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2024年3月3日「後で考え直して出かけた」

2024年3月3日「後で考え直して出かけた」

後で考え直して出かけた

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」(マタイ21:28~29)

 皆さん、主の御心だと分かっていても、従うことに葛藤を覚えるときがあるでしょうか? 私はこれまで何度もありましたが、最近もまたこれを体験しました。実は母がだいぶ歳をとってきまして、高齢者向け住宅への転居を検討し始めました。当初、私は反対で弟は乗り気でした。詳細は割愛しますが、その話し合いの中で、どうにも弟の言動に腹が立って怒りをぶちまけたい衝動に駆られました(お恥ずかしい、、、)。けれども主は「怒るな」と言っておられるように思えました。私はひとり主の前に出て、弟の言動について、ひとしきり主に訴えました。それでもやはり主は「怒りを遅くする者は、城を攻め取る者にまさる(箴言16:32)」と言われます。仕方なく私は、怒りの感情は収まりませんでしたが、行動は、へりくだりました。するとどうでしょう。すべてが良い方向に進んでゆきました。今は、あのとき自分の感情にまかせて行動しなくて良かった~、と心底、主に感謝しています。

 冒頭の御言は、父の求めに対して「いやです」と答えた息子が、あとから考え直して出かけたという記事です。感情とはなかなか変わらない、やっかいなものです。けれども彼は(感情はどうあれ)考え直して出かけたのです。気持ちはモヤモヤしていたかも知れません。でも彼はぶどう園に行ったのです。

 「悔い改め」という言葉はヘブル語ではシューブ、ギリシャ語ではメタノイアと言い、「方向を変える」という意味です。実はシューブにもメタノイアにも「悔いる」とか「反省する」という意味はありません。もちろん、方向を変えるためには反省することも必要でしょうから、それを否定すべきではありませんが、原語の語意には含まれていないのです。逆に言えば、いくら悔いて反省しても、方向を変え、行動を変えなければ悔い改めにならない、ということです。主に従うことは、ときとして葛藤が伴います。けれども主は良いお方。従う者に豊かに報いて下さいます。信じて従ってゆきましょう。(よ)

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