2024年1月28日「なぜ泣くのか?」
2024年1月28日「なぜ泣くのか?」
なぜ泣くのか?
そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」(使徒言行録21:13)
私たちが敬愛してやまない池治兄が主の御許に召されてゆきました。73年半のご生涯でした。池兄は長く闘病しておられ、その容態は奥様からお聞きしておりましたので、私自身、心の準備はできていると思っていました。けれども1月15日夕刻、召天の報せを聞き、そののち池兄の亡骸にお会いした時に私は、自分が思っていた以上の深い悲しみに打たれました。
その夜、妻と遅くまで池兄の思い出を語り合い、床に就いてからもずっと池兄のことを思っていました。あくる朝、目覚めると心に御言が浮かびました。本日の聖句です。死の危険が待つエルサレムへ赴くパウロに対し、人々は「パウロ、行かないで!」と泣きながら懇願します。しかしパウロの決心は変わらず、彼は冒頭の言葉を残してエルサレムへ向かいます。(事実、パウロはエルサレムで捕らえられ、ローマに送られ、そこで殉教したと伝えられています。)このときのパウロと人々の情景が、池兄と私たちの姿に重なりました。池兄は私に「なぜ泣いているんだい? 僕はキリストのためなら、いつでも死ぬ覚悟はできているんだ」と語っておられるようでした。
池兄と最後にお会いしたのは昨年10月19日。宣子姉、田代兄、私と家内で病床訪問致しました。すっかり痩せて、意識も朦朧としておられましたが、耳元で聖書を朗読し始めると、カッと目を見開いて顔に生気が戻ってきたのです。私たちは皆、驚きました。池兄は言葉を発することはできませんでしたが、私たちの手を握り返して「アーメン」「アーメン」と御言に同意なさるのです。私たちは歓喜に満たされ主を賛美しました。苦しい闘病生活の只中にありながら、池兄はしっかりとイエス様を見上げ、信仰の馳せ場を勇敢に走っておられたのでした。
池兄のお人柄は、柔和で謙遜。「受けるよりは与える方が幸いである(使徒20:35)」を地で行く方でした。まさにキリスト者の模範です。私たちも池兄の勇姿にならって、信仰の馳せ場を走り抜きましょう。
(2024年1月19日 池治兄召天式説教より)(よ)