2017年3月12日 「望郷」
2017年3月12日 「望郷」
【聖 書】ヘブライ人への手紙11章16節
【説 教】齋藤 篤 牧師
【説教要約】
作物の収穫を終えて、枯れ木となり冬が訪れる頃、私たちの先人は「命の終わり」というものを見つめました。キリストの教会が長い歴史の中で、11月はじめに死者のことを想う礼拝を行なうようになったのは、そのような理由からでした。
しかし、聖書を通して私たちに伝えていることとは、「命の終わり」というものがそのまま終わってしまうものではない、ということなのです。「命の終わりは命のはじめ」と、ある詩人は歌いました。聖書には「命の復活」を、もっとも大切なニュースとして取り上げています。キリストはそのために、私たちの先頭に、そしてしんがりに立ち、私たちに踏みつけられつつ十字架にかかれられました。その結果、私たちに与えられたのが、神の国(天国)における「永遠の命」だったのです。
私たちにとって、愛する仲間が亡くなり、失う経験をするというのは、この世のさだめであることが分かっていても、やはり悲しさや寂しさの中にあります。しかし、キリストが永遠の命を私たちに希望として与えてくださったということは、今、この時、場所や状況こそは違いますが、明らかに一緒に神様を見上げて礼拝をし、喜びの歌を歌い続けているのです。
「望郷」という言葉があります。誰でも思い焦がれるふるさとがあります。たとえその地が荒れ果てて、人の住めるところでなかったとしても、ふるさとの価値は、当人にとっては決して消えることはありません。聖書では、信仰の先達がまるでふるさとを恋い焦がれるように、そこに思いや望みをもって、天国を見つめ続けたことが記されています。これは、私たち一人ひとりにとっても、時代が過ぎても何ら変わることのない希望であるのです。
私たちは天国へ行けるでしょうか?大切なのは、「行きたい」という気持ちと願いです。そう願うならば、神様は私たちが行けるにふさわしい者として整えてくださるのです。そして、天の都での永遠の命の喜びをいただくことができるのです。