たちを養ってくださいます。そして、実が一つなる時、主は一緒に喜んでくださるのです。